変貌
石野二番
どうして
幼い頃から僕は身体が弱かった。大人たちが言うには生まれつきらしい。だから外で遊んだこともなかったし、もちろん友達もいなかった。でも寂しいと思ったことはなかった。いつだって、お母さんがいてくれたから。
お母さんはいつも笑顔で僕に本を読み聞かせてくれる。世話をしてくれる。声をかけてくれる。
「ヨシュア、あなたは何も悪くないの。その身体のことも、あなたのせいではないのよ」
それがお母さんの口癖だった。僕にとっては、これだけで充分に満ち足りた日常だった。
ある日、いつものように同じ言葉を繰り返したお母さんに、つい僕は尋ねてしまった。
「じゃあ、僕のこの身体は誰のせいなの?」
瞬間、お母さんの顔から色が消え、表情が凍り付いた。そして突然大きな声で叫んだ。
「あんたも!あんたも私を責めるの!?私が悪いって、私のせいだって言いたいの!?」
お母さんは見たこともない怖い顔をしていた。そして何も言えず、固まっている僕の方を見もせずに、手に持っていた本を乱暴に床に叩きつけて部屋を出て行ってしまった。そんな風に、僕の平穏な日常は崩れ去った。
*
翌日、知らない女の人が部屋を訪れた。その女の人は、シンディと名乗り、自分はお母さんに雇われた家政婦で、これから僕の身の回りの世話をすると言ってきた。
僕はシンディさんにお母さんを呼ぶように何度もお願いしたけど、結局、その願いが叶えられることはなかった。
*
シンディさんは基本的に用事がある時以外は話しかけてこない。いつもムスッとした顔をして僕の世話をしている。僕は彼女が醸し出している雰囲気がとても苦手だった。
彼女が来てから一ヶ月が経とうとしていた頃、お父さんが帰ってきた。
お父さんは貿易商をしていて、普段は国の内外を行き来しているのであまり家にいなかった。
部屋に入ってきたお父さんに僕はお母さんのことを相談した。
「僕、お母さんを怒らせちゃったみたいなんだ。だから、謝りたいのに、それなのにお母さんは僕に会ってくれないんだ」
僕の言葉をお父さんは真剣な顔で聞いていた。そして口を開いた。
「お母さん、ライラはね、頑張っていたよ。頑張ってお前を愛そうとしていた。ただ、それをお前の身体のことが邪魔しているだけなんだ。でも、それももうすぐ終わる。お前の身体を治す方法を見つけたんだ」
お父さんは嬉しそうに言った。
「少し遠い土地に行くことになるけど、我慢できるかい?」
「僕の身体が治ったら、お母さんはまた僕に会ってくれるかな?また笑ってくれるかな?」
僕の問いにお父さんは頷いた。
「じゃあ、僕、そこへ行くよ。頑張って、この身体を治してくるよ」
お父さんはほっとした表情をして、すぐに出発の用意を始めた。
*
初めて出た家の外は、真っ白だった。かつてお母さんが教えてくれた『雪』が積もっていた。お父さんが手配した人たちがベッドに横たわったままの僕を大きな乗り物に運んでいく。とても遠い距離をあっという間に飛んでいける乗り物なのだそうだ。その乗り物に乗せられながらうちの方に目をやったけれど、お母さんの姿は見えなかった。
*
連れてこられたのは大きくて白い建物だった。病院のようにも見えたけど、いるのは人間だけじゃない。いろいろな、見たことのない動物の姿もあった。それを不思議に思いながら、僕は自分の病室へと運ばれていった。
*
病室に着いてからしばらくして、白衣を着た背の高い女の人が現れた。
「初めまして。私があなたの担当医のミランダです。よろしく。早速ですが、今後の予定を説明します。明日から三日をかけてあなたのメンタル、フィジカル双方の状態の確認をして、適合する術式を組み上げます。その後はあなたのコンディションを見ながら最適な時期に施術します」
ミランダ先生は早口でスラスラと説明してくれた。残念ながらその内容は半分も理解できなかったけど、これで身体が治るならそれでいいと思った。
*
一日目。身体の精密検査があった。体力検査や視力検査など。自分の力で歩くことができない僕は車椅子を看護師さんに押してもらいながら広い施設の中をあっちへ行きこっちへ行きしていた。
二日目。この日は知能テストやカウンセリングなど、精神的な検査だった。インクの染みみたいな絵を見せられて何に見えるか答えたり、前日の検査よりは面白かった。
三日目。この日の検査が一番わけが分からなかった。真っ暗な部屋の真ん中に灯っているろうそくの火の色を聞かれたり、いろいろな種類の動物のいる部屋に入れられて、どの動物が一番に近寄ってくるかを見られたり、イマイチ何のための検査なのか分からなかった。
*
検査が終わった次の日、朝食を食べているとミランダ先生が来た。
「おはよう、ヨシュア君。あなたの検査結果だけど、とても興味深い結果が出ました」
「それは、どういうことですか?」
「あぁ、心配しないで。悪い意味ではないの。これは完全にこっちの話になるのだけど、君の手術の結果からはこれまでとは全く違う新しいものが得られる可能性があるの」
「つまり?」
「きっと大成功する、ってこと」
そう言うと、ミランダ先生はウインクして病室を出ていった。
先生の言葉を聞いて、僕の中で期待が急速に膨らんでいた。手術は成功する。家に帰れる。お母さんにまた会える。最初に何て言おう。元気になった姿を見せたら、お母さんはどんな顔をするだろう。
そんなことを考えているうちに数日が過ぎ、僕の手術の日程が決まった。
*
手術当日。僕は朝からソワソワしていた。するとお父さんが病室にやってきた。
「お父さん!ミランダ先生が、僕の手術は大成功するだろって!もうすぐ元気になれるんだ!」
僕の言葉を聞いてお父さんも嬉しそうに目を細めている。
「そうだな。手術を受けて、一緒にあの家に帰ろうな」
そう言うとお父さんは病室を出ていき、入れ違いでミランダ先生が入ってきた。
「時間よ、ヨシュア君。行きましょう」
そうして、僕は手術室に運ばれていった。
*
意識がぼんやりしていた。朝、目が覚める前みたいだ。かすかに誰かの声が聞こえる。この声は、お父さんだ。なんだかひどく怒っているみたいだ。でも、何を言っているのかまでは聞き取れない。僕の手術はどうなったんだろう。身体を動かそうとしたけど、腕も脚もひどく重くて動かない。そうこうしているうちに、僕の意識は深いところへ沈んでいった。
*
次に意識が戻った時、ベッドのそばにはミランダ先生と数人の看護師がいた。
「意識レベル上昇。覚醒状態です。目を覚ましました」
看護師の一人がミランダ先生に言う。
「おはよう、ヨシュア君。気分はどうかしら?」
「おはようござ……?」
先生に返事をしようとして、自分の声に驚く。すごく低い声だ。
「これ、僕の声?」
「そうよ、ヨシュア君。あなたの手術は成功しました。これがあなたの新しい姿よ」
そう言って先生は大きな姿見を持ってきた。
そこには、そこには痩せ細った少年の姿はなかった。大きな体躯があった。全身を緋色のゴワゴワした毛が覆っていた。頭にはトナカイや鹿のような角。そしてその下にある二つの目は、爛々と金色に光っていた。
「何…これ…」
そう言葉にするのがやっとだった。意味が分からなかった。
「その姿があなたの魂と呼ばれるものの形状よ」
それからミランダ先生は一通りの説明を始めた。
近年の研究で、生き物の『魂』と呼ばれるものの実在が科学的に証明されたこと。魂にも形があり、多くの生き物はそれに近い形状の肉体で生まれてくるが、まれに魂と肉体の形状が大きく異なる個体が生まれること。
そしてその差異は肉体の変調を引き起こすため、肉体の形状を魂のそれに合わせる術式が開発されたこと。それが僕の受けた手術であること。
「あなたの魂の形状を観測した時は皆驚いていたわ。私もそう。既存の生き物に似た部分を持ちながらも合致するもののいない、初めて確認される形をしていたのだから」
先生は少し興奮気味にまくしたてているけど、僕にとって大事なことはそんなことじゃなかった。
「それで、僕はいつ家に帰れるの?」
僕の言葉を聞いて、周りにいた看護師の一人が吹き出すのが見えた。いったい何がおかしいと言うのか。
「なんで笑うの?」
僕が言うと、その看護師はばつが悪そうに顔を背けた。
「あなたが家に帰れるようになるにはまだ時間がかかるわ。その身体のデータも取りたいし、何よりまずは安定させないと」
そう言うと先生たちは部屋を出ていった。一人になった僕は、ぼんやりと姿見に写る自分の姿を眺め続けた。これが、僕……。
*
それから数日の間、僕はミランダ先生に言われるがまま検査とリハビリを重ねていた。
身体はこんなになってしまったけど、それでも自分一人で歩き回ったりできるようになったことは純粋に嬉しかった。
ある日、お父さんが病室を訪ねてきた。お父さんはひどく辛そうな顔をして僕のことを見ていた。僕がそんなお父さんにどう声をかけるべきか迷っていると、不意にお父さんの目から涙がこぼれた。
「お父さん……?」
「すまない。本当にすまない、ヨシュア。こんなはずじゃなかったんだ……。私は、お前をこんな姿にするためにここに連れてきたんじゃないのに……」
そう言ってお父さんはその場に泣き崩れた。
結局僕は、何も声をかけることができなかった。
お父さんが泣きながら病室を去っていった次の日。僕は施設内のグラウンドにいた。グラウンドは屋外だけれど、周りを高い塀に囲まれていた。
ミランダ先生によると、今日は身体能力のデータを取るらしい。
「まずはウォーミングアップね。ここで好きなように身体を動かしてみて」
実は、僕はこの日が来るのを密かに待ち望んでいた。どうしても試してみたいことがあった。今まではうまくいくか分からなかったけど、実際に塀を見てみてその試みの成功に確信が持てた。
軽く身体を動かしてから、僕は急に全力で走り出した。そして先生や看護師たちが呆気にとられている隙に塀に向かって大きくジャンプした。
グラウンドは高い塀で囲まれてはいたが、それはあくまで一般的な人間の基準での話だ。今の僕なら、跳び越えることは無理でもその塀の上に手をかけるぐらいはできた。
一瞬遅れて僕が何をしようとしているのかミランダ先生が悟る。でももう遅過ぎる。僕は先生の声を背中に受けながら塀の上に昇り施設の外に出た。
*
施設の外は、森だった。いろんな動物の気配がする。僕はそれらを刺激しないように慎重になりながら鼻をヒクヒクと動かした。
昨日お父さんが病室に来た時、そのにおいを覚えていた。周囲に残っているそのにおいを辿り、僕は走り出した。
*
何日も走った。森を抜けた。川を渡った。山を越えた。施設から遠のくにつれて、視界を占める白の割合が多くなっていく。雪だ。家を出る時も辺り一面に雪が積もっていたのを思い出す。それで、家に近付いているのだと思った。そして施設を飛び出してから五日目の夜。僕は自分の家にたどり着いた。
玄関の前に立つ。この扉の向こうにお母さんがいるはず。ドアノブに手をかけようとした瞬間、背後から大きな音がした。
音のした方を振り返る。しかしうまくいかなかった。身体から力が抜けてその場に倒れこむ。撃たれた。そう気付いた時、こちらに歩いてくる足音が聞こえた。
*
気が付くと、僕は自分の家の前に転がされていた。立ち上がろうとするけど、両手両足が拘束されていた。周りを見渡すと、玄関のところで誰かが話しているのが見えた。あの後ろ姿はミランダ先生だ。そして先生と向かい合っているのは……。
「お母さん!」
僕は叫んだ。あらん限りの力で。お母さんの肩がビクリと震えた。
「お母さん!僕だよ!ヨシュアだよ!帰ってきたんだ!僕、元気になったんだよ!お母さん!」
ミランダ先生が振り返る。視界に入ってきたお母さんの顔は、凍り付いたように表情がなかった。
「……では、後のことはお願いします、ミランダ先生。好きにしてくださってかまいません」
「分かりました。ご協力感謝します」
そうお母さんに告げてから、ミランダ先生がこちらに歩いてくる。
「ヨシュア君。困った子ね、君は。でももう大丈夫。一緒に施設に戻りましょう。あぁ、心配しないで。私は怒ってなんかいないわ。むしろあなたの身体能力が確認できて嬉しいぐらいよ」
にこやかに僕に声をかける先生。僕はそれを無視してお母さんに向かって叫び続ける。
「お母さん!どうして何も言ってくれないの!?ねえ!答えてよ!お母さん!」
お母さんは、一度だけこちらを見た。そして、
「……あなたみたいなバケモノ、知らないわ」
と吐き捨てるように言ってから玄関を閉めた。その目も、声も、ひどく煩わしそうに思えた。
*
僕は施設に連れ戻された。そして地下にある広い部屋に閉じ込められた。その間、抵抗らしい抵抗もしなかった。頭の中にあるのは「どうして」という疑問ばかりだった。
どうしてお母さんはあんな声で僕のことを「バケモノ」と呼んだのだろう。どうして僕はこんな「バケモノ」になってしまったのだろう。どうして僕の魂はこんな「バケモノ」の形をしていたのだろう。どうして、どうして、どうして、どうして。
誰も答えをくれないから、僕は部屋の隅でうずくまってずっと考え続けていた。
了
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