こんなはずでは

 あの子に、人並みの幸せをあげたかった。家族皆で笑いあえる日を夢見ていた。その結果がこれでは、あんまりではないか。

 *

 私にパーシヴァルという名を付けたのは祖父だった。伝説の騎士からいただいたのだといつだったか祖父は語っていたが、私は子どもの頃からこの大仰にして時代遅れな名前のせいでよく笑われたりからかわれたりしていた。それでも祖父を恨まずにいたのは、ひとえに彼が立派な人物だったからだろう。

 祖父は一代で貿易会社を興し財を成した、分かりやすい成功者だった。そしてまた、人格者でもあった。

 家族や社員たちを第一に考え、それだけでなく慈善事業にも積極的に関わっていた。厳格でありながらもユーモアを忘れないその姿は、幼い時分の孫が憧れるのも当然であると言えた。

 一方で、私の父は悪人では決してないものの、気が弱く祖父にお伺いを立てないと何一つ決められない優柔不断な人間だった。私はそんな父を恥ずかしく思っていた。私のその思いが伝わっていたのだろう、いつの頃からか、父は祖父だけでなく私の顔色もうかがうようになっていた。そんな父の態度がまた私を苛立たせていた。

 祖父に憧れ、父を反面教師としながら私は育っていった。そして成人し、祖父の貿易会社とは全く関係のない小さな出版社に就職した。祖父は私に会社を継がせるつもりだったようだが、ただそれを受け継ぐだけではなく、自分の力で一人立ちしたいという、私のささやかなわがままだった。

 *

 彼女、ライラと出会ったのは、ようやっと仕事を覚えて会社の戦力の一人に数えられるようになってきた頃だった。

 ライラは小説家志望の女性で、ある日私の勤める出版社に自作の小説を持ち込んできた。

 先輩が言うことには、毎回酷評されて帰っていくのに、くじけずに何度も小説を書いては持ち込むのを繰り返しているとのことで、皆対応に苦慮しているらしい。

「そうだ。パーシヴァル、今回の彼女の担当はお前だ。何事も経験ってな」

 そんな風に話の流れで私は彼女の対応を任されてしまった。

「やぁ、こんにちはミス・ライラ。私はパーシヴァルと言います。今日は私があなたの作品を拝見させていただきます」

 会社のロビーでよれよれの服を着てうつむいて座っていた彼女に声をかける。顔を上げ、まっすぐにこっちを見て彼女は小さな声で言った。

「よろしく……お願いします……」

 *

 ライラの持ってきた小説に目を通す。渡された原稿はざっと見積もって30ページはあるが、最初の数ページを読んだだけで先輩たちに酷評される理由が分かってしまった。

 彼女の書く文章には、語彙力がまるで足りていない。狭い範囲に同じ表現が何度も出てくるし、加えて誤字や脱字も多い。とにかく文章を書くにあたって知っておくべき基本がなっていないのだ。先輩から聞いた話が本当なら、小説の持ち込みはこれが初めてではないはず。なのに、このレベルでは……。

 私が原稿とにらめっこしながらどう意見を伝えるべきか悩んでいると、不意にライラが口を開いた。

「パーシヴァルって、素敵な名前ですね」

「え、そ、そうですか?」

「はい。あなたにピッタリな感じがします」

「……そんな風に言われたのは初めてです。名前負けしているとはよく言われますが」

「そんなことないと思いますけど」

 原稿から顔を上げる。彼女と目が合う。その瞳は、きれいな緑色をしていた。彼女が再び口を開く。

「私の書いた小説、どうですか?やっぱり、他の方が言うように、私には才能がないのでしょうか」

 私は言葉に詰まる。それを見ながら彼女は続ける。

「実は、この作品がダメなら、もう筆を折ろうと思っているんです。だから、正直に言ってください」

 それを聞いて、私は慎重に言葉を選びながら答えた。

「もしかしたら、以前にも同じことを言われたことがあるかもしれませんが、あなたの小説には表現の幅が少な過ぎます。他の人の小説を読んだことはありますか?例えば、本屋に並んでいるような」

「ありません」

 即答だった。私は驚きを隠せない。

「私、いくつかアルバイトを掛け持ちしていて、それでも生活が苦しくて、本を買う余裕もあまりなくて……」

「では、どうして小説家になりたいと?」

「小説を書いてそれが売れるようになったら、もう少し生活が楽になるかと思ったから……」

「つまり、収入の足しにしたいからですか」

「そう……です……」

 ライラの声がだんだん小さくなっていく。自分でも不純な動機だと思っているのだろう。またうつむいてしまった彼女を見て、私は思った。思ってしまった。なんとかしてあげられないか、と。

「そういうことなら、無理に小説家に固執する必要はありませんね?」

 今度は彼女が顔を上げる番だった。

「人手を必要としている会社を知っています。雇ってもらえると確約はできませんが、話を聞いてもらえるよう、手配しましょう」

「え?でも……」

 彼女の目が丸くなる。

「困った時はお互い様です」

 私は祖父の知り合いの会社にお願いしようと考えていた。ライラは顔を真っ赤にして何度も礼を言いながら帰っていった。

 *

 ライラに仕事を紹介してから数ヶ月後、出社すると私のデスクに封筒が置かれていた。中身は便箋が数枚。差出人は彼女だった。どうやら無事に雇ってもらえたらしい。そして今度本屋で初めての小説を買いたいので、おすすめを教えてほしいという内容とともに、電話番号が添えられていた。

 *

 仕事を終え、自宅に戻ってから便箋を取り出す。書かれている電話番号を携帯電話に入力し、通話ボタンを押す。コール音が四回聞こえたところで相手が電話に出た。

「はい、ライラです」

「こんばんは、ミス・ライラ。パーシヴァルです。お手紙、今日受け取りました」

「パーシヴァルさん!こんばんは。ご連絡ありがとうございます」

 久しぶりに聞くライラの声は、出版社で会った時とは大違いに明るくなっていた。

「お仕事は順調ですか?小説を買いたいということでしたが」

「仕事は順調です。皆さん良くしてくださいます。私にはもったいないぐらい。小説は、読んでみたくて本屋に行ったんですけど、いっぱい並んでてどれを選べばいいのか分からなくて」

「そういうことなら、今度一緒に行きましょう。次のお休みはどうですか?」

「本当ですか!?ありがとうございます!次のお休み、大丈夫です!」

「では、昼前、11時ぐらいにK駅で待ち合わせて、そこの前にある本屋に行きましょう。この辺だと、あそこが一番大きいので」

「はい!楽しみにしています!」

「じゃあ、今日はこの辺で。失礼します」

 そう言って電話を切った。

 *

 約束の日、少し早めにK駅に行くと、既にライラの姿があった。私の姿を探しているのか、落ち着きなくキョロキョロとしている。ほどなくして、彼女の目が私を捉えた。こちらに歩いてくる。今日は女性らしい、可愛らしい装いをしていた。

「こんにちは、パーシヴァルさん」

「こんにちは、ミス・ライラ。お待たせしてしまいましたか?」

「いいえ、大丈夫です。家にいても落ち着かなかったので」

 そう言う彼女を連れて本屋に向かった。

 *

 本屋の小説コーナーに着く。さてどうしたものか。ライラの好みが分かればいいのだが、これまで読書をしたことがないというし、好きなジャンルとかそういうもの自体がないかもしれない。

「ミス・ライラ。何か、こんな物語が読みたい、みたいなものはありますか?ぼんやりでもかまいません。恋愛ものとかホラーとか」

 私の言葉に彼女は少し思案した後、

「怖いのはあんまり……。ラブストーリーも別に……」

 と答えた。これは難敵なようだ。そう思ったが、

「あ、でも読んでみたいお話はあるんです」

 と彼女は続けた。

「今の会社の同僚から聞いたんですけど、パーシヴァルさんと同じ名前の騎士が出てくる伝説があるんですよね。私、それを読んでみたいと思ってて。あるでしょうか」

「それなら、アーサー王伝説でしょうか。小説ではないので、このコーナーにはないと思いますが、他のコーナーにあるかもしれません。店員さんに聞いてみましょう」

「アーサー王伝説、ですか。その伝説にパーシヴァルさんが出てくるのですか?」

「アーサー王に仕える騎士たち、円卓の騎士というんですが、その中にパーシヴァルがいるんですよ。パーシヴァル単体の伝説は、あったかなぁ……」

 話をしていると、ちょうど本屋の店員が近付いてくるのが見えた。声をかけてアーサー王伝説の本があるか尋ねる。やはり別のコーナーにあるようだ。私たちは店員に礼を言って小説コーナーを離れた。

 *

 手間取りはしたものの、なんとかライラの目的に合致した伝記本を見つけることができた。彼女は嬉しそうにその本の入った紙袋を眺めている。

「時間もちょうどいいですし、お昼にしましょうか。何処か行きたいお店はありますか?」

 私の問いに、彼女は首を振って、

「何処でも大丈夫です。好き嫌いもありませんから」

 と答えた。

「では、この近くのカフェにでも行きましょう。この時間だし、混んでないといいんだけど」

 そうして向かったカフェは客は多かったものの、座れないほどではなかった。食事をしながら、ライラはいろいろな話をしてくれた。

 今の仕事に就いてから生活がずいぶん楽になったこと。職場の上司に言われて初めて携帯電話を持ったこと。

「私、パーシヴァルさんに初めてお会いした頃、本当に追い詰められていて、もうどうしたらいいのか分からなくなっていたんです。だから、パーシヴァルさんには本当に感謝しているんです」

「ミス・ライラ……」

「そんな風に私のことを『ミス・ライラ』って呼んでくれたのもあなたが初めてです。でも、できるならあなたには普通に『ライラ』と呼んでほしい……」

 それを聞いて私は一瞬考える。その言葉に込められた意味が読み取れないほど鈍感ではない。しかし、特別それを拒絶する理由もなかった。

「では、私のことも、さん付けではなくただ『パーシヴァル』と呼んでいただければ」

 彼女の表情がぱっと明るくなる。こうして、私たちは少しずつお互いの距離を縮め始めた。

 *

 それからしばらくの時が経った。その間に私たちの仲はゆっくりと深いものになっていった。

 *

 夜、私は足早に街中を進んでいた。ライラとディナーの約束をしていたのに、今日に限って残業が長引いてしまったのだ。彼女は怒っていないだろうか。今日は本当に大事な日なのに。私は背広のポケットの中に入れてあるものを何度も確認しながら店へ向かった。

 店内に入り、店員に名前を告げる。

「お連れの方は既にお待ちですよ」

 店員の言葉を聞きながら予約しておいた席に通されると、そこにはライラが一人で座っていた。

「すまない、ライラ。仕事が終わらなくて……」

「私なら平気よ、パーシヴァル。さっき持ってきてた小説を読み終わったところだから」

 テーブルの上には、文庫本が一冊置かれていた。

「本当にすまない。お腹がすいているだろうに。とにかく、料理を注文しよう」

 そう言って私はメニューを開いた。

 *

 食事が終わり、食後のドリンクを飲みながら私は内心ドキドキしていた。背広のポケットに入っているそれが妙に存在を主張しているように思える。

 意を決して私は口を開いた。

「ライラ、聞いてほしいことがあるんだ」

 私の真剣な表情を見て、彼女の顔つきも変わった。

「何?パーシヴァル」

「君は私にとってなくてはならない存在だ。君さえ許してくれるなら、私はずっと君の隣にいたいと考えている」

 そこまで伝えてから、背広のポケットから四角いケースを取り出し、彼女に開いて見せた。そこには、指輪が入っていた。

「私と結婚してほしい」

 私は緊張のあまり目をギュッと閉じてそう言った。ライラは何も言わない。私がゆっくりと目を開くと、そこには口元を押さえて涙を流す彼女がいた。

「……ダメ、だろうか」

 私が小さく尋ねると、彼女は首を振り、

「そんなわけない。嬉しい。とても嬉しい」

 と答えた。

 *

 ライラを私の家族に紹介した時、祖父はとても喜んでくれたが、父はあまりいい顔をしていなかったのを覚えている。どうやらライラが孤児だったことが気に入らなかったらしい。終始何か言いたげだったが、結局私たちの婚約に口をはさむことはなかった。

 私たちが結婚してから季節が一巡りした頃、ライラのお腹に新しい命が宿った。手放しで喜ぶ私とは裏腹に、彼女の表情は明るいものではなかった。理由を尋ねると、不安なのだという。自分がちゃんと生まれてくる子を育てられるのか、愛せるのか。その自信がないのだと言った。

「私、両親の顔も知らなくて、だから親の愛情っていうものも分からなくて。そんな私が母親になっていいのかしら……」

「ライラ。その答えは、すぐには出ないと思う。だから、二人で考えていこう。生まれてくる子どものために。私たちは夫婦なんだから」

「ありがとう、パーシヴァル」

 これで彼女の中の不安が払拭されたとは思わない。それでも、一人では解決できないことでも二人なら大丈夫。そう思いながら私は彼女を抱き締めた。

 *

 そうして生まれてきた男の子を、私はヨシュアと名付けた。私たちは彼の誕生を心から喜んだが、それは苦悩の日々の幕開けでもあった。

 ヨシュアは筋肉が他の子に比べてあまり発達しないというハンデを持って生まれてきた。特に両脚が顕著であり、医者からは自力で立って歩くことはこれから先も望めないだろうと言われた。

 私とライラは、自身に何か原因があったのではないかとお互いに自分を責めていた。街にあるいろいろな病院を回ったが、治療法は見つからなかった。そこで、私はある決断を下した。

 長く勤めていた出版社を退職し、祖父に頭を下げて彼の貿易会社に再就職した。街に治療できる医者がいないのなら国内を、国内で見つからないのなら国外を探すつもりだった。そのために各地を飛び回れる貿易商になることにしたのだ。

 ライラは反対していたが、私は治療の可能性に賭けたかった。

 *

 それから、仕事の合間に各地の病院を訪れる日々が続いた。いくつもの病院を訪ねたが、有効な治療法はついぞ見つからなかった。ヨシュアは六歳になっていた。

 数ヶ月ぶりに家に帰る。玄関を開けると、ライラが待っていた。

「おかえりなさい、パーシヴァル」

「ただいま、ライラ。私がいない間、何か変わったことはなかったかい?」

「いいえ、何も。いつも通りよ。私も、ヨシュアも」

「そうか。ヨシュアはまだ起きているかな」

「この時間なら、まだ起きてると思うわ」

 ヨシュアの部屋のドアをノックする。中から「どうぞ」と声がするのを聞いてから、ドアを開いた。

「おかえりなさい、お父さん」

「ただいま、ヨシュア。元気にしてたかい?」

「うん、元気だよ。お父さんはちょっと痩せた?」

「そうかもしれない。お母さんの手料理が食べられないからかもな」

 それを聞いて笑うヨシュア。痩せ細り、背もこの年頃にしては小さく、色も白い。そんな彼の見せる笑顔が、私にはいたたまれなかった。

「お父さん、またすぐ仕事に行ってしまうけど、必ずお前の身体を治す方法を見つけてくるからな」

「うん。僕、待ってるよ」

 何としても、ヨシュアの身体の治療法を見つける。そう、思いを新たにした。

 *

 それから半年が経とうとしていた頃、私はとある国のバーにいた。今日行った病院でもダメだった。もう仕事の範囲内で行ける病院は全て回った。依然、治療法は見つからない。諦めるしかないのか。そう思いながら酒を飲んでいた。

 三杯目のビールを注文した時、男に声をかけられた。

「隣、いいかな?」

「あぁ、空いてますよ」

 短く答える。隣の席に座ったのは、メガネをかけたスラっとした男だった。

「不躾で申し訳ないんだが、あんた今日Y病院である症例の相談をしてたよな」

 私は男の方を見る。男はかまわずに続けた。

「残念だけど、一般の病院ではその症例の治療はできないだろうな。一般の病院では」

「それは、どういう意味ですか?」

「うちなら、なんとかできるかもって意味」

 男は茶化すように答える。私は酔いが一気にさめていくのを感じた。

「それは、本当ですか?」

「ここじゃなんだから、とりあえず一回話だけでも聞きに来てよ。これ、俺の名刺ね」

 そう言うだけ言って男は名刺を置いて席を立っていった。その名刺を手に取る。そこには、聞いたことのない施設の名前とハワードという名前、そして連絡先が書かれていた。

 *

 翌日、藁にも縋る思いで名刺にあった連絡先に電話を掛けた。相手はすぐに出た。

「もしもし?」

「ハワードさんですか?私、昨日バーで……」

「あぁ、あぁ、はいはい。覚えてるよ。で?話聞いてくれる気になった?」

「はい。もう他に頼れるところがないんです」

「オーケー、オーケー。じゃああんたの泊まってるホテルに迎えをやるから、十五分後にロビーにいてくれる?」

 そう言うと電話は切れた。ハワードという男の軽い対応と、宿泊しているホテルを知られていることに一抹の不安を覚えたが、他に頼れるあてがないのも本当だ。私は身支度を整えてロビーへ向かった。

 *

 私は迎えに来た車の後部座席に座っていた。車は街を抜け、どんどん森の中に入っていく。しばらくすると、不意に大きな建物が見えてきた。

「あれは、城ですか?」

「外観はそうです。中世に建てられた城を我々の財団が買い取って研究施設にしています」

 運転手が答えた。財団……研究施設……。なんとも怪しい気配がしてきたが、もう後には退けない。

 車が施設の中に入っていき、中庭のようなグラウンドの隅に停まった。車から降りると、昨日バーで名刺を渡してきたハワードが歩いてきた。

「おはよう、パーシヴァルさん。あのホテルからここまで、遠かったろ」

 まるで友人のようになれなれしく声をかけてくる。

「とりあえず中へ。そこで担当の者が説明するから」

 促されるまま城の中に入っていく。エントランスには背の高い女性が立っていた。

「はじめまして、ミスター・パーシヴァル。私はミランダ。症例の件はハワードから一通り聞いていますので、早速説明に入りたいと思います。こちらへ」

 そう言って彼女は城の奥へ進んでいく。私は慌てて彼女の後についていった。

 *

 応接室と思しき部屋で聞かされた説明は、にわかには信じ難いものだった。

「本当に、魂なんてものの存在が立証されたのですか?」

「そう思われるのも無理はないでしょう。この話はまだ公にはなっていませんから」

「しかし、ヨシュアの魂が人と異なると言われても……。あの子は確かに生まれつき身体が、その、強くありませんが、おとなしくて優しい子なんですよ」

「魂の形が必ずしも心や性格に影響を与えるとは限りません。ヨシュア君の場合は、心より身体に大きく影響が出ているのでしょう」

「その手術、ええと、魂の……」

「魂の固着術式です」

「そうでした。その手術に危険はないのですか?」

「絶対安全と言い切ることはできません。この術式は考案されてから間もない技術です。まだ確立しているとは言えないので」

 しかし、と彼女は続ける。

「試してみる価値はあるのではないでしょうか。実際に魂の測定をしてみないことにはなんとも言えませんが、少なくとも今より悪くなることはないかと」

 私はしばらく黙って考えていた。魂の形……。そんな話に乗っていいのだろうか。さっき会ったハワードやこの目の前にいるミランダが嘘を吐いている可能性はどれぐらいあるのだろう。しかし、他にもう方法がない。賭けてみるしかないのだろうか。

「……分かりました。一度ヨシュアを診てもらえますか」

「もちろんです。すぐにでも」

 私は、悪魔と契約しようとしているのかもしれない。そんな思いが脳裏を過ぎった。そして、この決断を私は生涯悔やむことになる。

 *

 久方ぶりに帰った我が家では、ある変化が起きていた。ライラが家政婦を雇っていたのだ。聞くと、今はその家政婦にヨシュアの世話を任せているのだという。そしてヨシュアによると、もうしばらくの間ライラは顔を見せていないらしい。

 そんなヨシュアを安心させるように治療法が見つかった話をする。彼は、

「頑張って、この身体を治してくるよ」

 と笑った。その笑顔がとても儚いものに思えて、目頭が熱くなるのをこらえながら、部屋を出た。

 ライラにどうしてヨシュアに会わないのか問いただすと、彼女はうつむいたまま、

「もう、疲れちゃったの」

 とだけ呟いた。それで悟る。私の家庭は壊れかかっていた。そして、バラバラになりそうなこの家族を守るためにも、ヨシュアの身体を治す必要がある、と。

 *

 ヨシュアが施設に行ってから、私は仕事を休んで家にいることにした。ライラにも、支えが必要だと思ったからだ。

 時間が経つにつれ、彼女はポツリポツリとその心情を話し始めた。

 最初はヨシュアのためにも、彼を愛そうとしていたこと。しかし、彼の存在が、だんだんと負担に変わっていったこと。そして、彼の何気ない一言で、感情が爆発してしまったこと。

「ねえ、やっぱり私が悪いの?私がいけなかったの?もう分からない。分からないのよ、パーシヴァル」

 涙ながらにライラは訴える。その姿はひどく危ういものに思えた。

 *

 数日後、施設から連絡があった。ヨシュアの検査結果と手術の日程の報告だった。私はその日に合わせて施設に向かう旨を伝えた。

 施設に着いてすぐ、ヨシュアの病室に通された。私の顔を見て、彼の表情が明るくなる。

 手術を控えている彼は、見たことがないぐらいはしゃいでいた。もうすぐ。もうすぐで彼を救うことができる。そう思いながら病室を出た。なのに。それなのに。

 *

 手術は成功したとミランダから告げられたのは、翌日の昼過ぎだった。彼女は満足そうな顔で私をヨシュアの元へ案内した。しかし、そこに眠っていたのは、私の知るヨシュアではなかった。

 2メートルを優に超える大きな身体は赤い体毛に覆われている。頭からは鹿のような角が生えていた。なんだこれは。これが、ヨシュア……?

「どういう、ことですか?これは何の冗談ですか?」

「あれがヨシュア君の魂の形です。ここまで肉体との差異が大きいケースは初めてでした。なので、私たちも細心の注意を払って……」

「ふざけるな!あれがヨシュアだと!?そんなはずがあるか!返せ!私のヨシュアを返せ!」

「残念ですが、一度魂を固着させた身体を以前の姿に戻すのは不可能です」

 ミランダは淡々と答える。その態度が、さらに私の神経を逆なでする。

 私は彼女に掴みかかろうとしたが、すぐに取り押さえられてしまった。

「施設内で暴れるのはご遠慮くださいね、っと」

 私を取り押さえたのは、あのメガネの男、ハワードだった。

「貴様!だましたな!私をだましたなァ!」

「だましてなんかないさ。これでヨシュア君は元気に走り回れるようになったんだぜ?」

 なおも怒りが収まらない私を、ハワードと数人の職員が引きずるように施設の外に連れ出した。

 *

 私は失意の中、自宅に帰った。ライラが出迎えてくれる。ヨシュアがいなくなったことから、もう家政婦はいなかった。

「パーシヴァル、どうしたの?ひどい顔色をしているわよ」

「ヨシュアが……いや、なんでもない」

 ヨシュアがあんな姿になってしまったことを、ライラには伝えられなかった。

「少し、休むよ」

 それだけ告げて、私は寝室に向かった。

 *

 ライラは、ヨシュアについて何も聞いてこない。彼女は今何を思っているのだろう。ヨシュアのことをどう思っていたのだろう。

 しかし、聞かれれば答えなければならない。嘘にしろ真実にしろ、何かを伝えなければならない。だから、彼女の沈黙は今の私にとっては都合がよかった。

 *

 私はライラに仕事と偽り、ヨシュアのいる施設へ向かった。そうしなければいけないと思った。息子があのような姿になってしまったのは、私の責任だからだ。

 ヨシュアのいる病室に通される。そこには、やはりあの痩せた少年ではなく、似ても似つかない異形の存在がいた。

 ヨシュアだったものは、金色の両目でこちらをじっと見つめている。私は、間違ったのか?その間違いのせいでヨシュアは……。

 そう思うと、自然と涙が溢れてきた。次から次へと頬を伝う。

「すまない。本当にすまない、ヨシュア。こんなはずじゃなかったんだ……。私は、お前をこんな姿にするためにここに連れてきたんじゃないのに……」

 情けなくその場にへたり込み私は泣き続けた。ヨシュアは何も言わずにそれを見ていた。

 *

 その後、ミランダからある提案を受けた。ヨシュアはかなりのレアケースであり、できるなら今後もこの施設で研究を続けたいという。

 体のいいモルモットだ。私はそう思った。しかし、あのような姿では最早この施設の外で暮らしていくことは到底不可能にも思えた。

「一つ、約束してください」

「何でしょう?」

「あの子を、ヨシュアを実験動物のようには扱わないでもらいたい。あくまで一人の人間として、その尊厳を尊重してください」

 ミランダは少し考えてから、

「分かりました。人道に悖るようなことはしないと約束しましょう」

 と言ってくれた。こうして、私はヨシュアを売ったのだった。

 *

 家に帰り、ライラを呼ぶ。そして短く告げた。

「ライラ。ヨシュアはもう、戻ってこない」

 それを聞いた彼女の反応は、母親のものにしては何とも淡白だった。

「そう、やっぱりダメだったのね」

 それだけ言うと、彼女は夕食の準備のためにキッチンに引っ込んでしまった。

 夕食を食べ終わった後、ライラが口を開いた。

「ねえパーシヴァル。そんなに気に病まないで。あの子はもういないけど、私はここにいるわ。そうよ、ずっとあなたの傍にいる。私、傷付いてるあなたの支えになりたいの」

 そう言って彼女は私を優しく抱き締めた。そうだ。私にはまだライラがいる。彼女だって傷付いているだろうに。ヨシュアのことはとても辛い。しかし、だからと言って今ここにいてくれるライラをないがしろにもできない。

 私は、ライラをこれまで以上に愛していこうと思った。ヨシュアにしてあげられなかった分、彼女のために生きよう。それが、ただ辛い現実から目をそらしているだけであっても。

「ありがとう、ライラ」

 そう呟いて、私は彼女の身体を抱き寄せた。

                  了

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