TABOO
ネオンが煌々とともる夜の街。そこかしこにバーや安ホテルが立ち並ぶ。普段では立ちいりはしないであろうその街に、わたしは足を踏み入れた。
街路を埋め尽くす人間は男も女も媚びたような笑みをたたえながら夜を共にする相手を探していた。実に美しくない。こんなところで何をやっているのだろう。昨晩の彼の言葉を思い返し、わたしはため息をついた。
昨晩、わたしは自宅へ彼を初めて招いたところだった。都心にある高層マンション。そう高級なところではないが、言えば多くの人々は羨望の眼差しを向ける、そんな場所にわたしは住んでいる。
「これ、君が撮ったのかい? 綺麗だね」
煙草に火をつけながら、ベッドサイドにかけられた写真を見上げ彼がつぶやいた。
「ええ、趣味なの。みんなそう言うわ」
「だろうね。でも、なんだろう、何か物足りないなあ」
「あら、何かしら」
この時点で、わたしの自尊心は少しだけ傷つけられていた。わたしは美しいものが何より好きだ。趣味の写真もわたしが美しいと感じたものへレンズを向けていた。
「毒気、とでもいうのかな。ただ美しい、綺麗ってだけで、あまり身が詰まってない感じがするんだ」
「……身?」
「ま、素人だからあまり批評めいたことはできないけどね」
それからわたしたちは言葉を交わすことなく、彼は眠りについてしまった。上下する肩を見つめながら、わたしは考えた。次に彼と会うまでに、驚かせるような写真を撮ってやろう、と。
わたしがもっとも美しくないと考えるもの――薄汚い街、貧しさ、はしたないもの。それらを求め、この町へ来たのだ。実際訪れてみると、ここはわたしの予想を遥かに上回っていた。ここに住まう人も、安息を求め訪れる人も、あまりに惨めだと思った。この街のものをカメラに収めるなんて……考えただけで、ぞっとした。わたし自身の価値観が穢されるような気すらしていた。
もう帰ろう――そう思い、わたしは駅へ向かった。
「ねえあんた、この街に来たのは初めて?」
子供の声がわたしをとらえた。
「あんた、って……人に声を掛けるときにはもう少し礼儀ってものが――」
振り返ると、少女が立っていた。薄い黒のワンピース一枚で、ガムを噛みながらこちらを見据えていた。
「ふうん、初めてなんだね。案内してあげるよ。どんな男が好み? ここにはどんな男だっているからね、きっと満足するさ。あ、それとも女のほうがよかったりするのかな。あはは」
まったく目が笑っていない。
「あのね、わたしは男を探しに来たんじゃないの。こんな汚い街、来たくて来てるんじゃないわ。それに、今から帰るんだから」
「汚い街、ねえ。それは残念。じゃあね、お姉さん」
少しも残念がっている様子もなく、少女はくるりと振り返ると再び街の中へと姿を消そうとした。わたしは少女の首筋に目を奪われてしまった。
「ねえ! その首筋の――」
「ん? ……ああ、これね。なに、あたしに興味あるの?」
こちらを品定めするように少女の目が鋭く光った。年齢不相応の眼力に軽く気圧されそうになる。
「あ、あなたそのもの、というより……そのタトゥー、ちょっとよく見せてもらってもいいかしら?」
「ふうん。別に構わないよ」
「ありがとう……」
少女の細い首筋に手を掛ける。普通にしていると髪に隠れてしまって見えないが、そこには蛇のタトゥーが彫られていた。
「綺麗ね……」
ほとんど無意識に呟いていた。翠色の蛇。何かを捉えようと虚空に伸びた舌があまりに妖艶で、こちらにまで伸びてくるような錯覚に襲われる。
「不躾なお願いかもしれないけれど……これ、写真に収めても構わないかしら……?」
「写真? なんかよくわからないけど、変わってるね。いいよ、相手してあげる。どうせ暇なんだ」
「ありがとう。それじゃ、そのままの姿勢で――」
首にかけたカメラのレンズカバーを外し、ファインダー越しに少女を捉える。
「ここで写真撮るの?」
「そうよ、そのまま――」
視界が突然暗くなった。少女がカメラのレンズを手で塞いでしまったらしい。
「ちょっと、何をするのよ」
「こんな街中で写真なんて撮るのか、って訊いてるんだよ。ねえ、どうせならもっと綺麗なところで撮ろうよ。いいホテル知ってるんだ。あたしが口きいてあげるから、部屋代はいらないよ」
「でも――」
そのホテルとやらも綺麗かどうか怪しいものだ。
「大丈夫だよ、別に誰も来やしないよ。あたしたち二人だけにしてもらうからさ」
「そういうことじゃなくて……まあ、いいわ。それじゃ案内して」
「最初からそう言えばいいのに。じゃあ、付いて来て」
結局、わたしは根負けして彼女の後に付いていくことにした。案内された場所は確かにこの街の中では良い方に分類されるであろうことはわかった。とはいえ、わたしからすれば十二分に安いホテルであることには変わりないのだが。
信じがたいほどの薄さの掛布団、強度が心許ないパイプベッド、ベッドサイドに置かれた枯れかかった一輪挿しの花がより貧しさを醸していた。
「シャワーは使えるようになってるはずだよ。浴びてく?」
「冗談言わないで」
「あながち冗談でもないんだけどね。まあいいさ。じゃあ、写真撮るんだろ? お好きにどうぞ」
冗談めいた台詞を吐くときにも微動だにしない薄ら笑い。どこか恐ろしいものを感じながら、わたしはカメラを手にした。
「それにしても、あたしなんて撮ってどうするつもりなのさ? こんな薄汚い娼婦の餓鬼なんて撮っても面白くもなんともないだろうに」
「誤解しないで。わたしはそのタトゥーに興味があるだけなの」
「そう。別になんでもいいけど」
少女は右手で髪をかき分け、首筋のタトゥーをこちらに向けた。
「見える?」
「……ええ、よく見えるわ」
見れば見るほど不思議な色香の漂うタトゥーだ。蛇そのものが官能の象徴とも言われているが、それも納得というもの。どうしてかわからないけれど、シャッターを切る手が止まらなかった。官能的でどこか背徳の香りのする魅力にわたしは衝動を抑えることができなかった。
「この蛇は、何かモチーフがあるの?」
「あんたも好きだね。エデンの園でイヴを唆した蛇なんだってさ」
「そ、そうなの……」
なるほど、それは納得だ。その蛇は悪魔の化けた姿とも言われ、聖書によればイヴを唆し、あらぬ誘惑の淵へと迷い込ませたという。
「まったく、あたしにぴったりだよ」
出会ってから一番の楽しそうな声色で少女が答えた。ざっくりと開いたドレスの肩口からちろちろと舌を伸ばした蛇がこちらを狙い澄ましている。この小さな身体のどこにそんな魔性を潜ませているのだろう、という好奇心に駆られ始めていた。
「ねえ、他にもタトゥー彫ってたりするの?」
「なに、見たいの?」
「少し、だけなら……」
少女は振り返ると、それ見たことかとばかりに満面の笑みを浮かべ、こちらへ近づいてきた。
「ははっ、いいよ。見せてあげる――」
「なにを――」
言うが早いか、吸い付くように唇を塞がれてしまう。その手口の鮮やかさたるや。ゆっくりと彼女の舌先が唇を離れ、顎に、首筋に、鎖骨にまで到達する。
「な、にをするの……」
「知ってるでしょ? この蛇が何をしたか」
再び唇が重なった瞬間、わたしの腰はがくりとベッドに崩れ落ちた。
彼女の手が少しずつわたしを露わにしていく。毒にやられて痺れてしまったかのように、身体にまったく力が入らない。魔法でも使ったのだろうか。脳が快楽を求め始めていた。徐々に思考が理性から解き放たれていくような、神経の奥底で悦楽が弾けた。
わたしを丁寧に愛する彼女の仕草はさながら蛇であった。指先から舌先から、どこもかしこもわたしにぴとりと張り付き、同性であるが故か、善いところを実に的確に可愛がっていく。
そして幾度目かの絶頂に達した時、わたしは意識を手放した。
あれからどれほどの時間が経ったのだろう、わたしは意識を取り戻した。
「さっさと着替えちゃいなよ。なんだ、どれだけ虚勢を張っても所詮は女だったってわけだねえ、可愛い可愛い」
彼女は慌てて服を着るわたしをからかうように見詰めた。悔しい。
「結局これが目的だったの……?」
「そう怒るんじゃないよ。それはこっちの台詞さ。ま、みんなそう言うんだけどね、男も女も」
そう言うと、少女はカメラをわたしに寄越した。
「あんたが寝てる間、勝手に見せてもらったよ。なかなか綺麗な写真を撮るじゃない。ま、被写体のお蔭だろうけどね」
「ふん、馬鹿言うんじゃないわよ」
口先だけでけらけら笑うと少女は部屋の扉を開けた。
「じゃあね、お姉さん。その写真、大切にするんだよ」
少女は出会った時と変わらない薄ら笑いでわたしを見送った。
それから一週間が経った。大きく引き伸ばした少女の写真を額縁に収め、自室のベッドサイドへ飾った。しばらくぶりに部屋へ訪れた彼は写真を見ると、
「へえ、今度はなかなかエキゾチックじゃないか」
と言った。褒めているのかそれとも今一つだったのかまでは判別がつかなかった。
その夜。彼の腕の中で驚くほどに冷静なわたしがいた。あの街で出会った蛇、あのひやりと冷たい指先が、ちろちろと這い回る舌先が忘れられなくて――
わたしは始終目を閉じたままで、空虚の中に果てた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます