partA///short stories
ヒロセアリサ
hAI
世界は想像をはるかに超えた速度で、彗星のように輝きを放ちながら刹那と消えていく。やせ細ったこの腕では、もう手に入れることのできない日常が渦巻いている。終わりが見えてくるほどにそれはとても愛おしく感じられるものだ。
今、心静かに夢想する。
目の前に、卵がぽんとおいてある。私はそれを食べる。どろりと濃厚な味わいを舌に残して腹の中へ流れて行く。空打ちされた命の欠片を慈愛でもって昇華させる。
もうひとつ卵がおいてある。こちらは食べずにふかふかとした綿の上に置いてやる。温め、包み、守り。そして、それは蠢き出す。
出会いがある。
惹かれあう。若葉の頃に交わりあう二つの軌跡。
いつか産み落とされた二つの個体が共鳴する。吐き出された欠片に酔いつぶれ、ひとつの世界を作り上げていく。
さざ波にも似た音を聴く。モノクロームのエコー。心臓、肺、手、足。徐々に形作られていく、その姿はさながら深海魚である。
いつだっただろうか、こんな夢を見た。とある老夫婦の寝室。すっかりたるんだ互いの指を緩くからめ、安らかな微笑を浮かべながら残りの人生について語り合う姿を。線香花火が最後に一瞬の閃光とともに消えていくような。夢想のような絶望。絶望のような希望を。妻はしわがれた頬を緩ませ、夫は震えながら頷いた。細胞が蕩け合うような濃密な時間の中を脈々と流れていた静かな熱を冷ますように、突如として寝室の床が取り払われ底へ底へと沈んで行った。引きちぎられるように離れてゆく指先を見送りながら、しあわせという言葉だけが輪郭を見失いながら浮遊していた。
深海魚だった頃の記憶。
ヒトに進化をとげた春、脳の片隅で海こそが母親なのだと笑った幻影がある。それは未だ魂を縛り続けている。呪いのような愛の囁き。
ひとりでに発生するものだと思っていた無垢な過去。
アダムがいた。イヴもいた。私はぶくぶくと息を続けていた。
あの海にも似た閉塞された匣の中で帰ることのできない海原に思いを馳せながら、細胞の一つ一つが灰となる。とめどない酸化。
左手の薬指だけが取り残されたように冷たく発熱していた。氷の中で火傷していく。肥大するような、自身から背離している感覚。
やがて、高潔なる少女ではいられなかった初夏に至る。鈍痛と血液と一緒に雨季は過ぎ去った。夏の盛り、加速してゆく激情。秋口には花嫁姿。そして翳りを知る。遠くなってゆく空を見上げながら、新たな深海魚の鼓動に耳を澄ます。秋の日は釣瓶落とし。冬は巡る。穏やかな陽射しにまどろみながら、私は静かに目を閉じた。
灰の中に薬指だけが取り残されているように思えた。男は泣いていた。
海底をくぐり、光を浴び、酸素と炎に浸食しつくされ、残ったものは、骨と骨と、それから灰。
還るべきは、はたして。
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