第3話 オッサン登場

何か得体の知れない威圧感は背中越しでも感じられる。

「なんや。先客かいな」

 低く、地を這うような声が背後から聞こえてきた。

 俺は反射的に後ろを振り返った。

 そこにはくすんだよれよれのアロハシャツに細身のジーンズで麦わら帽子といったいでたちのオッサンが立っていた。ラフな格好のオッサンの肌は浅黒く、まるでアスファルトのようにニキビ跡でボコボコだった。ほうれい線は深く小鼻からまっすぐ顎に伸びていた。お世辞でも男前とは言えない。

「ワイな、そのベンチで甲羅干しするんが日課なんや。ちょっとええか」

そう言ってそのオッサンは俺の横にドッサと腰を下ろした。

 俺はそれを黙って見ていた。別に断る理由もないが、受け入れるつもりもない。同じベンチの左右に俺とオッサンが座っているだけだ。

「ええ天気やなぁ。なぁ、兄ちゃん」

 オッサンは空を見上げながらそう呟いた。

「はい、まぁ」

 俺は地面を眺めながら、曖昧に返事を返した。

「こんな時は、なーんも考えたらアカンな。ただボーッと世の移ろいを眺めておくのがいっちゃんええ」

 オッサンの表情は変わらなかった。

「いきなり話しかけられてビックリしたやろ?」

 オッサンがこっちに顔を向けた。

 黒目がちな眼差しがこちらを向いている。

「ええ、まぁ」

 俺はそれだけ答えた。

 よく考えたら、人と話すことはほとんどなかった。いつもは母親の一方的な会話にただ返事でもない相槌を付き合い程度にしているだけで、キッチリと文章化した会話など何年もしていなかった。

「なんやさっきからショボくさい顔しとるのぉ。迷惑か?」

 オッサンが俺の顔を覗き込んで来た。

 いきなり出てきた醜いオッサンの顔に俺は驚き焦った。

「兄ちゃん、アンタはワイのことを誰やねんって思っているやろ。でもな、ワイは兄ちゃんのこと知っとるで。兄ちゃんなぁ、ちょいちょいこの河原に来て、ボーッて川見て、んで、何もせんと帰るやろ。変なやっちゃなぁ思っとってん。いつか声かけたろって思ってたからな」

 俺はオッサンの顔を見た。オッサンは無表情でこっちを見ている。

「なんや?なんか変な顔しとるか?オトコマエやろ」

「いや、…」

 俺は喉が張り付いてうまく声が出せなかった。おれは軽く咳払いをした。

「なんや?久々に喋ろうとしたから声の出し方忘れたんかいな」

 オッサンは軽く鼻で笑いながら微笑んだ。

「いや、別に」

 オッサンに見透かされた俺は少しムッとした。

「まぁ、ええがな。兄ちゃん喋るの苦手やろ。無理したらあかんで。だいたいやなぁワイら生きてるもんに無理は向いとらんねん。自然なもんやねんから自然に任せたらええねん」

 オッサンは何か満足気に遠くを見つめた。

「はぁ、まぁそうですかね」

 これも曖昧に答える。

「ここまで来る前に土手の上の道路、通って来るやろ」

 オッサンは急に話題を変えた。

「この季節はな、後ろの田んぼからこっちの川までいろんな奴が引越しして来よるねん。向こうも暮らすには問題ないねんけど、やっぱり広いとこの方が暮らしやすいからな。んで、道路を渡る時に車に轢かれよる。そいつらはペシャンコになって太陽に照らされてカラカラに干からびよる。煎餅みたいやろ。んで、何回も轢かれて形もなくなってシミだけが残りよるねんな」

 俺の今いる場所は河川敷のようになっていて、東西に流れる目の前の川を挟むように南北にそれぞれ一段高くなり、南側に公園が、今座っている北側のベンチの後ろには車が通れる道路を隔てて小さな田んぼがある。そこはカエルやアメンボ、タガメ、ザリガニなんかが生息している。俺も幼い頃はよくその田んぼにザリガニやカエルを釣りに行った。

「でもな、あいつらはなこっちに来ようって努力しよるねんな。こっちに来てもどうなるかわからんのに、命を危険に晒してまで冒険しよる。ワイはただ黙ってそれを眺めてるんや。オモロイで」

 俺は背中を丸めて地面を眺めている。

「ワイはな、川側やから川の向こうがどないなもんかよう知らんねんけど、いっぺん死ぬまでに見に行きたいって思っとるんや。でも道路渡らないとアカンやろ。アイツら見てたら中々勇気がでんのやな」

「いや、行ったらいいでしょ」

 俺は顔を上げてオッサンに突っ込んだ。

 見上げたオッサンの顔は寂しげに感じた。

「そうやねんけど、中々なぁ。世の中には難しいこともあるわな」

「あなたはカエルとかザリガニとは違うでしょ。あの橋を渡って向こうに行くなんて難しくないでしょ」

「確かに、ワイはアイツらより体もでかいし、手足もほぼほぼ自由に使えるけど、それが難しいんやな」

「いや、なんなんですかそれ?」

 俺はこの唐突な話の展開についていけなくなった。もともと人の話を聞くのは得意ではないし、人と話すのはもっと苦手だ。

「ちゃうねん。まぁ、聞きぃや。どうせ兄ちゃん暇なんやろ?ちょっと付き合え」

 オッサンの手にはいつの間にかラベルの剥がされたペットボトルが握られていた。その半分ほど水が入ったペットボトルは薄汚れていた。

「兄ちゃんなぁ、もしかしてこの世から消えたいって思ってたんちゃうか?人間にはタイミングっちゅうもんがあるやろ。何があったんや?話してみ。もしかしたら、今がええタイミングかも知れへんで」

 オッサンはペットボトルの水を一口飲むと俺に話を促してきた。

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