3話-②



 そんなことがあった日から数日が経った今。学校内は連日校内で倒れている生徒や教師の話でもちきりだった。


 周りから距離を置かれている俺が直接その話を聞く機会は無かった。だが、休憩中にクラスメイト達が話していた内容を聞く限り、生徒や教師が倒れた原因は不明であり、しばらく安静にしてさえいればすぐに意識を取り戻すらしい。


 今のところ大事にこそなってはいないが、そんなことが連日起こっているとなると、当初は『そんなこと、あるわけがない』と否定していた『魔なるモノの仕業』という可能性も否定できなくなってくる。


 勿論イーヴァが以前言っていた通り、学校内には烏サイズより大きな魔なるモノをみかけたことはないし、居る様子もない。それに鳥サイズより小さなモノが居たとしても、誰かを襲っていたりする様子も俺は見ていない。


「やっぱり魔なるモノが理由じゃなくて、単に疲れていたのが理由なのか?」


 自分が動くことで解決できることがあれば、という思いで放課後に校内を見回っていた俺はそう一人で呟く。


 魔なるモノが関係しておらず、単に疲れが原因で倒れているのであれば俺に出来ることは何もない。だが、初めて人が倒れていたあの日、俺の話を聞いたイーヴァが考えこみ、口ごもっていた様子がどうしても脳裏でちらついてしまう。


 あの時、何を思い悩むことがあるのか訊いていれば。あの時、何がそんなに心配なのか訊いていれば。もしかしたらこんな参事に至っていなかったのかもしれない。


 軽率にイーヴァの考え過ぎだと判断してしまったあの時の俺の行為を後悔するも、校内に異変が無いことをあらかた確認し終えた俺は荷物を置いている教室へと足を向ける。


 夕焼けの色が差し込む窓の外。大きく広がるグラウンドからは、運動部に所属する生徒たちの快活な声が聞こえてくる。そんな声を耳にしながら教室の扉を開けば、そこにはクラスの学級委員長である峰産が一人、立ち尽くしていた。


 今日もクラスメイトの女生徒に掃除当番を押し付けられたのだろうか?


 他人の頼みを断りきれない峰産の『弱さ』を利用している女生徒たちを『卑怯な奴らだ』と勝手に断じた俺は、峰産の手に在るだろう箒を奪うべく夕焼け色に染まる教室へ足を踏み入れる。


 峰産を手伝う理由は今の俺には無い。だが、日直当番の時もそうだったが、こんな状況を俺は無視出来ない。いや、無視するべきではない。だが、俺はすぐさま自身の足を止めることになった。


 何故なら、峰産の足元――それも、血だまりのような赤い液体が広がるその足元に、複数人の女生徒が倒れ込んでいたからだ。


 もしや、この倒れている女生徒たちは峰産が襲ったのか? しかしどうして峰産がそんなことを? それにこの血のような赤い液体は一体何だ? 本当に血なら、急いで教師を呼ばなくては。


 俺の頭の中で様々な疑念や焦り浮かび上がってくる。だが、とにかくこの教室内で唯一事情を知っているはずの峰産に、何があったのかを訊ねるのが先だろう。


 ごくん、と息を飲み、俺は教室内で一人立ち尽くしている峰産に、「い、委員長?」と声を掛ける。


 そうすれば俺の声に気が付いたのだろう。ゆっくりと俺の方を向いた彼女は、『をばれう』と一言、鳴いた。


 明らかに俺の言葉に返事をしているわけではない峰産の言葉。そのことに疑問を抱き、更に彼女へと近付こうとすれば、俺の腰元にあるイーヴァから与えられたウォレットチェーンが「パキン」と音立てて砕ける。


「えッ?」


 魔なるモノを退ける効果のあるお守りが、どうして今この瞬間壊れるんだ? まさか、この教室にナニカが居るのか?


 そう思った瞬間、峰産の背後から峰産の物ではない黒髪が伸び、俺の視界は暗転した。






「わたしは、『意思なし人形』なんかじゃないよね?」


 痛ましささえ感じられる少女の声を聴きながらゆっくりと目を開けば、黒に染め上げられた世界が広がっていた。


「ねぇ……そうだよね、お母さん」


 そしてその黒の世界の中に、女と思しきモノに寄り添われ――あるいは女に自ら縋りついている峰産の姿があった。


 「峰産?」と彼女の名を呼ぼうとしたが、俺の喉は声の一つも発しない。それどころか、横たわっている自分の身体さえ動かせそうにない。


 いったい何が、どうなっている? そして今、いったい何が起きている?


 現在、俺が置かれている状況を理解できていない俺は、せめて目の前で起こっている状況だけでも把握しようと、目の前に居る峰産と女を観察する。


「ねぇ、お母さん。どうしてわたしを置いていっちゃったの?」


 いつも峰産の顔を隠すように存在していた分厚いビン底眼鏡は今、取り払われているらしい。女に縋りつく彼女の目元から、ポロポロと涙が零れ落ちているのが見て取れる。


 そしてそんな峰産に寄り添っている女の顔は『鳥』の字が書かれた白の面布で覆われていた。しかも封印の意図があるのだろうか。ふくよかな女の乳房や腹には札がべったりと貼り付けられ、その手足は包帯のような白布でぐるぐると拘束されさえしている。


 そんな、明らかに普通の人間ではないその女に縋りつく峰産は「お母さん。わたしね」と、弱々しく言葉を続ける。


「わたし、お父さんやお兄ちゃんたちに迷惑とか、心配をかけない『イイコ』になれるよう、ずっと一人で頑張ってきたの。勉強も、友達付き合いも、頑張ってきた……つもりなの。でもわたし、頑張り方を間違えちゃったみたい……」


 女の黒の長い髪に、自身の顔を埋める峰産。


「わたしはただ、お父さんやお兄ちゃんたちに迷惑が掛からないようにするために、『これだから父子家庭の子は』って二度と言われないようにするために、皆の頼みごとを断らずにいただけなのに。……それなのに、今日はお母さんのお墓参りがあるから無理だって、クラスメイトからの頼みごとを断ったら、『使い勝手の良い意思なし人形が、口答えしないでよ!』『母親の墓参りを理由にあたし達の頼みを断るとか、サイテーだね!』『父子家庭だからって同情誘おうとするの、やめてくれない?』って言われたの。わたし、あの子たちのいうことを聞く『意思なし人形』になりたいわけじゃなかったのに。ただ、家族に迷惑をかけない『イイコ』になりたかっただけなのに」


 時折言葉を切らしながらも呟かれる峰産の言葉。その言葉から初めて峰産が頼みごとを断らないでいた理由を知った俺は、彼女への認識を一変させる。


 峰産は弱いわけでも、不遇なわけでもない。むしろ俺と同じで『誰かの為に、自分の意思で、自らを犠牲にしてきた』だけにすぎないのだ、と。


 俺は、自分以外の誰かに魔なるモノの被害が及ばないようにするために、自分の意思で、自らを犠牲にしている。


 そして峰産は、自分の家族に迷惑をかけないようにするために、自分の意思で、自らを犠牲にしている。


 勿論、彼女と俺の根本は全く違うだろう。だがそれでも『誰かの為に自らを犠牲にする』彼女の事を、俺は同じだと思わずにはいられなかった。


 けれど現状、声を発することの出来ない状態にいる俺は、峰産に慰めの言葉や励ましの言葉を届けることが出来ない。それどころか明らかに普通の人間ではない女に縋り、愚図る峰産の小さな背を止めることも出来ない。


 だから俺はせめてもと、彼女の言葉に耳を傾け続ける。


「だからわたし、嫌いなの。わたしの頑張りを、踏みにじるあの子たちが。わたしの頑張りを、認められないわたし自身が。……お母さんを殺して生まれた、わたし自身が。わたしは嫌い。わたしさえ生まれて来なければ、お母さんは死なずにすんだのに。わたしさえ生まれて来なければ、お父さんもお兄ちゃんも父子家庭だからって言われずに居られたのに。……なんで、わたしお母さんを殺してまで、生まれたの?」


 周りから距離を置かれている俺ではあるが、噂好きのクラスメイトや教師たちの口ぶりから、峰産の家が父子家庭であることは察していた。しかし、その理由が峰産本人の出生時に起きていたことだとまでは知らなかった俺は、峰産が語ったその事実に息を飲む。


「ねぇ、わたしに、お母さんを殺してまで生まれてくる価値って、あったの?」


 女の長い髪に顔を埋めていた峰産が顔を出し、女にそう訊ねる。すると彼女に縋られ、訊ねられた女が『を……う』と、初めて声を発した。


 その声はひどく小さく、かすれてもいたが、女の傍に居る峰産の耳にはしっかりと届いたらしい。彼女は「そっか、価値、あるんだ」と嬉しそうに呟き、女に対して笑みを見せている。


『を……う』


 喜んでいる峰産に対し、続けざまに囁く女。その女が峰産に対して何を言っているのか俺には聞こえないが、峰産の様子から察するに、彼女を肯定しているのだということぐらいは分かる。


 きっと、一見するだけならば彼女たちの姿は、女が少女を救うほほえましい光景に見えるだろう。しかし、彼女たちの姿を見せつけられている側の俺の目には、そうは映らない。


 何故なら、峰産を肯定する女の黒く長い髪が峰産の身体に絡みつき、今にも彼女を取り込もうとしていたからだ。


 おそらく女は峰産を籠絡し、取り込むために甘い言葉を囁いているのだろう。だが、その女の真意と、自分がその女に取り込まれつつあるのを知らない峰産は、嬉しそうに女の言葉に耳を傾け、笑みを浮かべ続けている。


 もしかしたら峰産は何も知らず、このまま女に取り込まれた方が幸せなのかもしれない。


 けれど、今の状況を見過ごすことの出来ない俺は。峰産を見殺しにすることの出来ない俺は、彼女を女の元から引き離さねばと判断する。


 だって、そうしなければ峰産が自分の家族の為にしてきた今までの犠牲と努力が、報われることなく消えてしまうから。


 そんなこと、あってほしくない。あるべきじゃない。あっては絶対、ならない。


 だから俺は大きく息を吸う。


 身動きが取れないことは勿論、声さえ出ないことは分かっている。だが目の前の現状を見過ごせない俺は、行動してしまうのだ。例え、その行動が『声が出せないなら、出るまで努力し続ければ良い!』という、根性論じみた方法でしかなくとも。例え、その行動の結果、峰産に恨まれるようなことになったとしても。


 何もしないまま諦めるだなんて、俺には出来ないから。


「……みね、うみッ!」


 声にならない声を何度か発しながらも、絞り出しようにしてやっと呼べた峰産の名。その声はどうやら峰産の耳にも届いたらしい。「四ツ谷……くん?」と、女にのみ視線を向けていた峰産の濡れた瞳が、俺を映す。


「峰産、その女から……今すぐ、離れろ!」


 喉がひきつるため、言葉をつまらせながらそう告げる俺。それにより峰産も自分が

女の髪に絡みつかれ、取り込まれようとしていることに気が付たようで「な、なにこれ!」と自身に絡みつく黒い髪を解こうとしはじめた。


 しかし峰産が女の髪をほどこうとすればするほど、余計に絡みついてくるらしい。先程までは割としっかりと見えていた峰産の身体が、今ではほとんど女の黒髪に覆われてしまっている。


 おそらく峰産を取り込もうとしていた女も、峰産を逃さまいと必死なのだ。


「峰産!」


 一向に動かせない身体をどうにか動かそうと躍起になりながら峰産の名を叫ぶ俺。そんな俺の存在を邪魔だと判断したのだろう。峰産の身体を自身の髪の毛で覆う女が、まるで「邪魔をするな!」とでもいうかのように『をををを!』と叫ぶ。そしてソレと同時に、女の長く黒い髪の一部が俺の方へと勢いよく伸びてきた。


「ッ!」


 身体の方は未だ動かせず横たわっているしかできない俺は、流石に覚悟を決めて目を閉じる。だが、いくら待っても髪と思しき感触が俺の身体に触れることはなかった。それこそ一瞬突風めいた風が吹き荒みはしたが、それだけだ。


 恐る恐る目を開き、峰産の様子を確認しようとした俺は、目の間に居た者の存在に我目を疑った。


「い、イーヴァ?」


 俺の家で俺の帰りを待っているはずのイーヴァが、俺の目の前で浮遊している。


 それも横たわっている俺を、不機嫌そうな表情で見下ろしさえして。


「ふむ、怪我はないようだが……拘束されているのか」


 しげしげと俺を見下ろしながらそう言ってくるイーヴァ。だがそんなコイツを見上げる俺は、自分自身の目のやり場にひどく困っていた。――というのもイーヴァは上着しか着用していないため、横たわっている俺の視点からはイーヴァの下半身が丸見えなのだ。


 穴の一つも無いつるりとしたイーヴァの股間。白みを帯びるその素肌には目を引かれるモノこそありはするが、正直、俺としては見るなら女子の方が良いため、こんなラッキースケベな展開は嬉しくない。むしろ遠慮しておきたい代物だ。


「はれんち、だぞ」


 イーヴァはスカートを抑える女子のようにTシャツの裾を手で押さえ、屈みこむ。そして、ブスリ、と俺の頬を人差し指で突いてきた。


「ナツヲは、破廉恥」


「……アンタは一体何処でンな言葉を知ったンだよ」


 ゲームか? それともネットか?


「ゲームだ。とあるキャラクターのスカートが突風でめくれたのを、うっかり目撃してしまった主人公がそのキャラクターに『破廉恥!』と言われ、頬を勢いよく叩かれていた」


「だから俺の頬を突いてンのか」


「うむ。私はナツヲの頬を叩きたくはないからな」


 そう言いながら、遠慮なくブスブスと俺の頬を突き続けるイーヴァ。やっている方はもしかしたらそれなりに力加減をしているのかもしれないが、されている側の俺としては同じ場所を突かれ続けるのは結構痛い。


「まあ良いだろう。……立ち上がれナツヲ」


 おそらく俺の身体は女の髪か何かで拘束されていたのだろう。手元に小さな杭を出現させたイーヴァがソレを俺の手足へと滑らせれば、身体を自由に動かせるようになった。


「サンキュー、イーヴァ。助かった」


 イーヴァの手を借りながら、俺はゆっくりと立ち上がる。


「礼を言うのは早計だ。だが、その感謝の気持ちは受け取っておこう」


 金の瞳を細め、口元を僅かに上げるイーヴァ。


 そんなイーヴァの姿を横目で確認した俺は、改めて峰産と女の方へ視線を向ける。しかし既にそこに峰産の姿は無く、そのかわりに巨大な黒い繭のようなものが存在していた。


 おそらくその黒い繭の中に峰産が入っているのだろう。女は四肢を包帯のようなもので拘束されていながらも、繭を庇うように前屈みになり、『をををを』と威嚇を思わせる声を放っている。


 まるで子を守る母親のようにさえ見えてしまうその女の様子に、俺は違和感を抱いた。


 ――本当にあの女は峰産を取り込み、そして殺そうとしているのだろうか?


 もし峰産を取り込み、殺そうとしているのならば、何故今この瞬間そうしない? むしろ何故、峰産を包む繭を守ろうとさえしている?


 『をををを!』とこちらを威嚇している女について何一つ知らない俺は、現れたばかりであるイーヴァに「なあイーヴァ。あの女、一体何なんだ?」と訊ねてみる。勿論、イーヴァもその女の事について何も知らないかもしれない。だが訊ねてみるだけの価値はあるはずだ。


「ああ、アレはお前が『峰産』と呼ぶ娘の、憑きものだ」


「ツキ、モノ?」


 どうやらイーヴァはあの女の正体を知っていたらしい。『憑きもの』という単語を反芻した俺は、僅かに考え込む。


 ……おそらくイーヴァの言った言葉は、一般的に『憑きもの筋』と呼ばれた、あるいは今尚よばれ続けている人たちに憑くモノのことだろう。イーヴァが俺の元へ現れる以前、魔なるモノへの対処を知ろうと様々な文献をあさった時に読んだ記憶がある。


 だが、確かその文献の中では、その憑きものたちは基本的に犬や狐、イタチといった獣の類で、今俺たちの目の前に居るような女の姿ではないはずだ。


「ふむ、私の言葉選びがあまり良くなかったか」


 どうやら俺の考えていたことがイーヴァに伝わったらしい。「ナツヲに不要な誤解を与えてしまったようだ」と、呟いたイーヴァは改めて口を開く。


「アレはお前が『峰産』と呼ぶ娘の『母』であり、『守護霊』だ」


「『憑きもの筋』の憑きものと、『母』と、『守護霊』って、俺はかなり違うと思うけどな!」


「そうだろうか。私には同じにしか見えないが」


 こちらを威嚇してくるだけで一向に攻撃して来ようとしないその女を、じっと見つめるイーヴァ。先程はつい突っ込んでしまったが、俺としてもイーヴァの言わんとしていることはなんとなく分かっているつもりだ。


 明確な言葉で言ってもらっているわけではないから憶測でしかないが、あの女は自身が憑いている峰産を守護、言わば守ろうとしているのだろう。


「それもアレは子を産む前に産褥時に死亡した『母』。いわば【姑獲鳥】と呼ぶに相応しい魔なるモノだ。本来であれば【姑獲鳥】の名を冠することなく、産褥時に死亡するという『事象』で留まるのだが……、現在各地で噴出している地脈のエネルギーにより形を得たのだろう。私たちから我が子を守ろうと、躍起になっているようだな」


 やはり俺が抱いた違和感は正しかったらしい。


 だが、どうして【姑獲鳥】と呼ばれるに相応しいらしい女が、俺たちから峰産を守ろうとしているのかが分からない。少なくとも俺たちは、峰産に危害を加えたりしていないはずだ。


「我が子を守ろうと躍起になる『母』に、子を傷つけた者と、傷つけていない者を見分けるだけの分別があると思うか?」


「は?」


「無いのだよ、ナツヲ。アレの目の前にあるのは、傷ついた我が子。そしてその我が子を傷つけた、排除しておくべき他者だけだ」


 「ンな、横暴な!」と俺は声を上げる。けれどもし本当にイーヴァの言った事の通りなのであれば、【姑獲鳥】と呼ばれるあの女が我が子である峰産を守ろうと、俺たちを威嚇してきているのも大いに頷ける。


 そして更に言うのであれば、最近校内で倒れるようになった教師や生徒たちは、この【姑獲鳥】が襲ったのだということも予想がついた。


 ただでさえ峰産は自身の出生に思い悩み、家族に迷惑をかけまいと教師や他の生徒からの期待に応え続けていた。にもかかわらず、それを知らない教師は彼女に仕事という名の期待を押し付け続け、女生徒たちもまた心無い言葉で彼女を傷つけたのだ。


 そのことを、彼女に憑き、守ろうとする【姑獲鳥】が許すはずがない。


 だから【姑獲鳥】は教師や生徒を襲い、今、この瞬間も彼女を守ろうと躍起になっている。


「なぁ、イーヴァ。峰産、大丈夫なのか?」


 現に今、【姑獲鳥】の髪に包まれた峰産は外敵となる他人から隔てられ、守られて

はいるのだろう。だが彼女を守ろうとしている【姑獲鳥】が魔なるモノでもある以上、普通の人間でしかない峰産が【姑獲鳥】の力に耐えられるとは到底思えない。


「今はまだ大丈夫だ。しかし、このまま時間がすぎれば【姑獲鳥】自身にその意思が無くとも、結果的に娘を死に至らしめてしまうことになるだろう」


 「魔なるモノにとって、人間は餌でしかないのだからな」と、何の感慨も抱いていない無の表情を浮かべ、おそろしく冷たい声でそう付け加えたイーヴァ。


 峰産が、死に至らしめられる?


 それも峰産を守ろうとしている【姑獲鳥】によって?


 そんなこと、あってはならない。


 そんな誰も報われず、救われない結果など、絶対にあってはならない。


「救いたいか? ナツヲ」


 自身の身体を僅かに前屈みにさせ、俺の顔を下から覗きこんでくるイーヴァ。その顔に浮かぶ表情は、先ほどまで浮かべていた無などではなく、むしろイーヴァが内心喜んでいるのだと分かってしまうほどの柔らかな表情だった。


 そんなイーヴァの顔を見ながら俺は息を飲み、縦に首を振る。


「ああ、救いたい。峰産も、あの【姑獲鳥】も。俺は救いたい」


「ならば【繋ぐ神】たるこのイーヴァ・ニーヴァを信じ、願い、望み、祈れ。さすれば私はお前の望み通り、あの娘も【姑獲鳥】も救ってやろう」


 「さあ、どうする?」と目を細めたイーヴァが訊ねてくる。だがそんなこと、イーヴァに訊ねられるまでもない。


 息を大きく吸い込んだ俺は、望みを込めて言い放つ。


「イーヴァ! 峰産と【姑獲鳥】を、救ってくれ!」


「――お前がそう、望むなら」


 そう意気込んだものの、すぐに俺の望みを叶えるつもりはないらしい。「その前に、ナツヲ。お前にはコレを渡しておこう」と、イーヴァは自身の首にかけていたスマートフォンを俺に渡してくる。


「ゲームを進めておいてくれても構わないぞ」


「いや、お前のコレ、家の中じゃねぇと電波繋がらねぇから無理」


 イーヴァに与えているスマートフォンは、俺が以前使っていた物であり、現在は通信環境が整えられている家の中でのみ使用できる代物だ。だから家の外へと持ち出した時点で、その端末には通信のための電波は届かず、ゲームも進めることは出来ない。


「ふむ。そうなのか……」


 じっと、俺の手元にある自身のスマートフォンを見据えたイーヴァは、コクリと一つ肯き「ならば後日、繋げるとしよう」と呟いた。


 俺にはイーヴァが何を考え、どう判断したのかは分からない。だが今の発言から察するに、碌でもないことを考えたのだろうと、思い至ることぐらいはできる。


 後日、イーヴァがしでかすかもしれない事柄について嫌な予感を感じながら、俺は渡されたスマートフォンを握り締め、俺たちの正面に居る【姑獲鳥】へと視線を向ける。


 峰産を自身の黒く長い髪で包み、捉えてしまっている【姑獲鳥】は相変わらず俺たちに対して『をををを!』と声を上げ威嚇してくるだけで、攻撃は一切してこない。


「すこし、厄介だな」


 自主的に攻撃してこない相手を目の前に、正直な感想を零した俺は思案する。


 【姑獲鳥】に囚われている峰産の身の安全が確約されていないこの状況において、このまま互いに睨み合い、無為に時間が過ぎていくことだけは避けるべきだろう。加えて、相手から攻撃してこないからと言ってこちらから攻撃を仕掛けるのも、【姑獲鳥】を刺激しかねないためするべきでないはずだ。


 ならば、俺たちはどうするべきか。


 峰産と、【姑獲鳥】。どちらも救うためには、どうするべきか。


 せめて【姑獲鳥】の元から峰産を助け出せれば、現在進行形で気が立っている【姑獲鳥】を物理的に止めることが可能だろう。だが『助け出す』――すなわち【姑獲鳥】の元から峰産を引き離す、ということ自体が非常に難しいのだ。


「あー、くそッ! どうすりゃいいンだよ!」


 がしがしと自分の頭を掻き、頭を振る。


 【姑獲鳥】自身に峰産を故意に傷つける意思が無いことを見込み、こちらから先制攻撃を仕掛けるべきか? それとも【姑獲鳥】が動くのをただひたすら待ち続けるか?


 どちらにしろ悪手であり、望ましい行為ではないのは明らかだ。


「ふむ、だがこのままではナツヲの望みを叶えることが難しくなってしまうばかりだからな。望まれるべき行為ではないようだが、私から先制させてもらうとしよう」


 おそらく俺の意思を読み取り、そう判断したのだろう。俺の顔と【姑獲鳥】の様子を何度か見比べたイーヴァがそう呟く。


「こちらからいかせてもらうぞ【姑獲鳥】」


 すっ、と右手を自身の前へと差し出すイーヴァ。


 それと同時にクリスタル型をしたつややかな水色の杭が、その指先に現れる。

「我が杭よ、彼の者の動きを繋ぎ留めよ」


「ッ! 待てイーヴァ!」


 そんな静止の声を上げた頃にはすでに遅く、ついさきほどでイーヴァの手元にあった杭が【姑獲鳥】へと勢いよく穿たれる。


 長い髪を自由に動かし操ることの出来る目の前の【姑獲鳥】に対し、帯での攻撃ならまだしも、射撃物である杭――それも一本のみの攻撃ではおそらく意味が無い。そんな俺の予想通り、【姑獲鳥】は迫りくるその杭を多量にある自身の髪で緩衝させ、絡め取ってしまう。


 少なくとも、イーヴァの杭に触れている【姑獲鳥】の黒髪はじゅわじゅわと音を立てて融け落ちてはいる。だが本体である【姑獲鳥】そのモノが弱体化しているような様子は見られない。むしろ、攻撃してきたことにひどく苛立ったのか、先程よりもはるかに大きな声で『をううう!』と叫びさえしている。


「これはヤベェかもしれねぇな」


 【姑獲鳥】の顔は『鳥』と書かれた白地の面布に覆われているため、表情こそうかがい知れない。だがそれでも今、【姑獲鳥】がひどく怒り、俺たちに対して敵意を抱いたことぐらいは判断がつく。


 その証拠に、今まで一切攻撃してこなかった【姑獲鳥】が、自身の黒髪を勢いよく俺たちの方へと差し向けてきている。


「我が外殻よ、ナツヲを囲め」


 イーヴァの呼び声と共に、赤と黒の模様が描かれた帯が現れ、俺の周りをぐるりと取り囲む。だがその内に、イーヴァは含まれていない。


「イーヴァ!」


『れぅうう!』


 【姑獲鳥】の咆哮と共に黒い髪がイーヴァへと襲い掛かる。


 そして次の瞬間。イーヴァに貸していた俺のTシャツが、【姑獲鳥】の髪によって切り刻まれた。


「ああッ! 俺の服!」


 決して気に入っていたわけではない。だが、以前まで頻繁に着ていた物を無残に切り刻まれ、ただのボロ布にされてしまうのは正直見るに堪えない。


 しかも自身が着ていた服を切り刻まれ、強制的に全裸にされたイーヴァも「む、服が壊されてしまったな」と言うだけで、まるで反省の色が無いのも腹立たしいし、その上自らを襲った【姑獲鳥】の髪にまんまと手足を絡め取られ、身動きできないようにされているのも腹立たしい。


「イーヴァ! アンタ本当に戦うの向いてねぇな!」


 「戦うという事柄に関して著しく不向きである」とは出会った当初のイーヴァも言っていたが、実際に目にするとなるとその『センスの無さ』に唖然とさせられる。


 おそらく俺を襲った巨体の魔なるモノのように、相手側に対して配慮すべき事柄が無かったり、単純に杭を穿つだけで事足りる相手であったりすれば『センスの無さ』は露呈しないのだろう。だが今回のように、人質を取られていたり、相手側がイーヴァの杭に対して有効な防衛手段を持ち得ていたりする場合だとその『センスの無さ』が露呈してしまうに違いない。


 まあ、正直なところイーヴァに戦闘センスが無いことはなんとなく察してはいた。


 というのも、俺がイーヴァにゲームを勧めた初日も露見してはいたのだが、イーヴァのゲームプレイならぬ、戦闘センスは『ヤバい』のだ。


 そもそもイーヴァがプレイしているそのアクションRPGはやり込み要素は多くあれど、敵キャラクターの攻略に関しては裏ボスなどでもない限りそれほど難しくはない。それこそフェイズやウェーブも敵キャラクターの動きをしっかり見ていれば、攻略本や攻略サイトが無くてもそれなりに対応し、処理できる――はずなのだ。


 にもかかわらず、イーヴァは避けるべきタイミングで何故か相手に突っ込んだり、発動すべきではないタイミングで相手にデバフをかけたり、自身にバフをかけたりする。見ているこちらとしては、何でコイツこのタイミングでそんなことをしでかすんだ! と思わざるを得ないし、あまりにも見ていられず自室へ引きこもらせてもらうこともある。


 だから、今のように攻撃手段の選択をミスした挙句、手足の動きを封じられることにもある意味納得できてしまう。まあ例え納得が出来たとしても、唖然とさせられてしまいはするのだが。


「ナツヲ、では私はどうすれば良いのだ?」


 手足だけでなく体全体を【姑獲鳥】の黒い髪にぐるぐる巻きにされ、ミノムシのような状態になりつつあるイーヴァが釈然としていないような口ぶりでそう言ってくる。


「……【姑獲鳥】の怒りゲージが下がるまで、そのままで居るしかねぇと思うぞ」


 ブン、と音が鳴りそうなほど勢いよく【姑獲鳥】の髪に高く持ち上げられたイーヴァを見ながら、「あー、多分そのまま叩きつけられると思うから、気を付けろよ」と零した刹那、予想通りにイーヴァが地へと叩きつけられる。


「むぅ。……衝撃に、耐えられ、ない、わけでは、ないが……」


 何度も何度も持ち上げられては地に叩きつけられる中で、舌も噛まずによく喋れるな、とある意味感心する。


「俺の方でも考えてみるから、しばらくは我慢しててくれよ」


 「大丈夫そうか?」と既に満身創痍気味なイーヴァに訊ねてみれば、「むぅ、ナツヲが、そういう、のであれ、ば……」と返してくる。


「とりあえず舌を噛まねぇようにはしとけよ」


「した……? 舌?」


 ブン、と振り上げられたかと思うと、瞬時に地へと叩きつけられているイーヴァ。その顔をしっかりと見ることは出来ないが、おそらく今コイツは自身の口をもごもごと動かしているに違いない。


 ……まさか、自分には舌が無いとか言うんじゃないだろうな。


 まじまじと他人の口の中なんか覗いたりしないから、イーヴァの口の中に舌や歯が在るのかなんて確認したことはない。だがもしイーヴァに舌が無いのであれば味覚はどうなっている? 歯が無いのであればどうやって食事を咀嚼している? そもそも喋る時に舌が無ければ発音しにくいものも多々あるだろう。


 いや、そもそもイーヴァは食べた物をどこへやっているのだ?


 俺の記憶にある限り、一度もイーヴァは排泄を理由にトイレに入ってはいない。もしかしたら俺が寝ている間や学校に行っている間に用を足している可能性はあるかもしれない。だが、不本意ながらもイーヴァの全裸を見てしまっている俺は、その身体に肛門や排泄孔なる物が無いのを知っている。


 ならば一体イーヴァは何処からその食べた物を排泄しているのだろうか? あるいはどのようにして身体の中を巡っている? そもそも、俺の食事はイーヴァの身体を巡っているのか?


 イーヴァの身体の構造に関して確かめたいことは多々あるが、今はそんなことを考えている場合ではない。


 今は、いかにして【姑獲鳥】の元から峰産を引き剥がすか、を優先して考えるべきだ。


「しっかりしろ、俺!」


 イーヴァに渡されていたスマートフォンを改めて握りしめ、【姑獲鳥】本体と、その傍にある黒い繭状の物体を見ながら俺は思案する。


 一つ、少なくとも【姑獲鳥】の髪はイーヴァの杭で融ける。


 一つ、【姑獲鳥】には峰産を傷つける意思はない。


 一つ、イーヴァの帯は今のところ無事で、損傷は無い。


 現状で把握できる状況はそれだけしかない。だが、おそらくこの三つさえあれば何とかなるはずだ。


 俺と共に帯にいくつかの杭を付随させて【姑獲鳥】たちの元へ行き、繭状となっている峰産と【姑獲鳥】を繋ぐ髪を切除。そしてソレと同時に俺自身と繭状の峰産を帯で包む。


 長時間【姑獲鳥】の攻撃に帯が耐えられるとは思えないが、それでも帯の内側に峰産が居る以上、【姑獲鳥】は帯の中に居る俺たちを持ち上げ、地に叩きつけたりすることは無いはずだ。


「イーヴァ! できるか!」


 【姑獲鳥】の怒りが収まる様子はないらしい。相変わらず地へと叩きつけらえているイーヴァに声を掛ける。


「なにが、だ? ナツヲ」


 俺の考えていることが読み取れるはずなのに、コイツは一体何を言っているのだろうか。


「いや、ナツヲは、考えている、ことが、多すぎて、な。どのことを、言っている、の、か、判断が、つか、ない。舌か? 排泄か? それとも、【姑獲鳥】か?」


 【姑獲鳥】に何度も叩きつけられている中で器用にそう伝えてくるイーヴァ。峰産を助け出す前に、全く違う事を考えていた俺も悪いのだが、その辺りは臨機応変に判断してほしいものである。


 だが変な誤解があったり、意思疎通がうまくいっていないままでいたりするより、それなりでも良いから報連相がしっかりしていた方がどちらにとっても良いだろう。


「今から【姑獲鳥】から峰産を引き離す! 俺を包む帯に何本か杭を装備しろ! そしたら俺は帯やその杭を使って【姑獲鳥】の髪と繭状の峰産を切り離すから、合図をしたらすぐに俺と繭状の峰産を帯で包め!」


「む、そんな、ことを、すれば、お前の身が、危険に……」


 「晒されてしまう」と語尾を濁しながら言うイーヴァ。だがこのまま何もしないでいるわけにもいかない俺は「やれるか?」と畳みかけるように聞き直す。


 本来ならば、コレは峰産と【姑獲鳥】だけの事情だ。だがその二人の事情に巻き込まれ、ここまで関わってしまった以上、どうにかしないわけにはいかないだろう。それに俺は、俺以外の誰かが傷ついているのを見過ごすことは、出来ないから。


「……ナツヲが、そう言うなら。……杭よ、ナツヲの、意思に、従え」


 イーヴァの声と共に俺と帯の周りに幾つもの杭が現れる。


「サンキュー、イーヴァ。行ってくる!」


「くれぐれも、怪我は、してくれるな、よ」


 イーヴァに渡されていたスマートフォンをポケットへ押し込み、俺は【姑獲鳥】と峰産の方へ駆け出す。そうすれば今まで俺に対して攻撃をしてこなかった【姑獲鳥】も、俺に向かって髪を差し向けてくる。


「杭、先行して迫る髪を融かせ! 余力があれば峰産と【姑獲鳥】の間の髪も!」


 本当に俺の指示に杭が従ってくれるのか少し不安だったのだが、杭たちは俺の言葉に従って、迫りくる【姑獲鳥】の黒髪を融かしてくれた。


 そのおかげもあって俺は無事【姑獲鳥】の懐部――すなわち、峰産が入っている黒い繭の元へ無事たどり着く。


 既に余力が在ったらしい杭により、【姑獲鳥】と峰産が入った黒い繭の間にある髪はほとんど融け落とされており、それを確認した俺は小さくガッツポーズを決めた。


「イーヴァ! 帯で峰産と俺を包め!」


 俺から少し離れた場所で相変わらず【姑獲鳥】の髪に叩きつけられているイーヴァの耳に届くよう大きな声でそう言えば、俺を守るようにして在った帯が一旦解け、峰産の入った繭ごと俺たちを包みこむ。


『をををを!』


 帯の外の様子が窺える程度にある隙間からは、俺に奪われた峰産をどうにかして取り戻そうと躍起なっている【姑獲鳥】が垣間見える。だが帯の周りにはイーヴァの杭が常駐しているため、なかなか手ならぬ髪が、出せない状況のようだ。


「杭。一本俺の手元に来い」


 繭の正面に屈みこみ、手を拱くように動かせばその手元に一本の杭が現れる。


 この杭に意思は無く、ただ単純に俺の命令にしたがっているにすぎないのだろうが。これほどまでに従順に俺の意思に従ってくれるとなると、どこかかわいらしさを感じてしまう。


 そんな思いを抱きながら、俺は手元に現れてくれたそれを握り締める。一瞬俺の手も、以前戦った巨体の魔なるモノや【姑獲鳥】の髪のように融けたりはしないかと不安に思ったが、そんなことになりはしなかった。


 融け落ちていない俺の手で杭を握り、峰産を包み込む黒い繭へと付き立てる。そうすれば、杭が付き立てられた部分が「じゅわじゅわ」と音を立てて融け落ちはじめた。


「よしッ、いける!」


 内部に居る峰産を傷つけることのないよう、その昇華速度に合わせながらゆっくりと繭を切り開く。そうすれば中から瞼を閉じ、ぐったりとした様子で横たわる峰産が現れた。


「峰産! 大丈夫か!」


 気を失っている相手を揺さぶったり、何度も呼びかけたりするのは良くない。と、以前何かで聞いた記憶があるが、とりあえず確認の為に一度だけ峰産の名を呼んでみる。だが案の定峰産は返事をしないし、瞼も開かない。


 だが少なくとも呼吸は正常だから、そこまで危険な状態ではない……だろう。まあ、だからと言って油断が出来る状況では決してないのだが。


「イーヴァ! 峰産は助けだせた! あとは【姑獲鳥】の方だけだ!」


 第一の目的であった峰産を救うことができた。ならば次にすることは、【姑獲鳥】を救うこと。


 どうやって【姑獲鳥】を救うか。その手段はまだ考えていない。いや、そもそも【姑獲鳥】を救うというその『救い』の定義は一体どこになるのだろう。


 【姑獲鳥】の元から峰産は助けられている為、意図せずして【姑獲鳥】が峰産を殺してしまう、という悲劇は避けられている。だが、それだけでは『救い』にはならないはずだ。


 ならば、何が【姑獲鳥】にとっての『救い』だ?


 愛すべき峰産の心の安寧が確保されることか? 愛すべき峰産が何者にも脅かされることなく、健やかに成長することか? それとも、峰産を小さく非力な我が子のように抱き、愛し続けることか?


 母たる【姑獲鳥】の『救い』の定義。その定義をしばらくの間考えていれば、【姑獲鳥】の髪に囚われ、されるがままであったイーヴァがその髪を杭で融け落とさせ、自由の身になったのが見えた。


「イーヴァ!」


 俺たちを守る帯の内側からイーヴァの名を呼び、「大丈夫か?」と声を掛ける。だがその声はイーヴァに届いていないらしく、イーヴァは返事をしないどころか、視線の一つも俺には向けない。


「……イーヴァ?」


 いつものアイツであるならば、俺の元へ飛んできそうなものなのに。今のイーヴァは、遠目からでも分かる金の双眸で、【姑獲鳥】を冷たく見据えている。


「杭よ」


 イーヴァの薄い唇が動き、冷ややかな声が響き渡る。


 その次の瞬間、無数の杭がイーヴァの背後から現れたかと思うと、【姑獲鳥】の方へと跳びかかった。


「イーヴァ! アンタ、何して!」


 一体イーヴァはどういうつもりで【姑獲鳥】に攻撃を仕掛けているのか。俺には全く分からない。そもそも俺は攻撃しろともイーヴァに言っていないし、考えても居ないはずだ。


『をううう!』


 イーヴァが差し向けてくる杭に対抗するように、【姑獲鳥】は声を上げて自身の黒髪をその杭へと差し向ける。だがその髪を融け落とさせる効果のある杭すべてを止め切ることは叶わず、【姑獲鳥】の身体に何本もの杭が突き刺さる。


『うををう!』


 杭で突き刺され、痛みを感じているのだろう。髪と同じように「じゅわじゅわ」と音を立てて融け落ちる身体から、どうにかして杭を外そうと必死に身を捩る【姑獲鳥】。


 その手足は現れた時点で既に包帯のような白布で拘束されてしまっているため、使い物にはならない。唯一自在に動かせる髪を使い身体から杭を外そうとも【姑獲鳥】はしているようだが、杭に触れた先から髪が融け落ちてしまうため、ほとんど意味を成していない。


『をううう! をううう!』


「イーヴァやり過ぎだ! このままだと【姑獲鳥】が消えちまう!」


 俺は【姑獲鳥】と峰産、どちらも救いたいだけなのに。なんでコイツは【姑獲鳥】を消そうとしていやがるんだ!


 俺たちを守るイーヴァの帯の中から声を上げるが、イーヴァは相変わらず俺の方には視線を向けない。だが、どうやら声は聞こえているらしく「……それで良いのだよ、ナツヲ」という、冷ややかな声が俺の耳に届いた。


 ……なにが、それで良いんだ?


 俺には、イーヴァの言った言葉の意味が、微塵も理解できない。


「杭よ」


 宣誓するように、イーヴァの白い腕が高らかに持ち上げられる。そうすれば再びイーヴァの背後から無数の杭が現れた。


「やめろ! 止めろイーヴァ!」


 ぐったりとした様子の峰産を抱き込みながら、俺は静止の声を上げる。だがイーヴァは無慈悲にも手を振り下ろし、自身の背後にある杭を【姑獲鳥】に向かって穿ってしまう。


「イーヴァ!」


 静止を希った俺の言葉を反映させることなく、穿たれた杭。それらは既にいくつもの杭を打ち込まれ、痛ましい姿と成り果てている【姑獲鳥】の身体に追い打ちをかけるように深々と突き刺さる。


『をううう、をううう!』


 悲痛な叫びを上げながら、身を融かす音と共に消えゆく【姑獲鳥】。


 ああ駄目だ、駄目だ! こんなの、絶対『救い』じゃない! こんなこと、絶対『救い』であっていいはずがない!


 ……なんで! イーヴァは、こんなことをするんだ!


「どうして……!」


 【姑獲鳥】の姿が融けきり無くなると同時に俺たちが今まで居た黒の世界が解け、俺と峰産が元々居た教室が姿を現す。


 俺たちが今まで居たあの黒い世界は一体何処だったのだろう。異空間、あるいは別次元などと呼ばれる場所なのだろうか? そんな疑問を抱きながら、帯の隙間から教室を覗き続けていれば、しゅるり、と音を立ててイーヴァのその帯が解けて俺たちの傍から離れてゆく。


「イーヴァ……」


 教室の中――それも、俺が【姑獲鳥】に襲われる以前より教室内で倒れていた女生徒たちの真上で、ふわふわと浮かんでいるイーヴァを俺は見上げる。


「どうして、【姑獲鳥】を殺した!」


 峰産も【姑獲鳥】も救う。ソレはもしかしたら欲張りで、傲慢で、高望みな代物だったのかもしれない。だが、それならそうと一言ぐらい言ってくれても良かったではないか。出来ないのであれば、何でそう言わなかったんだ。


「出来ねぇンなら、何で、『出来ない』って言わなかったんだ……!」


 相変わらず気を失ったままの峰産を抱き込みながら、俺は浮んでいるイーヴァを睨み上げる。そんな俺の視線を逸らすことなく、イーヴァは真直ぐ俺の瞳を見つめてくる。


「ナツヲ、私は言ったはずだ。【姑獲鳥】はその娘に憑く『事象』だと」


「……ああ、確かに言ってたな」


 【姑獲鳥】は峰産の憑きものであり、『母』であり、『守護霊』であり、『事象』。【姑獲鳥】の説明をした際に、イーヴァがそう言っていたことを思い出しながら俺は小さく頷く。


「そう、【姑獲鳥】はその娘の憑きものであり、『守護霊』であり、『事象』。すなわち『ソレ』は体質であり、遺伝子レベルで定められた代物だ。例え今のように形を成して現れたモノを昇華させたとしても、根本が解決されない限り再びその娘はその『事象』に【姑獲鳥】の姿を与え、【姑獲鳥】はその娘の意思に応えるだろう」


「つまりアンタは【姑獲鳥】は死んでないし、何なら今も俺たちの目には見えないだけで、【姑獲鳥】は此処に居るって言いてぇのか!」


「ああそうだ。だから安心しろ、ナツヲ」


 白の睫に縁取られた金の瞳を細め、ゆったりと頷くイーヴァ。

「【姑獲鳥】は死なねぇ、【姑獲鳥】見えねぇだけで此処に居る。そうかもしれねぇよ。でも、だからと言ってあンなやり方はねぇだろ!」


 既にいくつもの杭を打ち込まれ、痛みから必死に身を捩っていた【姑獲鳥】。そんな【姑獲鳥】に対して行ったイーヴァの無慈悲な攻撃は――あまりにも残酷で、俺が望んだ『救い』から最も離れている所業だ。


「ならばお前は、どうすることが【姑獲鳥】にとっての『救い』だと言うのだ? 答えてみよナツヲ」


 教室の床で倒れ込んでいる女生徒たちの上で浮遊していたイーヴァが、峰産を抱きかかえる俺の元へとやってくる。


 【姑獲鳥】にとっての『救い』?


 それは、ソレは――?


「無いのだよ、ナツヲ」


 イーヴァの白い手が俺の顔へ伸び、その指先がゆっくりと頬をなぞり上げる。


「あの【姑獲鳥】にあるのは我が子を慈しみ、そして我が子以外を排除すべき他者と認識せしめる鬼子母神のごときプログラムだけだ。故に【姑獲鳥】に『救い』は無い。否、むしろこの列島の状況から鑑みてもこの娘に憑く『事象』が【姑獲鳥】から『鬼子母神』に進化する可能性さえあるだろう」


 【姑獲鳥】に『救い』は無い?


 それどころか【姑獲鳥】から『鬼子母神』に進化する可能性さえある?


 もしそうなってしまったなら、峰産は一体どうなってしまうんだ?


「どうにもなりはしない。自己嫌悪の沼の中、母なる『事象』に抱かれ死ぬだけだ」


「ンなことッ……」


 絶対に駄目だ。


 絶対に、あっては駄目だ。


 ソレは『救い』じゃない。『救い』なんかじゃない。


 もしかしたらソレこそが峰産と【姑獲鳥】の最たる『救い』なのかもしれない。けれどそんな『救い』を、俺は絶対に『救い』だとは認めない!


「ならばナツヲ、お前は私に何を望む?」


 頬をなぞっていたイーヴァの冷たい指が、俺の目尻の部分でぴたりと止まる。


「二人にとっての『救い』かもしれないものを否定するお前は、二人のために何を望む?」


 まるでこの瞬間を待ち望んでいたかのように、イーヴァは自身の口角を僅かに上げる。


 ……確かイーヴァは先程の俺との会話で【姑獲鳥】のことを、峰産の体質であり、遺伝子レベルで定められた代物だと定義していた。そしてソレと同時に、根本が解決されない限り再び峰産はその『事象』に【姑獲鳥】の姿を与えるとも言っていたはずだ。


 ならば、その根本とは――、解決できる可能性のある根本とはどれだ?


 遺伝子か? それとも、今この列島に満ちているらしい地脈のエネルギーか? あるいは峰産の自己嫌悪からなる自己犠牲の心か?


 流石にただの人間でしかない俺には勿論、【神】を自称するイーヴァであっても遺伝子に関わることや、地脈のエネルギーのことを解決することは出来ないだろう。


 だが、峰産の心ならば解決できるのではないだろうか。


 峰産に付きまとう『事象』が【姑獲鳥】の姿を成したのは、地脈のエネルギーからなる環境の問題も大いに関係はあるだろう。だがそれでも、【姑獲鳥】がその姿を現したきっかけではないはずだ。


 むしろきっかけと呼べる代物は、今もなお教室の床で倒れている女生徒たちだろう。


 峰産に対して押し付け続けた挙句、心無い言葉で峰産を傷つけた彼女たち。そんな彼女たちから峰産を守るために『事象』は【姑獲鳥】と成った――。


 だから、もし峰産がその言葉に対して傷つかないだけの自己愛や、自信を持ったなら、峰産に付きまとう『事象』は【姑獲鳥】や『鬼子母神』としての姿を成さないのではないだろうか。


「イーヴァ」


「なんだ、ナツヲ」


「峰産が……峰産芽衣子が、もっと自分自身を好きになれるように、できないか?」


「ナツヲは、彼女に自信を持たせたいのか?」


「ああ」


 自分のことを好きになる。


 きっとそれは自己嫌悪の沼に溺れてしまっている峰産にとっては、簡単な話ではないだろう。かくいう俺も自分が好きかと問われれば訝しげな表情をするだろう。


 だが自分を好きになり、自分に自信を持つことは、悪いことではないはずだ。


 それこそ自信がありすぎるのは問題かもしれないが、自己嫌悪に陥り、身動きが取れなくなってしまうよりずっとマシだ。


 だから俺はコクリと頷き、イーヴァの瞳を正面から見据える。


「――お前がそう、望むなら。私は彼女が自信を得るために必要な縁を繋ぐとしよう」


 俺の頬に向けていた指先を俺の胸元へと滑らせるイーヴァ。するとソコから細く、そして赤い糸が現れる。


「イーヴァ、コレは?」


「縁と呼ばれる『事象』だ」


 俺の胸元から現れた謎の糸を『縁』だと説明したイーヴァがその先端を峰産の胸へと繋げれば、俺の腕の中に居る峰産が「んん、」と声を上げ僅かに身じろいだ。


「ふむ、これでおそらく問題は無いだろう」


 俺の目の前で、俺と峰産の縁を繋いだイーヴァ。むしろ、たったそれだけしかしていないイーヴァはおもむろに俺に対して何かを求めるように手を差し出してくる。


「ナツヲ、先程私がお前に渡したスマートフォンを返してくれるか?」


「え、あ……、ああ」


 一旦ポケットの中へと押し込めていたイーヴァ用のスマートフォンを取り出し、その差し出された掌の上に乗せる。そうすればイーヴァはすぐにその画面を付け、時刻と通知を確認しはじめた。


「ふむ、そろそろゲームのイベント開始時刻だな。私は先に家に帰るが、くれぐれも帰り道には気を付けるように」


 「念のため、壊れてしまっている私の杭も直してやろう」と、【姑獲鳥】に襲われた際に砕けてしまった腰元のウォレットチェーンを瞬時に直し、イーヴァは俺からの返事を聞くことなくその姿を消え去らせてしまう。


「え……? え?」


 教室内で倒れる女生徒たちの中、一人取り残された俺は呆けた声を上げる。


 俺がイーヴァに望んだことは『峰産に自信を持たせること』であり、イーヴァもまたそれを了承し、「彼女が自身を得るために必要な縁を繋ぐとしよう」と言った。にもかかわらず、イーヴァがしたことと言えば俺と峰産の縁を繋いだだけだ。


「あ、アイツ一体何を考えてやがンだ!」


 俺と縁を繋ぐことの何処か峰産に自信を持たせることと繋がるというんだ! そんな怒りともに声を発せば、俺の腕の中で意識を失っていた峰産がその眼をゆっくりと開いた。


「四ツ谷……くん?」


「あ、峰産……、大丈夫か?」


「う、うん」


 俺の言葉に応えるように首を縦に振る峰産。だがその顔が徐々に赤くなってゆく。


「本当に大丈夫か?」


 腕の中に居る峰産の顔を覗きこむようにして改めて様子を窺えば、「だ、大丈夫だから!」と彼女は大きく声を上げ、俺の顔から自身の顔を背けてしまう。


「あれ、……もしかして誰か、倒れてるの? ていうかわたしの眼鏡、どこ?」


 おそらく教室内で倒れている女生徒たちの姿が目に入ったのだろう。だが、いつもかけている眼鏡が無いせいか誰が倒れているのかまでは見えていないらしい。


 わたわたと俺の腕の中で動き、自身の頭や胸元に眼鏡がないか探しはじめた峰産。そんな峰産を助けるように俺もまた彼女の眼鏡を探そうと辺りを見渡せば、ちょうど俺たちの傍にある机の上に峰産の物と思しきビン底眼鏡が置かれているのが目に入った。


「よ、ッと」


 体調が万全ではない様子の峰産をいきなり手放すわけにもいかず、彼女を抱きかかえたままその眼鏡に手を伸ばす。その際腕の中に居る峰産を少し押し潰してしまうような形になってしまったが、大事は無いだろう。


「ほら、眼鏡」


「え、あ、ありがとう……、って大変! 先生を呼ばないと!」


 俺から眼鏡を受け取るや否やすぐさまそれを装着し、教室の床で倒れている女生徒たちの方を改めて見た峰産が大きく声を上げる。


 俺としては先生を呼ぶ前に、【姑獲鳥】のことや、体調のこと。そして峰産が何処までの事を覚えているのか、などを峰産本人に訊ねておきたいのだが――流石に今はソレを訊ねるタイミングではないだろう。


「なら俺が先生を呼びに行くから、峰産は此処でソイツらの様子を見といてくれ」


 抱きかかえていた峰産を解放し、立ち上がりざまに俺がそう言えば、顔を赤らめたままの峰産は「あ、うん。じゃあお願いするね、四ツ谷くん」と俺を見上げてくる。


 先程のことがあるため、教室内に峰産を残すのは少々気が引けるのだが、倒れている女生徒たちだけをこの教室に残すのもソレはソレで拙いだろう。ならばせめて早く帰って来ようと、教室を出た俺は教師たちが居る職員室へと駆け出した。



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