1話-③
辺り一帯の風景が橙に染め上げられている中、俺は猛スピードで走っていた。
夕暮れ時の時間帯。それも仕事終わりの大人や学校帰りの学生が行き交う大通り。そんな時間と場所において、俺の姿はただの帰路を急ぐ学生に見えていることだろう。しかしそれは、俺の後ろを追いかけて来ている魔なるモノを認識出来ない普通の人間にとっての話だ。
それなりに人が行き交う大通りを走り後方を振り帰ってみれば、相変わらず黒い粘性のバケモノ――否。ワゴンカー一台分ほどに肥大したスライム状の魔なるモノが、猛スピードで俺の方へと迫ってきていた。
「ナツヲ、三つ目の曲がり角で路地へ入れ」
「ッ、行った先が行き止まりだったらぜってぇ許さねぇからな!」
悪態を吐きながらも、走る俺の隣で悠々と浮かんでいるイーヴァの指示に従って俺は三つ目の曲がり角で路地へと入る。
「アイツ、まだ追いかけて来てるか?」
ただの巨体から、ワゴンカー一台分ほどの巨体へと変貌した昨日の魔なるモノ。その様子を振り返ってまで見る余裕のない俺に応えるように「ああ、だが巨体すぎるせいか路地の入口で詰まっている。確認してみると良い」とイーヴァは言い、その様を一応確認するように勧めてきた。
「うわ、マジで詰まってンな……」
ただひたすら俺たちだけを見て、追いかけて来ていたのだろう。イーヴァの言う通りスライムを思わせるような黒い粘性の物体が、ビルとビルの間に挟まり、詰まっている。
「でもまあ、これで少しは休めるか……」
「ハァ、ハァ、」と切れ気味になっていた息を整えながら、ビルの壁に寄り掛かる。勿論、視線はビルとビルの間に挟まっている魔なるモノから離さずに。
一時はどうなるかと思ったが、何とか今はアレの手に掛かることなく逃げられてはいる。だが、それもやはり『今は』でしかない。
そもそも何故俺とイーヴァがこんなことになっているのか。それはつい先程、それこそ学校から出ようとした時に遡る。
学校の授業も無事終わり、もし、帰宅途中に昨日俺を襲った魔なるモノが現れたら、人気のない所へ誘導し、出来そうならば『倒す」。という今後の方針と段取りをある程度決めた俺とイーヴァ。勿論、俺たちの力だけで本当にあの魔なるモノを『倒す』なんてことが出来るのか不安だったが俺たちには『倒す』という方法しかなかったのだ。
本来ならば封印だとか、それに類する手段を取るべきなのだろう。しかし俺にそんなことが出来る知り合いはいないし、俺自身に知識もない。イーヴァの方もそういう類の手段には縁がないらしい。
それに加えて『倒す』以外の方法が思い浮かばなかったこともあり、俺たちは、否。俺は、昨日の魔なるモノが現れた際に俺を囮にし、誘導することを自らの意思で決めた。
だがしかし、その意気込みを携え、学校の敷地の外へ足を踏み出そうとしたその時、俺の上部で浮いていたイーヴァに首襟を引っ張られた。
「ぐぇ」と、今でも再現できそうなほど間抜けな声を出した俺に対して、引っ張ったイーヴァ本人は悪びれる様子を一切見せず、校門の外を指した。
「ナツヲ」
「ッたくなンだよ……」
「いきなり引っ張りやがって、」と悪態を吐きながらイーヴァに指さされた方向を見てみれば、既に校門のところに昨日の魔なるモノが居た。
それもその大きさをはるかに肥大化させた姿で。
「ヤベェ……、出待ちされてンだけど」
たった一晩しか経っていないはずなのに、ただの『巨大』でしかなかった大きさから、ワゴンカー一台分ほどの大きさにまで成長したソレ。しかも生えたのか、あるいは自発的に生やしたのか。その魔なるモノの底部には手と思しき物がムカデの足の如く無数に生えていた。
「でもなんでアイツこっち側に来ねぇンだ?」
少なくとも学校の敷地の外に居るソレは、学校の敷地内に居る俺たちを認識しているはずだ。にもかかわらず、ソレは校門の前で忙しなく徘徊するだけで、俺たちの方へ襲い掛かって来はしない。
「それは人間の認知のせいだろう」
「具体的に言うと?」
抽象的で、分かりづらいイーヴァの言葉。その言葉に具体的な例を求めながら校門の内側でしゃがみ込めば、イーヴァも俺に合わせてしゃがみ込んできた。
「……人間が抱く『学校は関係者以外立ち入り禁止』という認知が境界となっているせいで、招かれていないあの魔なるモノは学校の敷地内へ侵入することが出来ない」
俺の顔に自身の顔を寄せ、「これで、分かっただろうか?」と小首を傾げてくるイーヴァ。そんなソイツに「分かった」と返事をした俺は続けざまに「ならイーヴァはどうなンだ? 実際にアンタは、学校に入れてるよな?」と質問した。
校門の外で魔なるモノがうろうろと所在なさげに徘徊している理由は分かった。けれど、現に俺の隣にいるイーヴァはその人間の認知を擦り抜け、学校の敷地はおろか校舎の中にまで入りさえしている。それにサイズは小さいが、魔なるモノを校内で時々見かけてだっている。
「私はナツヲの認知に左右されているからな。お前が認めてくれた場所にしか、私は行かない。それに烏程度の大きさのモノであれば、学校内でも出入りは可能だ」
「烏や雀の類が内部に侵入しようと、さほど人間は気にしないだろう? ソレと同じだ」と、俺の考えていたことにさえ律儀に答えてくれるイーヴァ。だが今はその後者の小さな魔なるモノたちについては置いておき、俺はイーヴァが俺の認知に左右されているという部分が気にかかった。
そう、俺の理解が間違っていないのであれば、イーヴァは俺が認めさえしなければ学校にも入ってこられないし、俺の家にも入ってこられないのか。
ちらり、と俺の体勢に合わせてしゃがみ込んでくれているイーヴァを見るが、そのことに関してコイツは口を開かない。おそらく俺が抱く疑問に応えれば、自分が不利になるということが分かっているのだろう。まあ、それに思い返してみれば、昨日のコイツも俺が招くまでは家の敷地を跨ごうともしなかったから、俺の理解は合っているのだろう。
だが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
俺たちはまず、校門の外に居るあの魔なるモノを何処か別の場所へ誘導しなければならないのだから。
「ま、アレが校門の前で出待ちしている以上、やるこたぁ同じだよな?」
しゃがみ込んでいた体勢を改め立ち上がれば、イーヴァも俺に合わせて姿勢を改め、俺より少し高い位置に浮かぶ。それを確認し、今一度イーヴァと視線を合わせた俺は校門から外へと足を踏み出し――今に至るというわけだ。
だから、この現状に一切の悔いはない。何故なら俺がこうなることを自らの意思で望んだのだから。
案の定、俺たちを追いかけてきた魔なるモノは、昨日俺を追いかけていた時の速度より早くなってはいた。だがイーヴァが帯で足止めを時折してくれていたので、無事此処まで逃げ切ることはなんとか出来ている。
改めて「はぁー」と深く息を吐き呼吸を整えていれば、いきなりイーヴァに首根を掴まれ、無理矢理走るよう急かされた。
「なッ!」
「ナツヲ、走れ」
戸惑う俺をよそに、先へ先へと俺を進ませようとするイーヴァ。だがそんな俺たちを待ち構えていたかのように前方では、黒い液体がボタボタと鈍い音を立てて落ちてきていた。しかもソレは触れた地面を融かしているのか、シュワシュワと泡立たせると共に異様な腐臭と煙をも発生させている。
「ンだよコレ!」
明らかにマトモな代物ではないその液体。ソレをどうにか避け、イーヴァに急かされるまま俺は裏路地を走る。
「私たちを追いかけて来ていた魔なるモノだ。アレは今、上から私たちを追いかけて来ているぞ」
そんなまさか。確かに俺たちを追いかけて来ていた魔なるモノは、ビルとビルの間に挟まっていたはずだし、俺はソレをしっかりと見ていた。だがイーヴァの言葉通りに、今ソレはビルの上、あるいはその壁を伝って俺たちを追いかけても来ている。
「ッ、まさか分裂したのか!」
俺たちの視線を引き付けるためだけに居る『ビルの間に挟まる個体』。そして気を緩めていた俺たちを襲うための『別の個体』。もしそうであるならば、アレには相当の知能が備わっているのではないだろうか。
「ッ、イーヴァ急ぐぞ!」
「ああ」
その後もイーヴァの指示に従い狭い裏路地の合間を走り続けていれば、四方をビルで囲まれた空き地が現れた。まるでその場所が特別な場所なのではないかと思ってしまうほど、異質なまでにぽっかりとその土地だけが空いている。
「……ふむ」
おそらくこの場所を目指し、俺を誘導していたのだろうイーヴァは一つ頷き、掴んでいた俺の首根から手を離す。そして何かを確認するようにふらふらとその敷地の中を浮遊しはじめた。
いったいイーヴァは何をしているのか。そんなふらふらとしているぐらいならば、俺たちを追いかけて来ている魔なるモノをどうにかしてほしいのだが。
この場所へあの魔なるモノを誘導するその理由と、その意味を教えてくれないイーヴァ。そのことに少し憤慨しながら、俺は俺たちを追いかけて来ていたあの魔なるモノの巨体を探す。だが四方何処を見てもその姿はなかった。
あんな巨体なモノを、見失うわけがない。しかし分離や迂回の知能を兼ね備え、俺たちを騙したあの魔なるモノのことだ。もしかしたら今も何処かに隠れ、俺たちに隙が出来るのを虎視眈々と待っているのかもしれない。
姿を消している魔なるモノの存在を確認しようと、ぐるりと四方を再度見渡す。けれどその姿はやはり無い。しかしその代わりに戸でも言うように、俺は空き地の一角に幼い女の子が一人、ぽつんと所在なさ気に立っているのを見つけた。
何故こんな所に少女が居るのだろうか。それも一人で。もしかして迷子なのだろうか? というか、そもそも俺たちが来た時に、彼女の姿は無かったような気がするのだが。
「なあ、ンな所でどうした? 迷子か?」
少女の存在を不思議に思いながらもその身を案じた俺が彼女に近付けば、唐突に少女の身体がイーヴァの帯で刺し貫かれた。
『ウぁ』
少女の口から、やわらかな声が漏れる。
少女の瞳が、俺を捉えて離さない。
「何してンだよイーヴァ!」
やっぱりイーヴァは信じてはいけないヤツだったんだ!
空き地の中を浮遊していたイーヴァの方へ振り返れば、ソイツは冷ややかな瞳で俺たちを見下していた。
「おい、イーヴァ聞いてンのか! その子を、離せ!」
帯が刺し貫いている少女を指さし、イーヴァにそう言う。だがイーヴァは何も言わない。むしろ長く伸びている帯を利用して、俺と少女の間に壁さえ作ってしまう。
「イーヴァ! 何とか言えよ!」
そう俺が叫んでもイーヴァは何も言わない。むしろイーヴァは俺を背後から抱き込み、瞼の奥に埋まる金の瞳で俺を睨みつけてくる。
「な、何だよ……」
どうしてだろう。イーヴァに見られているだけのはずなのに、俺の足が勝手に震えている。
イーヴァのか細い腕なんて。弱り切っていると自己申告のあったイーヴァの身体なんて。簡単に跳ね除けてしまえるはずなのに、俺は俺を抱き込むコイツを拒絶できない。
「ナツヲ。今のお前の『優しさ』は、愚かそのものだ」
意味不明なイーヴァの言葉。その言葉が俺に届いた次の瞬間、イーヴァは冷めた表情のまま帯で刺し貫いている少女を地面へと叩きつけた。
「イーヴァ! やめろ! やめてくれッ!」
地面へ叩きつけられる少女を救おうと、手を伸ばす。だが彼女と俺の間にはそれなりに距離もあれば、帯による壁もあり、決して届くことはない。
「イーヴァ、お願いだ、やめてくれ!」
彼女が一体何をしたっていうんだ!
「ッ!」
俺の言葉が気に入らなかったのだろうか。イーヴァは抱き込んでいた俺の身体を後方へ強く突き飛ばす。
「なにすンだ!」と怒鳴り声を上げようと俺を突き飛ばしたイーヴァを見れば、さっきまで俺を抱き込んでいたイーヴァの腕が、少女の身体から伸びる無数の黒い腕に掴まれていた。
「ンだよ、それ……」
イーヴァの腕を掴む黒い腕。ソレは倒れている少女の腸から伸びていた。それも短い腕を補い合うよう互いに連なり、俺たちの間にあった帯を貫通しさえして。
「彼女は、私たちを追いかけていた魔なるモノの一部だ」
そう言ったイーヴァは、黒い腕に掴まれジュワジュワと音を立てて融けている自身の腕に視線を向けると、自分の帯でその腕を切り落とした。そして腸から無数の腕を連ね伸ばす少女から俺を庇うように、俺の前へと自身の身体を移動させる。
「立てナツヲ。今からアレが集まってくるぞ」
イーヴァのその言葉通り、少女の元へビルの影に潜んでいたらしい数多の影が吸い込まれるように集まってくる。そしてすぐさま少女の身体は黒い粘性の物体で覆い尽くされ、先程まで俺たちを追いかけて来ていたワゴンカー一台分ほどの巨大な魔なるモノへと変貌した。
「まさか、そんな」
小さなあの女の子が、魔なるモノ? ならばイーヴァは不用意にソレへと近付こうとしていた俺を助けようとしてくれたのか?
確かにイーヴァは言葉足らずで、説明を省くことが多い。そんなことは、コイツと一日過ごした俺が一番よく分かっている。それに俺に対して「私にとってお前は特別だからな」や、「出来ることなら、力になってやりたい」とも言っていたイーヴァが俺の害になることをするわけがないし、認めるわけもないのだ。
――なのに俺は。ソレを知っていたはずの俺は、イーヴァを信じなかった。
自らの望みを叶えるためにイーヴァを信じなくてはいけない立場の俺は、まがりなりにもイーヴァに信じると言った俺は、イーヴァの行いを信じなかった。
「……すまねぇ、イーヴァ」
俺の不用意な行動のせいで片腕を切り落とす羽目になったにもかかわらず、俺を庇うようにして俺の前に立ってくれているイーヴァに謝りながら、俺は立ち上がる。
「イーヴァ、俺はどうすれば良い?」
一応人気のないところにまで魔なるモノを誘導できた以上、俺たちがするべきは目の前の魔なるモノを『倒す』か『逃げる』かの二択しかない。
だがそんな俺に対して、イーヴァは冷たく「お前はそこに居ろ」とだけ言った。
「え……」
イーヴァ本人に、そのつもりはないのかもしれない。けれどイーヴァに対して負い目が出来てしまった俺にとってその言葉は「邪魔だから」、「足手まといだから」、「そこで大人しくしていろ」とでも言われているように聞こえてしまう。
ただ、これ以上不用意な行動を起こし、イーヴァに迷惑をかけてしまうのを避けたい俺は「わ、わかった……」とおとなしく頷き、数歩下がってイーヴァたちから距離を取る。
『神もどき、が! そいつを、よこせ!』
俺を襲うためには、イーヴァが邪魔だと判断したのだろう。巨大な魔なるモノが幼い女の子の声で吠え、自身の底部に生えている無数の手を準備運動の如く動かしはじめる。
そして、次の瞬間その巨体はイーヴァと魔なるモノの間にあった帯を粉砕し、イーヴァの身体を容易くビルへと突き飛ばした。
「――ッ!」
「イーヴァ!」
ビルの壁に叩きつけられたイーヴァの細い身体が、ずるりと音を立てて地面へと落ちる。
『所詮、神もどき、か!』
『か、か、か!』と醜悪な口を大きく広げて笑う黒い粘性の魔なるモノ。そんな巨体をしり目に、俺は地面へと落ちたイーヴァの元へ駆け寄る。
イーヴァに「お前はそこに居ろ」と言われていようとも。例え後でイーヴァに愚かだのなんだの言われることになろうとも。俺はイーヴァの元へ行き、支えてやらなければならないのだ。
だって、俺にはそうすることしかできないのだから。
気を失っているのだろう。ぐったりとした様子で地面の上に倒れているイーヴァの身体を、俺はそっと抱きかかえる。
「おい、イーヴァ大丈夫か?」
激しく揺さぶる、なんてことはせず声だけを掛ける。だがイーヴァは「う、」と小さくうめき声を漏らしただけで、閉じた瞼を開かない。けれど声を出したということは、死んではいないのだろう。
少なくともイーヴァが今、気を失っているだけなのを知った俺は一旦胸を撫で下ろす。
しかし、俺はそんなことで安堵している場合ではないのだ。
俺たちを狙い、イーヴァを昏倒させた巨大な魔なるモノへと視線を向ければ、その視線にソレも気が付いたのだろう。『か、か、か! ふたり、まとめて、食ってやる!』とソレは言い、無数ある手を再び準備運動の如く動かしはじめ、俺たちに突っ込んできた。
「ッ!」
気を失っているイーヴァを抱え、横に転がり込みなんとかその突進を寸前のところで躱す。だが、やはりイーヴァを抱えているとなるとどうしても動きが鈍ってしまうし、躱した際に受け身も取れない。それに今だってただ運よく躱せただけで、そう何度も躱せるとは限らない。
というか、ワゴンカー一台分はある巨大な魔なるモノの突進を一発食らったが最後、ただの人間でしかない俺は多分死ぬ。
少なくともこの空き地がただ広い場所ではないということと、俺たちを襲うこの魔なるモノはあまり小回りが利かないというその二点が在るため、連続して突進される可能性は低いだろう。ただ、それはあくまで『連続して突進してくる』可能性が低いだけの話だ。もし別の方法で攻撃でもされてしまえば、俺もろともイーヴァも食われてしまうに違いない。
絶対に、そんなことになりたくない。否、なるわけにはいかない。
魔なるモノからの突進を避けた際に崩した体勢を改め、腕の中に居るイーヴァをきつく抱きしめる。
せっかく此処までこの魔なるモノを誘導しこそしたが、イーヴァがコレを倒せないとなると俺にはどうしようもない。むしろ今は隙をみはからって逃げるのが一番の選択だろう。
しかし逃げるための通路から俺たちが今居る場所は遠く、それに例え今この状態を運よく切り抜けられたとしてもイーヴァを抱えている手前、すぐに捕まってしまうに違いない。
『逃げる、つもり、か? ならば、その神もどきを、置いて行け。そしたら、今日は、見逃してや、る』
あどけない少女のような声で、俺を唆してくる魔なるモノ。
だが例え今日見逃されたとしても、明日、明後日捕まってしまえば俺は終わりだ。それに、きっとここでイーヴァを差し出して自分が助かっても、俺は嬉しくなんてない。むしろイーヴァを犠牲に俺が助かってしまったことに、嫌悪さえ感じるだろう。
だから俺は、俺を唆す醜悪な巨体に「バッカじゃねぇの? 誰がンなことするかよ!」と、なけなしの勇気と、対抗心で啖呵を切った。
『そうか。なら、死ね!』
再び俺たちへ襲い掛かるつもりなのだろう。底部に生える手をうぞうぞと不気味に動かす巨体。
その光景に、俺は恐怖を抱いてしまう。
俺の目の前に居る魔なるモノは、また突進で俺たちを襲うつもりなのだろう。それを、俺は避けられるのか? そして、例え避けられとしても俺はその後どうすれば良い?
どうしよう、なんとかしなくては。でも、俺は何をしたらいい? どうしたらこの現状からイーヴァと共に生きて帰れる?
魔なるモノ相手に啖呵を切ってしまった以上、命乞いをしたり、自分を犠牲にしたりしてイーヴァだけでも見逃してもらうことはもはや出来ない。そもそも目の前の巨体が、俺なんかとの約束を守るとは到底思えない。
そんなモノを相手に、一体俺に何ができる?
ぐるぐると目まぐるしく回る思考。そんなことに意識を割いていれば、突如突進してきた巨体から上手く避けきれず、足をくじいてしまった。
「いッたぁ……」
鈍い痛みが走る足に僅かに意識をやりながら、三度、俺たちの方へと突進してきた魔なるモノの姿を見定める。
所詮、俺に出来ることなんてないのだろうか。
でも、俺はこの現状をどうにかしなくてはならない。
でなければ、俺だけじゃなくてイーヴァまで殺されてしまう。
「そんなこと、駄目だ」
むしろ絶対にあってはいけない。
俺を救おうとしてくれたイーヴァが、否、俺を救ってくれたイーヴァが殺されてしまうだなんてこと、絶対にあるべきではないのだ。
けれどそんな俺の思いを打ち砕くかのように、目の前の魔なるモノはまたしても底部の手をウゾウゾと不気味に動かし突進するための準備をしはじめる。
「……恐れるなナツヲ」
気が付いたのだろう。俺の腕の中に居る片腕のないイーヴァがそう声を発した。
瞼を開き、俺を見てくる金の瞳に一瞬喜びそうになった自分を押し殺し「だけどよ!」と俺は言葉を漏らす。
恐れるな、だなんて無理だ。
こんな死と隣り合わせの状態、怖いに決まっている。恐ろしいに決まっている。むしろ恐怖を抱かない方がおかしい。
「ならばナツヲ、私を信じよ」
「え……?」
「私を救いたくば、私に祈れ。助かれと強く望み、願え。さすれば私がお前もろとも私自身を救ってやろう」
「相手を恐れるな」ではなく、「私を信じろ」と言ってくるイーヴァ。それも俺が俺自身を救うために信じるのではなく、イーヴァを「救いたければ」と言いさえして。
「わ、分かった。俺は、アンタの為に、アンタを信じる」
正直なところ、俺は多分自分が救われることに対して祈るより、誰かのために対して祈る方が向いている。別段、欲が薄いわけではない。ただ、自分のことより他人のことを優先してしまうきらいが俺にはあるから――そう願い、望み、祈った方が、イーヴァの力になるのだろう。
「それで良い、ナツヲ」
俺の腕の中に居たイーヴァはその腕から離れ、ゆっくりと宙に浮く。そして残っている方の腕を伸ばし、その冷たい指先で俺の頬をなぞった。
『所詮、神もどき! わたしには、かなわな、い!』
『か、か、か』と声をあげて笑う魔なるモノ。ソレを横目で見たイーヴァは、俺の頬から指を離し、傷ついた身体で俺と魔なるモノの間に立ちはだかる。
既にイーヴァの帯は粉々にされている為イーヴァの壁となるモノはなく、依然として俺の中には魔なるモノに対しての恐れも消えてもいない。けれど、今の俺にはさっきまでよりはるかに大きな、イーヴァへの信じる思いがあるはずだ。
「いけ! イーヴァ! 魔なるモノを倒して、俺と一緒に救われろ!」
「――お前がそう、望むなら」
イーヴァが俺に言葉を返した次の瞬間、イーヴァの身体を中心に風が吠え、渦巻きはじめる。
「ッ!」
昨日イーヴァが俺の目の前に初めて現れた時と同じ現象を味わいながら、俺は瞼を閉じる。そしてその風が止んだ頃を見計らって瞼を開けば、ソコには腕の欠損をすっかり治しきったイーヴァが居た。
しかもその手元には、長さが俺の足一本分はありそうな巨大物体が――クリスタル型をしたつややかな水色の鉱石が、出現してもいる。
「終いにさせてもらうぞ、魔なるモノよ」
一見したところでは武器に適していなさそうな鉱石。というかそもそもの色合いが美しいため、俺としては武器として使用するにはもったいない気がしてしまう。それに、その物体には持ち手と思しき代物はないから、武器としてどこを持ち、どう扱うのか俺にさっぱり分からない。
だが、【神】であるイーヴァの武器に、唯人である俺の考えは通じないらしい。
何せイーヴァが目の前に居る魔なるモノに対して腕を差し向ければ、自ずとその動きに合わせ鉱石が追随し、溜めのないまま魔なるモノに対して打ち放たれたのだから。
「あッ」と声を上げる間もなく魔なるモノに突き刺さる鉱石。
だが所詮一本程度の攻撃では、巨体のソレに大きなダメージは与えられていなかったらしい。クリスタル型の鉱石が突き刺さった瞬間こそ魔なるモノは『グアァアア』と声を乱しこそしていたが、しばらくもしないうちに『神もどき、め! 所詮、この、程度か!』と悪態を吐いていた。
「そうさな。お前の言う通り、その巨体では幾分か足りまい」
冷ややかな声でそう言ったイーヴァが、自身の腕を横に打ち払う。そうすればその手の動きに連なるようにして、先程イーヴァが魔なるモノに放った物と同じ美しい鉱石が何本も現れた。
「さて、お前はいくつで昇華されるのだろうな」
こちらからではイーヴァがどんな表情を浮かべているかは分からない。だが――おそらく、高揚した表情を浮かべているに違いない。
ほんのわずかに溌剌としているイーヴァの声を聴きながら、俺は自身の拳を固く握る。
頑張れ! そしてイーヴァと俺をこの現状から救い出してくれ!
「行くぞ!」
『神もどき、がァアアア!』
イーヴァが声を上れば、それに応えるように魔なるモノがその巨体を震わせイーヴァへと突っ込んでくる。
だがイーヴァが「我が杭よ、彼の者を大地に繋ぎ留めよ」と、円を書くようにして手を振るい上げ、下ろせば、その手の動きに合わせて煌びやかな鉱石――ならぬ、杭が瞬時に巨体の上部を取り囲み、上からその巨体を地面へ串刺しにした。
『グァ、アアア!』
身体を地面に縫いとめられ、身動きのできなくなった巨体は叫び声を上げる。しかもイーヴァの出した杭に何かしらの効果が付与されているのだろう。杭に貫かれた魔なるモノの黒い粘性の身体がじゅわじゅわと音を立てて融けはじめた。
『わたし、の、身体が、融けて、ゆく!』
「融けているのではない、昇華しているのだ」
『いやだ、いやだ!』
「その拒絶は認められない。お前は此処に留まるべきではないのだから」
自分の身体が融け、昇華されてゆくことに耐え切れなかったのだろう。杭に貫かれていない部分を幾つにも分離させ、その魔なるモノは逃げ出そうとする。
だがイーヴァはソレを見逃すこと無く、腕を一振りしてその全てを杭で貫き昇華させる。
『いや、ひとりは、いや』
幼い子供が駄々をこねるような声を出しながら、徐々に小さくなってゆく魔なるモノ。ある程度の小ささになってしまえば安全だろうと判断した俺は、イーヴァの元へ駆け寄った。
「イーヴァ、大丈夫か?」
「ああ、大事ない」
イーヴァと俺の目の前で融ける魔なるモノ。このまま消えて無くなってしまうのかと見守っていれば、その黒い身体の名から半透明の幼い女の子が姿を現した。
この空き地にやって来た時見かけた少女と同じ――でも、その小さな背にはランドセルが担がれており、頭には黄色の学生帽が被せられている。
「あ、」
思わず呆けた声を出してしまった俺は、口元を抑える。
この子を、俺は知っている。
以前学校から帰る途中で見かけた子で、確か交通事故のあった交差点の角で、供え物をカラスに突かれ困っていたところを助けた――子だ。
『おにいちゃん、あの時はありがとう。ずっとお礼が言いたかったの』
俺の方をまっすぐ見据え、そう言った少女。その声はあの魔なるモノと同じで、俺は少し驚きながらもその少女に近付き、その黄色の帽子を被る小さな頭を撫でた。
「そっか、……でもどうしてあの魔なるモノの中から君が出てくるんだ?」
少女の小さな頭を撫でながら極力優しい口調で訊ねてみれば、彼女は困った顔をして俺の後ろにいるイーヴァを見上げた。
『……神様も、わたしを助けてくれてありがとう。あと……』
俺の質問に答えることなくイーヴァに声を掛けた少女。そんな少女とイーヴァは、互いに互いを見た後、二人揃って俺の方を見つめてくる。
「な、何だよ……」
いきなり二人の視線に挟まれた俺。しかもイーヴァの方が「うむ、了承した」と頷けば、少女の方も『お願いね』と笑って再度念を押す始末。いったい二人の間に何があるというんだ?
二人の関係性に疑問を抱いていれば、少女の方もイーヴァの杭によって消えた魔なるモノと同じようにその身体を徐々に昇華させてゆく。
『ねぇ神様』
「なんだ」
『わたし、次も同じ人たちから生まれたいの。お父さんと、お母さんの子になりたいの』
『わたしのお願い、叶うかな……』と両目に涙を溜め、呟く少女。
「……ならば私が、お前の次なる生を彼らの元へと繋いでやろう。さすれば命の巡りによって、お前はそこへ還れる。だがソレは、二人がソレを許せばの話だ」
少女の呟きに。願いに応えるように、イーヴァはそう言い「それでも構わないか?」と念を押す。そうすれば涙目の少女は激しく顔を立てに振り、『うん』と言葉を返した。
「そうか」
自身に願い事をした幼い少女へ近付いたイーヴァは、自身の白い腕を少女の頭部にかざす。そうすれば彼女の消えゆく身体からイーヴァの身体にある刺青と同じ青い発光色の糸が現れ、何処かへと延びてゆく。
「ならばその時まで、しばし――眠れ」
『……うん、ありがとう神様。ありがとう、お兄ちゃん』
『バイバイ』と手を振り、その身体すべてを昇華させた少女。結局彼女は俺の問いに応えることなく、消えてしまった。
「彼女は自らを助けてくれたお前に、ずっとお礼を言いたかったそうだ」
「……そう、か」
「だが最近のお前は魔なるモノたちに追われ、走って帰っていただろう? それでお前に声を掛けられなかった彼女はお前を助けるために、魔なるモノの前に自らを差し出した」
「……は? ンだよそれ、どういうことだ!」
突拍子もない言葉に、俺は思わずイーヴァの肩を掴んでしまう。
「自らに優しくしたナツヲに恩を返すため。彼女はお前を追いかけていた魔なるモノの足止めとして、自らを犠牲にした。それが彼女の事実だ」
「ッ、ンだよ、それ……」
イーヴァの言葉が事実であるならば、俺のせいで彼女が犠牲になったということじゃないか。それも俺よりずっと小さな女の子が、俺なんかの為に……!
それにその通りなら、彼女が俺の質問に答えなかった理由も分かる。
だって、彼女が魔なるモノの中に居たのは俺のせいなのだから、答えようとするはずがない。
俺のせいで、俺が彼女に優しくしたばっかりに、彼女は俺の為にと自分を犠牲にして、魔なるモノに食われたんだ。
大口を開くアレを俺でさえ恐ろしいと思ったのに、俺より小さな少女があの巨体の前に自らその身を差し出してしまうなんて。
こんなことなら、俺はあの子に優しくするべきじゃなかった。
「俺が、あの子に優しくしたから、こうなったのか?」
俺が、自分をこれ以上偽りたくないなどと思わなければ。
俺が、ありのままの自分で居たいなど思わなければ。
俺が、誰かの為に何かをしたいと思わなければ。
俺が、あの少女に優しくしなければ。
彼女はあんな得体の知れないモノの一部になってしまうこともなかったのか。
「そうだ」
「ッ!」
別に否定してほしかったわけじゃない。
だけどそう断言されてしまっては、俺は誰にも優しくするべきではないのだと。誰かのために何かをしてはいけないのだと、思ってしまう。
俺は優しくしたいのに、そうしてはいけないだなんて――苦しい。
「だがな、ナツヲ。お前のその『優しさ』は正しい」
「は?」
正しい、のか?
俺が優しくしてしまったせいで、少女に怖く、辛い思いをさせてしまったのに?
本当に俺の優しさは、正しいのか?
「少なくとも彼女はお前を恨んではいなかった。それに、辛いとも思っていなかった。むしろお前の優しさに救われていた。そして私も、お前のその『優しさ』に救われたモノだ」
するり、とイーヴァの両手が俺の方へ伸び、冷たい二つの掌が俺の顔を挟んだ。
「ナツヲ。お前には救うだけの価値が在り、救われるだけの意味が在る」
イーヴァの顔に埋め込まれた金の双眸が俺をじっと見据えて、離さない。
「だから私も彼女も、お前を助けるべきだと判断し、自らの意思で助けた。そこには恨みも嫉みも合理も理屈も無い。ただ、単純な『優しさ』だけが存在している」
俺の顔を挟む両手で、頬をゆっくりと揉みながら言葉を続けるイーヴァ。
「分かるかナツヲ。思いは、巡るのだ。喜びも、哀しみも、恨みも、優しさも。伝播し、巡り、いつか身に還ってくる。そのことをよくよく覚えているといい」
言いたいことを全て言い終え、満足したのだろう。俺の頬を揉むイーヴァは口角を僅かに上げ、『笑み』の表情を浮かべている。
「イーヴァ」
「なんだ? ナツヲ」
頬を揉みこんでくるイーヴァの手を掴み、引っ張る。
「家に、帰るぞ」
「……。お前がそう、望むなら」
ほんの僅か、俺が握ったイーヴァの冷えた手が俺の手を握り返してくる。
今まで両親以外の誰にも握り返してもらうことの出来なかった手。
その手が今、俺以外の誰かに握られている。
その感触と、僅かな冷たさに安堵しながら、俺はイーヴァと共に帰路を辿った。
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