4話-②


 辺り一帯の風景が橙に染め上げられている中、学校帰りの俺は見なれない住宅街を一人歩いていた。


 というのも今日はゲーム雑誌の発売日であり、それを購入するため、家と学校から少し離れた場所にある本屋に寄っていたのである。


「イーヴァのヤツに雑誌見せたら、喜ぶだろうな」


 微細な表情の変化しか見せることのないイーヴァが目を輝かせ、食い入るように雑誌に夢中になる姿を想像しながら俺は僅かに自分の口角を緩める。


 そんな風にいつもと違う住宅街の中を歩いていれば、何処からか「みーみー」と猫らしきものの鳴声が聞こえてきた。


 一旦足を止め、きょろきょろと辺りを見渡してみるがそれらしい姿も、影も無い。それどころか、最近は俺を遠巻きに見ていることの多い小さな魔なるモノたちの姿さえも無い。


 だがそんな中でも「みーみー」と鳴く猫の声は聞こえ続けている。


「……どこに居ンだ?」


 別段、猫に興味があるわけではない。だが、もしその猫が助けを求めている――それこそ、何処かに挟まり動けなくなっていたり、何処かに落ちていたりするのであれば、助けてやるべきだろう。


 まるで俺に対して何かを呼びかけてきているようにさえ聞こえるその声の位置を探るため、耳をそばだててみれば、どうやらその声はどうやら俺の傍にある自販機の下から聞こえてきているようだった。


 軽く辺りを見回し、周囲に人が居ないことを一旦確認した俺は自販機の前に膝を着く。そして自販機に土下座をするように自販機の下を覗きこめば「みー」という鳴き声と共に黒い影が俺の目の前に伸び、「ぐちゅり」とやけに生々しい音を響かせて俺の左目に入り込んできた。


「ッ!」


 突然訪れたソレに、俺はすぐさま顔を上げる。だが視界に異常はない。それどころか左目にナニカが入り込んだはずなのに、痛みさえも無い。


「いったい、何だったんだ?」


 自分の身に何が起きたのか、全く分からない。むしろ何の不都合もないせいで、本当に自分の身に何かが起きたのかさえ疑わしくなってしまう。


「まあ、いい……か」


 本当に良いわけはないのだが、現状何の不都合もない俺はそう思う他ない。それにもし何か異常があれば、帰宅した際にでもイーヴァが何とかしてくれるだろう。それに今の俺にはイーヴァから渡されたウォレットチェーン型のお守りがあるのだから、魔なるモノもそう簡単には俺を襲うことが出来ないはずだ。


「帰る、か」


 改めて自販機の下を覗き込み猫やそれらの類の姿が無いことを確認した俺は、自販機の前から立ち上がり再び家に帰る為の帰路につきはじめた。





「ただいまー」


 ゲーム音楽が聞こえている自宅のリビングの扉を開け、中にいるイーヴァに帰宅の声をかける。だがイーヴァはテレビゲームに熱中しているのか、俺の言葉に返事をしない。


「イーヴァ?」


 リビングに入ってきた俺に背を向ける形でテレビゲームをプレイし続けているイーヴァの横に立ち、顔を覗きこむようにして顔を見る。その瞬間――ドクン、と左目の中で何かが脈動し、そこから伝播するように身体の毛が逆立った。


 癖のある白い髪に、白の睫に覆われた生気をまるで伴わない金の瞳。Tシャツから覗く白く滑らかな素肌には青い蛍光色の刺青が描かれ、その先に在るほっそりとした指はカチャカチャとゲームのパッドを弄り回している。


「ッ!」


 いったい何が? と思い、とっさに左目を手で覆う。だが残された俺の右目はイーヴァの露出するうなじ部分に向かい、離れない。


 ごくり、とその白い首を見る俺の喉が鳴る。


『――嗚呼、傷一つないあの首を切り落としたい』


 自分でも何故そんな感情が湧いているのかは分からない。だが俺はその沸き立つ感情につられるように、イーヴァの首を痛めつけたいという衝動に駆られていた。


 そしてそんな出所の知れない感情と共に、俺は歯痒さをも感じはじめていた。


 かゆい、かゆい、歯が、痒い!


 何かに齧り付きたくて仕方のない歯痒さ。それも目の前にあるイーヴァの首に齧り付けば、この歯痒さも、『傷一つない首を傷つけたい』という得体の知れない欲も解消される。そう安直に考えてしまうほどに強烈な痒み。


 そんな双方の衝動に判断力を著しく失った、としか思えない俺は、躊躇うことなくイーヴァの首に自身の歯を突き立て、齧り付いた。


 やわらかな肉というよりかは『ゴム長靴』という、妙な触感と味を歯と舌先で感じながら俺は噛む力をさらに強める。そうすればイーヴァのその皮膚が「バリッ」と割れるように裂けた。ただし血液、あるいはソレに類するべき液体が零れる感触は無い。


「やはり、よからぬモノに魅入られているな。ナツヲ」


 イーヴァの首に齧り付いているため確かではないが、テレビ画面に向けら続けていたイーヴァの瞳は今、俺の方へ向けられているだろう。


 直接確認できはしないものの、容易く想像できるほどに覚えのあるイーヴァの冷たい視線を感じていれば、『――嗚呼! その忌々しい金の目で私を見るな!』という、俺由来ではない感情が改めて沸き上がってきた。


『何故貴方は生きているのです! 何故貴方は悩まないのです! 何故貴方は私たちに復讐しないのです! 嗚呼、すべてが憎らしい! 貴方のその眼も! 顔も! 肌も! 貴方のすべてが、憎らしい!』


 止まることなく、ふつふつと湧き上がり続ける俺ではない『誰か』の感情。


 その『誰』のモノなのか分からない感情に苛まれる俺を労わるように、イーヴァの指先がそっと俺の頬に触れ、優しく撫でる。だがすぐにイーヴァの指先が触れた部分が、火傷をした時のようなヒリヒリとした痛みを訴えてきた。


 左目からの脈動。治まることのない歯痒さ。誰のモノかもわからない感情。そして、イーヴァが触れた箇所から伝わる火傷のような痛み。


 自身の身体にいったい何が起きているのか分からなくなりつつある中で、俺は必死に胸中でイーヴァに「助けてくれ」と助けを求めた。


 だがイーヴァはそんな俺に対して無慈悲にも「残念だったな、ナツヲ。私は今、非常に『怒っている』から、お前をすぐに助けたりはしないぞ」と言い放つ。


 怒っている? 俺に噛みつかれても嫌がる素振りを見せないどころか、労わるような手つきで俺の頬を撫でてさえいるイーヴァが?


「ナツヲ、お前は自らの浅はかさを学ぶべきだ。現状、お前には私の一部でもある杭を与えてはいるが、その守りの効果は万全ではない。【姑獲鳥】の時もそうではあったが、杭の守りは『お前が自らの意思で魔なるモノの居る場所へ行った場合』にはその効果を発揮できない。分かるか、ナツヲ。もしあの時、お前が浅はかにも学校に居残り魔なるモノの姿を自らの意思で探しさえしなければ、お前は【姑獲鳥】に出会わず、【姑獲鳥】もまたお前を避け続けたのだ。そして今日も、猫の声を真似たモノにかどわかされ自販機なるモノの下を覗き込みさえしなければ――よからぬモノに魅入られることもなかった」


 いったいイーヴァは何処まで俺の行動を把握しているのだろうか。


 自分が何処で何をしたかなど、俺は一言も言ってはいない。それこそ今日の事は勿論、【姑獲鳥】と邂逅した時の事柄もイーヴァには伝えていない。にもかかわらず何故イーヴァはソレを把握しているのだろう。


「そうだな。お前の口からは、私は何も聞いてはいない。だが、お前に渡した私の一部はお前の行動を常に見ている」


 つまり、イーヴァが俺に渡した杭を連ねたウォレットチェーン型のお守りは、俺を守る効果があると同時に、イーヴァの眼の効果もあるということか。


「そうだ。私はいつでもお前を見ている」


 よしよし、と声が付きそうな手付きで俺の頭を撫でてくるイーヴァ。先程まで撫でていた頬とは違い髪が在るせいか、その指先が触れた箇所から火傷のような痛みは伝わってこない。


「だからな、ナツヲ。私はそんなお前に罰を与えねばならない」


 ――罰?


 突然イーヴァの口から発されたその単語に、俺は疑問を覚える。


 それこそ今、俺はイーヴァの首に齧り付き、危害を加えてはいる。だがイーヴァが先程言った言葉の脈絡から察するに、イーヴァに危害を加えている俺に対して罰を与えるのではなく、むしろこうなるに至った俺の浅はかな行動そのものに『怒り』、そして「罰を与えねばならない」と言っているような気がする。


 左目からの脈動と、イーヴァの首を噛んでも止むことのない歯痒さ。そして誰のモノなのか分からない感情。少なくとも今はイーヴァが髪越しに頭を撫でてきているため、火傷のような痛みは走らない。が、それでも俺の中で渦巻き、煮え立つソレ等に苛まれる俺の思考は働きが悪い。


 嗚呼。俺が今考えた通り、イーヴァは俺の行動に『怒り』、罰を与えるつもりなのだろうか?


 そしてもしその通りであるならば、イーヴァはどんな罰を俺に与えてくれるのだろうか?


「私は、お前の愚かなまでに『優しい』その心を許そう。私は、お前のその危機感の無さを許そう。だがお前は、自身のその浅はかな行動が身を滅ぼすのだと――自覚するべきだ」


 だからイーヴァは俺に罰を与える。


 イーヴァの『怒り』を鎮めるためにではなく、俺に自らの行動を顧みさせるために。俺に、自身の行動がどれほど浅はかなものだったのかと、知らしめさせ、学ばせるために。


「おお。理解できたようだな、ナツヲ」


 おそらく口角を緩めているのだろう。感嘆の声と共に柔らかな声でそう言ったイーヴァは、改めて俺の頭を撫でてくる。そんな、罰を与える前とは到底思えないほどの優しささえ伝えてきているその手が、いつ俺に罰を与えてくれるのかと身構えていれば――イーヴァの手が俺の頭部から離れた。


 それどころか一旦止んでいたパッドの操作音と、ゲームの戦闘音も鳴り始める。


「イ……ヴァ?」


 強烈な歯痒さを未だ訴え続ける歯を一旦イーヴァの首から離し、イーヴァの名を呼ぶが返事は無い。それどころか視線さえも俺に向けてはくれない。


「イー、ヴァ。なん……で」


 俺を罰すると言ったくせに、俺に触れることを止めたどころか視線の一つさえ向けてくれないイーヴァ。


『どうして貴方は私を罰さないのです! どうして貴方は私に言葉を返さないのです! どうして貴方は私を見ないのです!』


 俺の中で沸き立ち渦巻く誰由来かも分からないイーヴァへの苛立ちと、俺の自身の感情がぐちゃぐちゃにかき乱される。


 嗚呼、今の俺は本当に『四ツ谷ナツヲ』という人間だろうか?


 『四ツ谷ナツヲ』以外の誰かでは、ないだろうか?


 相変わらず左目から伝わる脈動に、激しい歯の痒み。そして俺の胸中でひたすらに沸き立つイーヴァへの苛立ち。それらに苛まれ正常な判断さえできなくなっているらしい俺は、それからなる衝動に従い、イーヴァの首――俺が齧り付いたせいで皮膚と称されるべき部分が割け、杭と同じつややかな水色を覗かせている首に、再び齧り付いた。





 それから数時間後。イーヴァがゲームパッドから手を離したのは、時計の針が零時を指し示した頃だった。


 俺の方といえば、イーヴァの首に齧り付いてから二時間ほど経った時点で既に顎の力と共に精根も尽き果て、リビングの床に転がっていた。勿論今も尚、胸中で渦巻く誰のモノかも知れない感情渦巻き続けてはいるが、当初のように激しいものではないし、左目の脈動も疼く程度でほとんど感じられない。


 ただそれでも俺を無視し続けるどころか、罰を与えると言ったくせに罰と呼べるような痛みさえ与えてくれなかったイーヴァの有言不実行さに恨めしさはある。そう、それこそどんな罰を与えられるのかと覚悟――あるいは期待した部分があるだけ、いただけない。


「ふむ、峠は越えたらしいな」

「ンだよ……、峠って」


 俺の心情を知っているくせに。俺が苦しんでいるのを知っていたくせに。まるでそんなこと、「知らない」とでも言うように平然とした表情をしているイーヴァ。いや、コイツの平然とした表情は今にはじまったことではないが、こうも我関せずとされていると、腹立たしさがある。


「峠は峠。お前の左目に侵入した『魔』が、分離時に与えられたエネルギーの大半を使い尽くした頃合い、だ」


 俺の左目に侵入した『魔』、ということはやはり自販機の下を覗いた際にあった出来事は、本当に在ったのか。


「そら、仰向けに転がれ」


 顔だけを横に向け身体を俯せの状態にさせていた俺を転がし、強制的に仰向けにしてくるイーヴァ。


 いったいこれからコイツはなにをするのだろうか。俺に罰を与えるのか? それとも俺の左目に侵入したという『魔』をどうにかしてくれるのか?


 後者であればどれだけ救われるだろうか。と、淡い期待さえ抱きながらイーヴァがどうするのかと身構えていれば、おもむろにイーヴァが俺の下腹部の上に座ってきた。それも馬乗りになるようなかたちで。


 しかも最初の位置取りが気に入らなかったのか、ずるりずるりと、俺の上に乗せている尻を動かし、俺の胸部までずり上がってくる。


 イーヴァはいったい何をするつもりなのだろうか。


 俺の胸部に馬乗りになり、据えた金の双眸で見下ろしてくるイーヴァ。そして俺の左目に対してひらひらと手を振るその姿を、どこか恐ろしいものに感じはじめた俺は、イーヴァの名を呼ぼうと唇を開く。が、そうすることは出来なかった。


「イッあああッ!」

「多少痛むかもしれないが、我慢しろナツヲ」


 多少どころじゃない! 今の時点で普通に痛い! 指を、抜け! 俺の眼球から、その指を抜け!


 俺の左目の前でひらひらと手を振っていたイーヴァ。その姿を恐ろしいものだと感じた俺の直感は正しかった。


 なにしろイーヴァは何の宣告も無く、その手を――その指先を、俺の左目に付き入れてきたのだから。


「イーヴァッ、やめて、くれ!」


 おそらくただ単純に左目部位に指を付き入れているわけではないのだろう。そうでなければ俺はこんな事を考えるだけの余裕もないし、そもそも激しい痛みから逃れるため必死に暴れているだろう。しかし拒絶の意思を言葉で伝えても、イーヴァの指が止まる気配はない。


 嗚呼、クソッ! 何でこんなことをイーヴァはする! 何で俺の望みをイーヴァは叶えてくれない! 俺はこんなにも、左目から指を引き抜くことを望み、求めているというのに!


 嗚呼畜生! それともこれがイーヴァから俺への罰なのか!


「――罰、か? 嗚呼、そうか。やはりそうか。お前は先程の罰を罰だと認識してはくれなかったのか。……ならば私は、今からこれを罰としよう」


 今からこれを罰とする? そもそもイーヴァの言う「先程の罰」とは一体何の事を言っているのだ?


「むぅ……。今こそお前は私からの罰を拒絶しているようだが、お前は私が与えていた放置の罰を罰として認識しないどころか、明確な……それこそ痛みとしての罰を求め、期待し続けていただろう? だから私は与えるのだ。お前に痛みとしての罰を」


 イーヴァが俺を無視し続けていたあの数時間は、イーヴァから俺に対しての罰だったらしい。だがそんなこと、言ってくれなければ分かるはずがない!


 ただ無視され、放置され続けていたとしか認識していなかった俺はそう憤るが、イーヴァは俺の憤りに対しての言葉を発さない。それどころか、「今から、お前の左目に根付かんとする『魔』を引きずり出す。だからお前は望みと期待通り、痛みによる罰を味わえ」と、無情にも伝えてくる始末だ。


 嗚呼、これ以上の痛みをイーヴァは罰として俺に与えるつもりなのか? そんなこと、冗談じゃない!


 左目部位に指を付き入れられている為、顔を無造作に振るような真似はできない。しかしそれでも次の瞬間にでも与えられかねない罰を回避するべく、俺は上に乗るイーヴァの下で弱々しくもがく。


「やだ、やめてくれ……」


 ただでさえ痛いのに、これ以上の痛みを味わうとなると正気を保っていられる気がしない。


「嗚呼、ナツヲ。その点は安心しろ。気を失うほどまでの痛みを、私はお前に与えたりはしない。だからお前は存分に罰としての痛みを……お前が求めていた罰を心行くまで味わい、自らの浅はかさを顧みろ」


 俺に対しそう告げた後、イーヴァはゾッとするほどきれいな笑みを浮かべてくる。


 もしこの笑みがこんな状況下で浮かべられたものでなければ、俺は大層驚き、喜んだことだろう。だが今のこの状態では全く喜べない。それどころか恐怖で身体が戦慄くほどだ。


 しかしそんな俺を余所に、イーヴァはその笑みを浮かべたまま「さあ、では引き抜くぞ」と宣言し、俺の左目に付き指す指をさらに奥へと入り込ませた。





   *





 ――気が付けば、どうやら朝になっていたらしい。


 子供に片づけられることなく、放置されたままのおもちゃのようにリビングに転がっていた俺は、ほのかに日の光を透かしているカーテンをぼんやりと見つめる。


 ……昨日は散々な目にあった。


 自販機の下の影。左目の脈動。強烈な歯痒さ。誰のモノとも知れぬ憤りの感情。そして、俺に対しては著しく優しく、甘い印象のあったイーヴァから与えられた、痛みによる罰。


 脳に近い眼球部をぐちゅぐちゅと無造作に弄られ続けるあの感覚と、俺の眼球の中で根付きつつあったらしい『魔』を引き抜いた瞬間の激しい痛みはしばらくの間忘れられそうにない。


 嗚呼、今思い出すだけでもゾッとするし、あんな思いをするぐらいならもう二度と軽はずみな行動なんてしねぇ!


「あー、今何時だ……?」


 ごろり、と寝返りを打つように身体を転がせば、俺の隣で寝転がっていたらしいイーヴァの顔が目の前に現れた。しかも目を瞑っているところを見るに、どうやらイーヴァは眠っているらしい。


「……珍しいこともあンだな」


 イーヴァとはしばらく一緒にすごしているが、こうやってコイツが瞼を閉じ、眠っているような様子を見るのは初めてかもしれない。


 というか、昨日俺はコイツの首に齧り付いてしまったんだったか。


 昨日、自分の身に起きたことにばかり気がいってしまい、俺がイーヴァに対してしでかしてしまった事をすっかりと忘れていた俺は、改めてイーヴァの首元に視線を向ける。だが、昨日俺が齧り付いていたイーヴァの首元は元通りになっており、割けた皮膚の合間から見えていたつややかな水色も今は見えない状態だ。


「……んむ、起きたのかナツヲ」


 ぼんやりとイーヴァの顔を眺めていれば、イーヴァも目が覚めたらしい。ぱちりと、閉じていた瞳を開き、俺の顔を見つめた。


 至近距離で目に飛び込んでくるイーヴァの瞳。その瞳を見た瞬間、俺の身体が強張る。


「……ッ、」


 イーヴァの金の瞳が俺を見つめている。


 恐怖と痛みで戦慄く俺の意思に聞く耳を持たず、無造作に眼球を弄繰り回したイーヴァが。口角を上げ、笑みをたたえたその顔が。冷たささえ感じる視線で俺を見下ろし、見据えた金の瞳が。俺を見つめている。


 ――嗚呼、なんて恐ろしい。


「……お、おはよう」


 瞬間的、ではあったものの『恐ろしさ』を感じてしまった俺は、イーヴァの顔を極力見ないようにしながら挨拶をし、気だるい身体を無理やり起こしにかかる。


 昨日あんなことがあったせいで、風呂も入っていなければ食事も摂れていないし、洗濯も出来ていない。それどころか昨日の帰りに本屋で買ったゲーム雑誌もイーヴァに見せてやれてない。


 少し離れた場所に置きっぱなしにしていた通学鞄を手繰り寄せ、ゴソゴソとその中身をあさる。そして中から昨日買ったゲーム雑誌を取り出した俺は、転がったまま微動だにしないイーヴァにソレを投げた。


「その雑誌読ンでて良いぞ」


「……おお、コレがゲーム雑誌なるものか」


 投げ渡されたゲーム雑誌を開くイーヴァ。その表情こそ今は見る気にはならないが、聞こえてきた上機嫌な声から察するに、大いに喜んでくれていることは分かる。


 そんな上機嫌なイーヴァを尻目に、俺は睡眠不足と気だるさを感じる身体を無理やり立ち上がらせ、ゆっくりとした足取りで風呂場へと向かう。


「風呂、入ってくる」


 今、時計が指し示している時刻は五時。これならシャワーを浴びて飯を食い、昨日手つかずのままにしてしまった課題の消化も出来るだろう。それにもし課題が早く終わりそうなら、登校時間まで仮眠するのも良いかもしれない。


 ずるずると身体を引きずるようにしてリビングを出て行く俺に対し、「ふむ、行ってくると良い」と言葉を返してきたイーヴァの聞き、俺はリビングの扉をぱたりと閉じた。






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