第10話
『どうした?』
不意にサリの店を振り返ったコー・リンに、不思議そうに少年が言った。
『何か忘れ物?』
「いや」
『リン』
「うん?」
『僕がお喋りだと思っているだろ? リンが今までのこと、知られたくないっていうのは判るんだ。でも、僕はあの人たちのことは信用してもいいと思っているから』
「判っている」
微笑んでコー・リンは言った。
「だからこそ、私は彼らを巻き込みたくないんだ」
『……そうか。そうだよね。ごめん』
「いいよ」
少年の頭をぐりぐり片手で撫でるとコー・リンは明るく言った。
「さ、行こう、仕事だ」
『うん』
少年はコー・リンの腕をそっと掴んだ。
★
迷路のように張り巡らされている地下道に続く入口は、道にいくつも点在するマンホールが主だが、そのうち、ダイヤモンド・エルの差配する貧民窟に迷うことなくたどり着ける入口とされているのは、ゴミ集積場の近くにあるマンホールと、貧民街の周囲を巡るように流れているドミ川の、西側に大きく口を開けている水路の二か所となる。ここはよほど大雨でも降らない限り水が流れることはなく、人が余裕で通れる高さと幅のある渇いた水路がずっと奥まで続いていた。
夜が更けるとそこかしこから怪しげな人影がその水路やマンホール周辺に現れ、密やかな活動が始まるのだ。そして今夜、その水路に集まる人影のひとつに、碧い剣を腰に差した一人の青年の姿があった。
『いつ来ても、嫌な感じの場所だね』
少年の声は碧い剣からにじむように聞こえてくる。彼はリンの言いつけに従い、おとなしく碧い剣に収まってその姿を隠していた。
『すえた匂いもして嫌だな。本当に行くの?』
「ごねるなよ。お前はそこでおとなしくしていればいい。呼んだら出てきて仕事をしてくれ」
『判っているけど』
不服そうにしながらも、少年は口を閉じ、気配を消した。
さて、とコー・リンは改めて周囲を見回す。
闇に染められた水路は、確かに少年の言うようにすえた臭いが漂う不穏な場所だった。その闇に乗じて行き来する人間たちもお世辞にもまともとは言えない連中ばかりだ。
まあ、人のことは言えないが。
コー・リンは自虐的に笑うと、首に巻きつけている大判のストールを口元まで引き上げた。
今夜の彼は、親に隠れて悪所通いにうつつを抜かす金持ちのドラ息子を気取っていた。顔をだらしなく弛緩させると、鼻歌交じりに水路の奥へと足を踏み入れて行く。
しばらく歩くと、ぼんやりとした灯りが見えてきた。水路の一段上がった石畳の上に板やムシロで仕切られた粗末な空間がいくつも作られている。その中では売人と買い手が密談を重ね、非合法の薬や物品、ある時は人の命や体までもが取引されていた。
コー・リンがその前を通ると、品定めするようにいくつもの視線が執拗に絡みついてくる。内心、緊張しつつもコー・リンはへらへらとした様子を崩さない。
「よお、兄さん。どこにおでましだい?」
ムシロの陰から、何者かが軽い調子で声を掛けてきた。コー・リンは笑顔でそちらに向くと、同じように軽い調子で返した。
「僕の可愛い人に会いに行くのさ。二日と会わずにはいられなくてさ。ああ、親には内緒だよ」
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