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 それにしても、なんて汚らしい街なんだろうと思う。ハチ公おわすはトーキョー・シブヤ、若者の街。いつだって人でいっぱい。都会は苦手だ。世界のなんと人間で溢れていることか。

 ここは道玄坂、の、細路地。まだ耳の奥がジンジンしている。小さい箱に溢れた音の海から現実の岸辺に立ち返った後の浮遊感がとても心地いい。

 たまには冒険なんぞもしてみるものだ。初めて見るアーティストのライブだったが、実にいい公演だった。古代エジプト文明を模したような衣装や楽器やセット、観客までも巻き込んだ激しいパフォーマンスやらえとせとらえとせとら……途中、もはや何が何だかよくわからなかったけれど、とにかく圧倒された。私にはこれといった思想や宗教観も何もないけれど、神秘的な魅力のあるバンドだった。まあ要するに一言で言ってしまえば、前衛的ということだ。

 物販で買ったCDは早く家に帰って聴いてみよう。楽しみだ。いかがわしい風情のホテルや黒服のお兄さんたちの間をすり抜け、大通りを目指す。

 いい気分だった、とはいえ、やはり都会は嫌いだ。汚い空気を吸って、吐いて。正直、呼吸も煩わしい。この空気が肺に充満していくことを思うと吐き気すらする。けれど呼吸をせずには生きられない。だから仕方がない、代わりに耳を塞ぐ。ヘッドホンは中学を卒業した頃からの相棒だ。

 ライブの余韻を引きずりたい気持ちはあるけれど、ヘッドホンがないと落ち着かないのだから仕方がない。ヘッドホンを装着し、ウォークマンに接続。そのままウォークマンを操作し、今の気分に合った、何かこう、最高にハイってやつな楽曲を探す。探していた。その時。

 突然、画面、フェードアウト。

 ちっ。

 私としたことが、充電切れだ。小さく舌打ちをして、渋々ヘッドホンを外す。無音のヘッドホンほど虚しいものはない。少し気分は下がったけれどまだ私は元気、今のテンションだけでご飯三杯はいける。代わりに、聴いたばかりの曲たちを頭の中でリピートさせてみる。自然と身体が動いてしまう。

 と、足元から突然の可愛らしい鳴き声。

 ――みゃあおう、みゃあお。

 ねこ。子猫だ。

 車の往来はそう多くないとはいえ、あまり見通しのよくない通りだ。轢き逃げというやつなのだろう。雄か雌かはわからないが、親猫だったであろう肉塊に向かって子猫がみゃあみゃあ必死に鳴いていた。

「みゃあお?」

 何だ不細工な鳴き声は、と、思ったら、出所はどうやら私の唇だったらしい。黒服集団に聞かれていないことを祈る。可愛いものには目がないのだ。不細工な鳴き声には気付かず、子猫は鳴き続ける。臓物を撒き散らしたような無残な死骸にはなっていないとはいえ、かなりの出血はしてしまっているらしい。鳴きながら親猫の傷口を舐めている。勿論、いくら傷口を舐めたところで親猫は生き返りはしない。

 小さい命がこうも懸命に生きろ、と呼びかけているのに。胸が痛んだ。

「……みゃおう」

 ほんと、不細工な鳴き真似。私の声にはっとしたように振り返る子猫。心細げな視線は不審な人間に対する怯えではないことを願うのみ。

 私は視線を合わせるためにしゃがみ込んだ。普通の猫なら走り去ってしまうところなのだろうけれど、この子はその場を動こうとしなかった。

 白に茶色のブチ。野良なのだろうか。よく見ると、額のところに、星の形のようなブチがある。

「かわいいな、お前」

 みゅう、と少し不安げな顔。猫って、なんて人間くさい表情をするものなのだろう。

「君のお母さんだかお父さんだか知らないけど……その親猫は帰ってこないよ、もう」

 人間の言葉が通じるものか、とは思う。思うけれど、言わずにはいられなかった。

「こんなところで一人で生きてくなんて、可哀想なもんだな、猫って」

 私には、絶対無理だ。一人でこんな人ごみの街に取り残されるなんて。きっと、耐え切れなきれなくて途中で死んでしまう。

「お前、うち来るか?」

 何人もの人が私の背後を通り過ぎる。訝しむでも軽蔑するでも興味を持つでもない、ただそこにあるものとして一瞬目に留まるだけの、無関心な視線。だからこの都会は嫌いなんだ。

「一人じゃ寂しくないかね」

 手を伸ばす、触れる。と、あったかい。

「一人暮らしは寂しいんだよ」

 一人は寂しいもの。だけど、人ごみは嫌い。一人であるということがより浮き彫りになる、ということをよく知っているから。

 子猫は再び親猫に向き合い始める。こりゃ駄目かな。私は立ち上がり、大通りへ向けて歩き出した。

 結局、どこに行っても一人なんだろう。音楽を聴いている間だけは一人じゃない、と、思えていただけに。ついさっきまで。

 ……あ。

 足元。に、路傍の花。街路樹の根っこの傍。少しくすんだオレンジ色。名前は知らない。ほとんど反射的に、ぷちり、と、摘み取る。私も、この花も、猫の死骸とその子供も、誰の目にも止まらない者同士、きっとお似合い。

 依然、子猫は親猫の傍でみゃあみゃあ鳴いている。

「ほら」

 突然差し出された花に、子猫、一瞬びくっとして振り向いた。

「……ご冥福をお祈りします、ってね。元気に生きろよ」

 道玄坂、下る。

 あの子猫はいつまでもきっと親の傍にいるのだろう。誰かに拾われるか、そのうちに諦めてどこかへ行くか。こんなごみごみした街だ、生きる糧には困らないだろう。

 見上げれば一筋の雲。

 神様なんか信じちゃいないけど、ああ、母なる御空よ。

 ひとつ、立ち上っていった魂に安らぎあらんことを。

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