蟹姫
むかしむかしのそのまた昔。人間に恋をして、そして叶わないままに泡と消えていった哀れな人魚姫のお話がありました。その伝説は今も世界中のあちこちで語り継がれています。もちろん、海の中でも。
その話になるといつも、愚かなことだと長老は言い、渋い顔をします。だけど、カニ姫はそれが不思議でなりませんでした。「好き」という気持はとても尊いことなのではないかしら。ああ、私もまたきっと愚か者なのだわ。
なぜなら、彼女もまた人間に恋をしていたのですから。
とある夏のこと、浅瀬にぷかりと浮かんでいるのが姫の日課になっていました。うっとりと見つめる視線の先には美しい青年がおりました。逞しい肢体。節くれだった姫の手足とは大違い。笑いながら友人に語りかけるその声も爽やかな風のようです。わたしなんて、口といえば食事をするか泡を吹くか、そんなことしかできないのに。カニ姫は悲しくなってきてしまいました。
「浮かない顔をしてどうしたんだい、お嬢さん」
突然知らない声に呼び掛けられ、姫はおそるおそる振りかえりました。
「誰…?」
「なに、ただのしがない魔法使いってやつさ」
「……ザリガニなのに?」
「おや、カニ様はザリガニを下等な生き物と蔑むのかい?」
自分の中に眠る差別心というものに気付かされ、姫はなんだか恥ずかしくなりました。カニ族もザリガニ族も、同じ水中生物だというのに。
「ごめんなさい、お婆さん。私、全くそんなつもりはなかったの」
「そう謝りなさるな。素直な娘さんだね、関心関心」
ハサミをガチリと一鳴らしすると、老婆は言いました。
「ところでお嬢さん、お前さんの悩み事、ずばり遠くに見えるあの人間の青年のことだろう?」
姫はぎくりとしました。つい最近長老から話をきいたばかりだから、こっぴどく怒られる! そう思い、思わずぎゅっとかたく目をつぶりました。
けれど、頭上から降ってきたのは、堅いハサミではなく、甘い蜜のような言葉でした。
「お嬢さん、人間になりたくはないかい?」
「え……?」
意味がさっぱりわかりませんでした。確かに老婆は魔法使いと言ったけれど、まさか魔法が使えるなんて――。姫の混乱なんてお構いなしに老婆は続けます。
「そう、人間になるのさ」
「そ、そんな昔話みたいなこと、できるわけがありません」
「それができるんだよ。しかし、お嬢さんが信じないのならこの話はナシだ。さて、どうするかね?」
「でも、人間になるって言ったって何をすればいいのか……」
「あの青年が気になるんだろう? 好きだと思いを伝えればいいじゃないか」
姫は再び彼に視線を向けました。去年、初めてみた時よりも少し大人びて、少年から美しい青年へと成長している彼。
「確かに、私は彼に一目ぼれしました。去年の夏、彼が初めてこの海を訪れてから、1年越しの恋です。だけど、」
「種族が違うのだから、一緒になれるわけがない――そう思っているのだろう?」
「わかるんですか?」
「魔法使いだからね」
人間と違いカニというものはすぐに歳をとります。おまけに小さいので、他の魚に捕食されるかもしれません。来年まで生き続けられるかわからない。そんな不安定な生の中で、恋をすること。これは命がけのことです。長老の教えを破るのは忍びない。だけど、今後のカニ生において、オスのカニをこれほどまでに恋こがれることがあるのだろうか。考えた末に、カニ姫はザリガニ老婆の言葉にのることにしました。
「お婆さん、私、人間になる!」
ただし、忘れちゃいけないよ
姿は人間になったとて、カニの一生はカニの一生
そう長くは生きられないからね
カニ姫が目を覚ますと、そこは浜辺でした。一口サイズで食べられる砂の粒のひとつひとつがとても遠くにあるように感じられました。
「まさか……」
飛び上がるように足元を確認すると、まぎれもなく人間の二本の脚が生えていたのです!
「人間になってる!」
これまでの節くれだった細い腕とは違い、すらりと伸びたしなやかな腕、すべすべとした白い肌、肩までゆるくウェーブがかった紅い髪。服を着ていないところ以外は何もかもが人間そのものです。
「夢みたい……」
カニ姫がうっとりしていると、後ろから声がしました。
「き、君!」
それは、恋こがれるあの青年の声でした。
「えっ、わ、私……」
姫はすっかり舞い上がってしまい、あわあわと言葉につまってしまいました。そして青年は顔を赤らめながら言いました。
「き、君はどこから来たんだい?」
「あっ、えっと、あの……海の底、です」
「何を言っているんだい? えーと、このままでも仕方ないから、うちに来ない? 母の服でかまわないなら、貸してあげられるし」
これは願ってもいない幸運でした。姫は大きくうなずき、青年のあとに続きました。
青年に手をひかれ、ついたところは海沿いにある地中海風の白い家でした。
「ここは僕の家の別荘なんだ。なかなかお洒落な建物でしょう」
「きれい……」
目を輝かせてうっとりする少女を見て、青年はやさしく微笑みました。
「君、家はどこなんだい?」
「海の底よ」
「さっきから僕をからかっているのかい? 名前は?」
「なまえ……」
姫は困ってしまいました。海の底ではそれぞれカニはカニ、ザリガニはザリガニでしかなく、特定の名前というものは持っていなかったからです。
「名前もわからないのか。もしかしたら、記憶喪失なのかな。どこかからか漂流してきたのかもしれないね。昨晩は酷い嵐だったから」
むむ、と青年は考えこむと、
「じゃあ、君の名前はクララにしよう! 記憶を取り戻すまでは、そう呼んでもいいよね?」
姫は今にも卒倒しそうでした。憧れの青年からついに名前を呼んでもらえた喜び。
「クララ……あ、ありがとう! あなたの名前は?」
「ああ、そうだ。僕はカイトっていうんだ。よろしくね」
「よろしく、カイト……!」
姫は本当に、本当に幸せでした。
それから三日間、姫は甲斐甲斐しく青年の手伝いをしました。青年の家族ともすっかり打ち解け、笑って話し合える仲になりました。そして四日目の朝、青年の家族はいよいよ自宅へと戻ることとなりました。姫は青年と離れ離れになってしまうのでは、と悲しくなりました。当然、青年の家族は海で拾われたのだから、海の街に住んでいればいずれ記憶を取り戻す手掛かりなども手に入るだろうと主張しました。しかし、それに反対したのは他の何物でもない、青年だったのです。
「だけど、彼女は一人ぼっちだ。こんなにか弱い女性一人がどうやって暮らしていけばいい?」
そのあまりの熱意に、青年の母親は仕方ないわねと少し困ったような、しかしとても優しい微笑みを姫へ向けると、家へいらっしゃい、と言いました。
姫はもうこの世が終わってしまってもいい、とすら思いました。自分以上に幸せなカニはきっとこの世に存在しないわ。そう思ったのです。
青年の自宅は海の町から少し離れた山の上にありました。車でがたがたと山道を登っていく最中、眼下に広がる海を見て、少女は少しだけ胸が痛みました。しかし、これからも青年と一緒にいられる。その喜びが彼女を包みこみ、大切なことをすっかり忘れさせてしまいました。
「着いたよ」
およそ四時間の車での移動の後、青年の家に到着しました。それはレンガ造りのしっかりとした中世的な洋館でした。
「これも、すごい……」
「そうだろう? 自慢の家さ」
これがお城だと言っても過言ではないような豪奢な家。大きな木の玄関扉をくぐると、まずはじめに大きなシャンデリアが目に入りました。
見るものすべてが海の町とは違う光景に、姫はすっかり心を奪われてしまいました。自分の知っていた世界はなんてちっぽけだったのだろう。そう思ったのです。
そのとき、ギチリと何かがきしむような音が聞こえました。
「危ない!」青年の叫び声。ジャラジャラと何か金属がこすれ合うような音。見上げると、天井からシャンデリアが姫をめがけて落ちてくるところでした。
お前が生まれた場所はどこだ?
故郷を忘れてまで、一体何を手に入れたかったんだい?
それを忘れてはいけないよ
それはあまりに一瞬すぎて、姫の瞳には落ちてくるシャンデリアの金属と、その輝きを反射するガラス玉のキラキラとした光景が強烈に刻みつけられました。そのきらめきは産まれたところを思い出させる、静かな波のさざめきのようでした。
ぐちゃり。
甲殻を足で踏みつぶしたような音。その音すらほんの一瞬。人間に恋した哀れなカニのお姫様は、故郷から遠く離れた山の中でその波乱の一生を終えました。
おわり。
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