第5話 結論

湿りっけのない軽やかな風と、暖かい日差しがオッサンの浅黒いニキビ肌を奇妙なものに見せている。

「あのな、兄ちゃんはここまでいろんな人の手借りてきたやん。まぁ、よく甘えてきたな。もう、他人と関わることも嫌になったんやろ?でもな、自殺も道具使うやろ。ロープかナイフか電車か。どれも他人が用意したもんや。よぅ考えてみ?他人が助けるか?世の中他人だらけやで。兄ちゃんの自殺も誰かのおかげになってまう。その点、餓死は別や。自分の意思で死ねる。おすすめや。どや?」

「どやって言われても・・・」

「もう一回いうで。他人が助けるか?世の中他人だらけやで。その理屈で言うたら世の中もっと生きやすいし死にやすくなっとるやろ?でもそうならへん。不思議やなぁ」

「その理屈で言ったら誰にも助けられずに生きていくなんて無理ですよね。自立も自殺もできない。死ねないなら苦しむだけの人生が待ってる。僕は死ぬという選択肢も持っておきたい」

「そらそうや。でも、死ぬの嫌やろ?怖いやん。そこでや、ワイはあるマジックワードを見つけたんや」

「マジックワード?」

「そや。この言葉はええで。なんもかんもが一瞬で解決しよる。知りたいか?」

 オッサンの目が少し意地悪な目に見えてきた。

「それは何ですか」

 まぁ、俺はどうせもうすぐ死んでもいいと思ってるし、その言葉を聞いてからでも遅くはないだろう。

「それはな」

 オッサンが少しもったいぶる。

「どーでもええ」

「?」

 しばしの沈黙が流れた。

「兄ちゃんわかってないやろ?」

「はい」

「鈍いやっちゃな。だから、どーでもええや」

「どうでもいい、ですか?」

「そや。どうでもええや。でもどっちか言うたらどーでもええやな。兄ちゃんの過去なんか俺にはどーでもええねん。ワイの過去も兄ちゃんにはどーでもええ。例えばあそこに歩いてるオッサンな」

オッサンが土手の先を指差した。その先には一人のスーツを着た男がカバンを抱えて歩いていた。

「あのオッサンがなん億円の損失を会社に出してもうたとしてもワイにも兄ちゃんにもどーでもええ話やろ?そうやろ?それは、自分がおかした失敗もどーでもええっちゅうことに繋がるねん。」

「どういうこと?」

「だ・か・ら・どーでもええねんって!」

 オッサンが語気を荒げた。

「どうでもいいなんて、他人にはそう言えるかもだけど、自分のことなら言えませんよ」

「アホやな。自分のことも、どーでもええねんで。ええか、世の中のほとんどはどーでもええことやねん。自分がいじめられたことも、教師がまともに取り合ってくれなかったことも、朝起きれなくて勉強に付いてこれなくなってアホになったことも、良かったって思えることさえも時間が経ってみたら正確には覚えてへんやろ。つまり今の自分にはどーでもよかったことがほとんどやねん。そのどーでもええっと思えるまで時間がどれくらいかかるかやねんで。」

「いや、楽しかったことまでは忘れちゃダメでしょ」

「違うねんって。究極、楽しかったこともどーでもええねん。いちいち過去の栄光にしがみつくのも気持ち悪いやつやん。それやったら、毎日新鮮な気持ちで過ごせたほうが気持ちええと思わんか」

「でも、世の中には失敗とかしたら反省しろとか責任をとれとかいわれるでしょ。それは全部過去に起こったことについてじゃ・・・」

「たしかに、人間は生きてたら失敗するわな。でもな、責任と反省を求めるヤツにろくなヤツはいない。そんなもんは当事者がやりゃええねん。んで最後にどーでもええって思ったらええねん。そんなんとやかく言う奴とは一刻も早く距離を置いた方がええ」

「でも、ニュースとかワイドショーとかは政治家や経営者の不祥事とかが連日流されてます」

「知らん。そんなん、季節が変わったらみんな忘れとるやろが。つまりそれは一過性のもんやん」

「それって無責任じゃないですか」

「何言うとるねん。もともと責任なんかあるかいな。だいたいやな、人間は幸せにならなあかんねやろ?それは、他人と比べてか?違うやろ!人間は幸せにならなあかんけど、メンタルの弱いヤツは不幸にしかならん。メンタルの強いヤツは金なんか無くても幸せを掴んどる。しんどさの物差しなんか人それぞれや。兄ちゃんがしんどい思ったらそれはもうしんどいんやで。それを甘えだとか、根性なしだとか、豆腐メンタルとか逃げちゃダメだとか言うて自分を鼓舞するからおかしくなるねん。んなもん、気楽に生きたらええねん。そのためのマジックワードが・・・」

オッサンが一瞬間を置いて

「どーでもええや」

 オッサンの顔が上気している。

 俺はこの強引な理屈に清々しさを覚えた。

「ワイはもうすぐ死ぬ。なんで死ぬかは分からんけど、まぁもうすぐ死ぬわな。なんでかわからんけどわかるねん。でもそれもどーでもええ」

 オッサンはそう言うと、ベンチから立ち上がり

「ほな、行くわ。風が冷たくなってきたし。これは雨がくるで。ワイはこの瞬間が好きやねん。ほな、おおきにおもろかったで」

 と言って振り向き道路の方へと歩いて行った。

 オッサンが土手をあがり、道路へ差し掛かるまで俺はその後ろ姿をぼんやりと眺めていた。俺は一息深く吐き出すと、川の方へ向き直った。一台の車が土手沿いの道路を通って行くのを背中越しに感じた。

 それからしばらくして空は暗く鈍色の雲が集まりだした。風は冷たくポツポツと雨が降り出した。

 もうすぐ大粒の雫となり、この辺りには人を寄せ付けなくなるだろう。向こう岸の公園で遊んでいた親子はもうすでにいなくなり、空は静かに川の水量を増やす準備に取り掛かっていた。

 俺は早々にベンチから立ち上がり、土手沿いの道路までの行く道を確かめた。

 芝生が敷かれた丘を登り、道路へ出たところで俺は足元に一匹の亀の死体を見つけた。それは、車にひかれ、甲羅は砕け内臓は飛び出し、黒い手足は形をなしていなかった。砕けた甲羅の割れ目から首がはみだしこちらを向いていた。口は半開きとなり粘度の高そうな液体がドロリと溢れていた。片方の目は固く閉じられ細長い一本の皺のようになっていた。もう片方の目は降り出した雨に濡れ、こちらを向いていた。もちろん光は宿っていなかった。

 俺はしばらくその亀の死体を眺めていたが

「どーでもいい」

 そう呟き、家に向かって灰色の空間を歩き出した。空気はどんよりと重さが増し湿ってきていた。

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徒手空拳水面に立たず 蛭田 なお @juny08

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