第15話  孤独な王

ジョン九三郎は壁の裏に隠れつつ様子を窺っていた。

射線と視線を避ける為だ。

3階は破壊の痕が痛々しい。

テナント側の通路は完全に打ち砕かれており、通行は不可能であった。


このフロアで行き来出来るのは事務所エリアとエスカレーター、そして両者を繋ぐ通路のみ。

ジョン九三郎が身を隠すとしたら、通路と事務所の境界線だけだ。

なので観音開きのドアを片側だけ開放し、残り半分の方に寄り添っていた。



『おらクソガキ。見えるか? 下はもうゾンビどもで溢れてんぞ』



マークは見せびらかすような声で言った。

確かに彼の言う通り、1階はゾンビの海、2階にもそれは押し寄せ始めている。

ギャアギャアという騒ぎ声に紛れて、虎の鳴き声なども聞こえる。

階下はもはやコントロール不能と言えた。



『この下に放り込んでやろうか? さぞかし手厚い歓迎を受けるだろうよ』



砲身で背中を突っつきながら煽る。

幼い少女相手に大の男が。

仮に生存者の間で深い事情があったにしても、弁解の余地が全くない程に、外道の行為そのものである。

この一瞬だけでもどちらが邪悪か判る。


それはジョン九三郎も同じだった。

行きずりですらない2人だが、義憤の炎によって審判が下される。



「あの野郎、何のつもりだ。子供相手に……クソが!」



彼は吐き気を催したようにして唾を吐いた。

だが、その不機嫌さが伝わるには遠すぎる。

不快極まる『残虐ショー』は滞りなく進む。



『どうだ。怖いか。お前みたいなチンケなガキじゃあ、ものの数秒でミンチ肉だろうよ!』



マークは手すりから階下を覗いた。

デイジーは置物のように動かない。

その態度が気に食わなかったのか、少女の髪を雑に掴み、同じ景色を無理矢理に見せた。

吹き抜けの造りが、下の喧騒をダイレクトに伝えた。



ーーうわぁ、3階はどうしたの。ボロボロじゃん。

ーーさっき原初のゾンビが来たろ。そのせいだって。

ーーこれは直すの大変だなぁ。もうちょっとソフトに暴れてほしいもんだよ。


ーーやっと中に入れたぁ。ほんと疲れたよ。

ーーマジだるいっす。さっさと終わらせてすぐに帰りてぇわ。


ーーあっ。新作のバッグが出てる! 終わったら店に寄って良い?

ーーダメよ。先月新しいの買ったはかりじゃないの。

ーー良いじゃんよぉ。ちゃんと大切にするからさ。



そう、まさに亡者たちの怨嗟の声である。

満たされぬ感情が数百、数千と重なる。

それらが最上階にも響き渡り、生者はおぞましさに震えるのだ。



『へへっ。こいつはスゲェや。どうだ、怖いだろ。怖くて怖くて口が聞けねぇか?』


『……ないもん』


『あぁん? 何か言ったかよ、オウ』



マークは掴んだ髪を持ち上げ、少女の顔を自分に寄せた。

彼女の瞳には涙が浮かぶものの、意思の光が存分に示されている。

絶望も、怖れも無い。

その力強さにマークは一瞬だけ気圧される。



『怖くない、全然怖くない! お前なんか、パパがやっつけちゃうもん! ゾンビも全部倒しちゃうもん! パパは世界で一番強いんだからぁ!』


『ジョンソンが、助けるだぁ? 夢見てんじゃねぇよボケッ!』


『キャアッ!』



マークはデイジーの服を掴み、吹き抜けの穴に少女の半身を晒させた。

デイジーは手すりに掴まることで落下に耐える。

だが、一歩間違えればまっ逆さまに落ちていくだろう。


ジョン九三郎は助けに行こうと体が動きかけた。

……だが、動けない。


マークは用心深いのか勘が良いのか、事務所のドア側も視界の端で見ているのだ。

迂闊に動きを見せようものなら、距離を詰める前に蜂の巣にされてしまう。


「……クソ! いい加減にしやがれ……!」


噛み締めた歯がキシリと鳴り、握りこぶしがギギッと音をたてた。

その無言の抗議はやはり届かない。


それからも、興の乗ったマークは手を休めない。

デイジーが落ちるか落ちないか、ギリギリのラインを維持して、さらに少女を追い詰めていく。



『見ろよ、ゾンビどもが手ェ伸ばしてんぞ。オメェを食いたくて食いたくて堪らねぇみてぇだなぁ!』



マークの言う通り、下のフロアは大騒ぎとなった。

デイジーの姿を目にしたゾンビたちは、一斉に彼女に向かって両手を突きだしたのだ。



ーー大変だ! 女の子が落っこちるぞ!

ーーなんだあれ、親は何をやってんだよ!


ーー布で救助できない? シーツとか、避難用具とか!

ーーバカッ そんなもん間に合う訳無いだろ!


ーーねぇ、ほっとこうよ。どうせゾンビになったら復活するんだしさ。

ーーそれだとゾンビ化してからの治療が大変になるだろうが。あの苦痛を子供にやらせる訳にはいかねぇだろ?

ーーそれもそうか。みんな、1回受け止めよう! 自分の体をクッション代わりにするんだ!



それらの必死な声がいくつも重なり、身も凍るような喧騒となる。

それらを直接受けたデイジーの心は……。

幼い意思の光は……。



『アタシは、パパを信じてる。アンタなんかブッ飛ばされちゃえ!』



微塵も曇らない。

暴力も、恐怖も親子の絆を歪める事は出来なかったのだ。

これに怒り心頭のマークは、さっさと少女を引き上げた。

そして……。



『調子に乗んなクソガキぃぃ!』



ーーバキィッ!


マークの拳が頬に突き刺さった。

体重をしっかり乗せた渾身の暴力だ。

幼い体が耐えられるはずもなく、一撃で床に倒れてしまう。



『お前ら親子はマジでムカつくんだよ、いつもいつもオレの事をバカにしやがって! 何がパパだこの野郎! テメェ自身は一発も耐えられねぇクソ雑魚じゃねえか、オィ!』


『あぁ……パパ。助けて……』


『いくら泣いても来ねぇよ! 今ごろ部屋ん中でイモムシ遊びに夢中だからな!』



床に倒れ込むデイジーに、ゆっくりとマークが歩み寄る。

止めを刺すつもりなのだ。

だがその時、マークの視線が事務所の方から切れた。

このチャンスを逃すジョン九三郎ではなかった。



「グルァァア! ブッ殺してやらぁぁあ!」


『な!? ゾンビだと!』



不意打ちは完全に成功した。

振り返るマークの左腕に感染をもたらす歯が突き刺さる。

これでゾンビ化は間違いない。

更なる苦痛を与えようと、ジョン九三郎は首に狙いを定めるが。


ーーカキン。


ジョン九三郎の口に銃口が嵌め込まれた。

それを構えるのはマーク。

逆の手を血で濡らしながらも、しっかりと正気を保っていた。



『何すんだよ、化け物。ニンゲン様に楯突くんじゃねぇ』


ーーズドォン!


重たい銃声が響く。

至近距離の、体内に向けた射撃。

それはゾンビと言えど、耐えがたい程のダメージを被る。

怒りに燃えた眼は色を無くし、壮健なる体が地面に崩れ落ちた。



「バカな、完全に噛みついたハズなのに……」



薄れゆく意識のなか、ジョン九三郎は思い出す。

風の噂で聞いた特異な生存者の話を。

彼は耳にした当初は信じていなかったが、目の前に現れれば別である。



「き、気絶する前に。ユウキに、伝えなきゃ」



死力を振り絞って、這いずる。

感覚の無い腕で進むのは困難だ。

倉庫はおろか、事務所のドアすら遠い。

更には強烈な目眩、死に勝るほどの痛みが電気信号となり、意思の力を消し去ろうとする。



「ユウキ、噛んでも無駄だ。こいつは、適……適ごう……」


『まだ息があんのかよ。とっととくたばれよ!』



ーーズドォン!


背中に更なる一撃。

それでジョン九三郎は動けなくなった。



『クソッ、怪我の手当てしねぇと。オラ立て! いつまで寝てやがる!』


『うぅ……』



マークがデイジーを脇に抱え、事務所の方へと去っていった。

それを見たきり、ジョン九三郎は意識を失った。


ーーあの男は適合者だ、ゾンビに感染することはない。


この極めて重要情報を、彼はとうとう力尽きてしまい、仲間に伝えることは出来なかったのである。



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