広がる花


 夕日が窓から流れていくと、柔らかく滲んだ光が教室内を薄く染めていた。

それに呼応するように寒さが漂ってくると、花乃はすうっと目を開いた。


 いつのまにか眠っていたようだ。窓側の近いところに位置する花乃の席は、晴れていると陽光が降り注ぐ。


 放課後の慌ただしい時間とは関係なく、彼女の机を黄金色へと塗り替えるその変化が、彼女にとってのきっかけなのだろう。

 ほんのりとした暖かさも合わさり、眠気が訪れるのは自然なことだった。


 その結果、少し遅めの昼寝へと誘われる。それが花乃にとっての習慣となっていた。


 今回もその例に漏れなかったらしい。軽く背伸びをすると、変な体勢で眠っていたことの違和感が体に残っているが、それが何故だか心地よい。


 薄い紅色に染まりつつある机から目を話して、窓の外に目を向ける。その景色にうっとりを目を細めた。


「子供のようね」


 遠くから囁かれているような、幻惑的な声が響いている。けれどそれは花乃のすぐそばから伝わってくるようにも聞こえてくる。それはそもそも声ではなかった。けれど花乃には声のように聞こえている。


 それは彼女の声だ。放課後の教室に彼女と花乃がいる。


 彼女は花乃の傍に、今日も寄り添っている。

呆れている彼女に目線を向けず、花乃は言葉を浮かすような口で話し始めた。


「まだ子供だから」

「本質の話をしているの。年齢は関係ない」

「分かっているよ」

「何が?」


 何が? そういう理屈じみたことを尋ねられると、花乃は言葉を出せなくなる。

自分とは違う考え方の違いを、大きな隔たりを見せつけられるから。


 限りなく、これ以上考えられないほどに限りなく寄り添っている存在のはずだ。けれどそのような超えられない距離感を事実として、花乃の前に見せつけられる時がある。


 なんだかそれがもどかしい。


 けれどもそういった自分の感情を、理屈にすることができなかった。

席から立ち上がると、沈みゆく夕日を眺めながらぽつりとつぶやいた。


「最近、あなたは少しうるさい時がある」

「……」

 

 返答はない。花乃の言葉をどのように思っているのだろう?

困惑、憤慨、哀感? 胸元に手を添えて、彼女に触れても何も伝わってこない。静寂が教室に漂う。それだけが時を数えていた。


 おそらく二人とも気づいている。ただそれを言葉にすることをためらっていた。

限りなく傍にいるのに、限りない隔たりがある。言葉にしてしまうとそれを形にしてしまう。


 時を進めたくはなかった。二人ともまだこのままを望んでいる。

その静寂を破ったのは、二人ではなく無関係な第三者だった。


「あら、まだ人が残っているのですか?」


 花乃が顔を上げると、教室の入り口から一人の影が覗き込んでいた。

夕日がその者の顔の影をはがすと、花乃にとって見知った顔であった。


「先生。こんにちは」


 先生と呼ばれた彼女は、扉越しにふわりとした笑顔を見せた。

素朴な顔つきだが、見ているだけで優しい気持ちが伝わってくる。人形のような愛くるしい笑顔が転がっていた。


 人形らしいのは表情だけではなく、小柄な体躯が先生を人形らしく見せて生徒からは人形のように扱われている。


 尤も、その印象は彼女にとっては悩みの種のようで、先生らしい態度を振る舞うのを心がけている。しかし大人ぶった仕草は、愛嬌ばかりだけが際立っていくだけだった。結果としてみんなから愛玩的に親しまれている。


 今でも花乃の方が大人びた佇まいを見せている。花乃の顔を一瞥して、先生はコホンと咳を吐き出した。


「忘れものですか?」

「いえ、少し眠っていて……」

「育ち盛りですね。だけど机で眠るのは姿勢に悪いと思いますよ」

「すみません。次は気を付けたいと思います」


 指で髪の毛をいじりながら、花乃はそう返す。先生はこらえきれなかったのか短く息を漏らすと、それにつられて花乃も笑った。このようなやり取りは、二人の間では初めてではない。


 だから笑い声が重なる。


「もしやいるかと思って覗いてみましたけれど、本当に眠るのが好きなのですね」

「はい。だけどもう下校時間みたいですから。帰ります」

「気を付けて帰ってくださいね」


 鞄を持ち、先生の傍をすり抜けていく。花乃は滑るような足取りで数歩歩き、くるりと振り向いて、ぺこりとお辞儀をした。


 花乃の軽やかな仕草に対して、先生は素朴な疑問を持った表情を浮かべていた。


「どうしました?」

「いえ、気のせいなのかもしれないのだけれど、教室にあなた以外の誰かがいたような気がして……」

「どうしてです?」

「あなた以外の話し声が聞こえてきましたから……」

「……」

「だけれど教室には誰もいないし、あなただけだったのかな?」

「そうですね。それで間違いないと思います」

「そうね。やっぱり気のせいだったのかな」

「また明日。先生」


 それだけ残して花乃は、廊下を歩く。このやり取りは、初めて交わされたことだ。先生の姿が見えなくなるまで手を振る。階段を音符のように降り立っていくと、夕闇の寒さに沈み込んでいく。


 花乃と彼女だけになった。

昇降口前まで戻ると、辺りを見回した花乃は胸元から一つのペンダントを取り出した。


 簡素なつくりだがその先には、透明な石がはめ込まれている。目の前まで持ち上げる。夕日が注がれるとその石が、瑞々しい色を放っていた。

 輝きの向こうに何かがある。そういう気にさせてくれる人智を超えた輝きが、石の奥からあふれてくる。

 それは気のせいではない。そこには確かに何かがあった。その何かが自分を見つめている。


「少し不用意に話しすぎたかしら?」


 声が聞こえてくる。ペンダントから届いてくる幻惑的な声。花乃にしか聞こえていない声に囁かれている。


「ううん。私が不注意だっただけ。少し油断していた」

「そう」

「でも……いいや。なんでもない。帰ろう。一緒に」

 

 校舎から花乃は出て、家を目指す。影は一つだが花乃は一人で歩いているわけではなかった。花乃と共にいる一つの存在が、ペンダントを通して寄り添っている。



 決して自分が一人だったわけではない。自分の傍には、多数の人がいる。

皆自分を慕ってくれている。その中にいることに、不満を感じることさえ贅沢なのだろう。


 ただ……限りなく不安になる時があった。どういうわけかは分からないけれど、途端に寂しくなる時がある。


 慕われている自分という存在が、まるで他人のように見えることがある。そういう風に見えてしまう理由もよく分からない。けれど普通に過ごしているだけなのに、自分がどこにいるのかが分からなくなる時があった。


 私はどこにいるのだろう? 私を見つけてくれる人はどこにいるのだろうか? 疑問を聞かせる相手もどこにもない。


 形のない霧のような不安に包まれながら、花乃という他人と共に生きていた。


 あるとき、声が聞こえた。いや、それは正確には声ではなかった。花乃を呼ぶそれは、形を持たない意志というものだったのだろう。


 声の主は割と簡単に見つけることができた。けれど見つけた時にさらに疑問が増えた。その声の主は人ではなかった。生命と呼ぶべきかも判断がつかなかった。しかし花乃は確かに、その存在が自身を呼ぶのを聞いていた。


 鉱石から声が聞こえてくる。けれどそれは鉱石ではない。その鉱石は確かな意志を持って花乃を呼んでいた。


 花乃はそのまま手を伸ばす。呼ばれたからだけではない。こうするべきというような直感めいたものに突き動かされていた。


 その時から、鉱石は彼女として花乃の傍にいた。彼女と呼んでいるその存在を胸元に秘めて、花乃は毎日を生きている。


 彼女は花乃と出会ってから、自身について話をした。おそらくだが、花乃に説明しなければこれからの生活が儘ならないのだと、判断したのだろう。後からわかったことだけれど、合理的な行動原理をしているのが彼女なのだった。


 明白なことだが、彼女は人間ではない。しかし生物と呼ぶには、花乃の常識を超えていた。花乃から見ると彼女は、手のひらに乗せられる程度の小さな鉱物だった。


 藍色の煌びやかな光を放ち、けれども洗練されていない歪な形を持っているため人工的なものではない。しかし自然の中で生まれたものでもない。


 ここではないどこかから訪れた超常的な存在。その鉱物に見えるそれが、彼女という存在だ。


 花乃自身が鉱物が生命ではないと思っていただけで、中にはこのような形を持った生命が存在していた。


 彼女に出会ったその時から、自分の見ていた世界が、どれほど一側面の姿しか見えていなかったのかというのを、花乃はすごいくらいに思い知ったのだった。


 間違いなく彼女との出会いは花乃には大きな意味を持っていた。

彼女は鉱物ではないが、鉱物のように限りない時間を生きていた。ずっと、ずっと昔の話から、花乃の知らない人たちのこと。知らない場所や知らない日常のこと。


 今を生きているだけでは決して聞くことのできない悠久の物語。


 彼女からはそういう話を聞いた。

 彼女から聞かせてもらったそれらの話全てが、花乃には信じられない話ばかりで、絵本を読み聞かせているような気分に浸るのだった。それと同時に彼女が傍にいることに、安心する。彼女といる時だけは、無性に寂しくなることはない。


 理由は花乃には分からない。でも彼女とは共に傍にありたいと思っている。だから彼女に見合うようなペンダントを用意し、それで彼女の居場所を作った。

 けれど……


「やはり私は油断しすぎている。この環境に慣れすぎている」


 花乃は自室でベッドに横たわり、胸元のペンダントを持ち上げる。無機質な電灯の光に透かされて、その形は柔らかな光を帯びているようだ。


 声にとげはなく、自省のように話している。発端にあるのは、今日の放課後での花乃と先生のやり取りによるものなのだろう。そうだとした場合、花乃にも責任の一端はある。

 

 でも彼女はそれを追求するつもりはないようだ。

 彼女がそう告げるのは分かっているけれど、彼女にどういう言葉を投げればいいのかは分からない。


「慣れちゃいけないことなの? 私はこれでいいと思う」

「あなたはそういうけれど……けれどあなたは事を軽く見ている。私がいるということを理解していない」

「私はそんなこと思わない」

「それが楽観的だと思っているの。なぜなら……」

「なぜなら?」

「……」


 彼女らしくない沈黙だった。物事を即決して述べる彼女には似つかわしくないものだった。


「どうしたの?」

「あなたと私って一日ほぼ一緒にいるわよね」

「うん」

「それは私があなたに近寄りすぎているということだと思う。あなたの自由を束縛しすぎているということ」

「え?」

「一日のうち少しは、あなただけで行動した方がいい。それがあなたにとっても有益なことだと思う。少し考えておいて。私は別に構わないから」

「私はあなたといつまでも一緒でいいよ」

「それじゃだめなのよ」


 突然花乃の意識が遠くなる。闇の中に閉じ込められているような孤独と、空に浮かんでいるような浮遊感が混ざり、自分が希薄になっていく。


 見えているのはペンダントを見つめている自分だった。その双眸は自分ではないまなざしに彩られている。輝きはまるで彼女の輝きに違いない。


「分かっているでしょう?」


 花乃の口がそう動く。けれど口を動かしているのは、花乃ではない。彼女だった。


「いきなり私の体を奪わないで。それで前に観月ちゃんに迷惑かけたじゃない」

「もうそういうことはしない。すぐ返す」


 何かに引っ張られるように視界が急に動くと、次の瞬間には花乃は彼女を見つめていた。


「……」


 彼女からは言葉はない。


「私はずっとあなたと一緒に居たいよ。あなたも同じこと思っているのじゃないの?」

「いえ、私はそうは思っていない。もしかしたら……あなたを呼ぶことは間違いだったのかもしれない。このまま出会わなかったほうが正しかったのかもしれない」


 彼女と花乃は互いに見つめあった。水色の鉱石の中に光が通ると、それはややにじみ不透明な彼女の心情を表現している。固いようなものではないが、けれども花乃に対する距離を感じていた。


「ねぇ、何に迷っているの?」

 

 花乃はそう尋ねた。彼女から言葉がない。言葉がないから迷っている。

 また、しばしの静寂。花乃が見る彼女は、いつも同じ形をしている。けれど何かを思っているはずだ。


「そういうことではないの」

「何か迷っているよ」

「迷っているわけではない」


 彼女は語尾を強めた。彼女らしくない声に、花乃は黙らされる。

それから彼女からは何の声も響いてこなかった。



 それこそ花乃が教科書の中でしか見たことがない、自身にとっては空想の話でしかなかった。それが現実の中に侵略していた。戸惑いがないわけではない。


 だが彼女にとっても同様のことだったのだろう。


 彼女にとって花乃だけではない、全ての人間は侵略者なのである。でも彼女は花乃がいないと今を生きていられない。それでも花乃のことを遠ざけたいのだろうか?


 出会わなければよかったと後悔するのなら……。

 ならどうして誰かを、私を呼んでいたのだろう? そのとき彼女は何を思っているのだろう?


「観月ちゃんはどう思う?」

「……」

 

 玉城観月は花乃の顔を一瞥すると、また本を開いた。その表情の節々には、鬱陶しいという感情が如実に表れている。しかし花乃は観月の胸中のことを察していない。察するつもりもない。


 昼休みの時間にわざわざ観月の席に訪れて相談したことは、観月にとって見れば関わりあいたくないことだ。花乃の、特に彼女が胸に持つペンダントのことについてはなおさらである。


 そういう空気を醸し出しているのだが、目の前の花乃には無意味であるようだ。眼鏡の端を持ち上げて位置を直すと、根本的な疑問を口にした。


「本人に直接聞いたら? 口を噤んでいるようだけど、問い詰めたら答えるでしょう?」

「そうなのだけれど……。彼女に聞くのではなくて、自分で考えてみたいの」

「私に聞いているのに?」

「そうね。でもそこは観月ちゃんだから」


 頬に手を当てて相槌を打つ花乃を、観月はじっと見つめている。花乃にとって観月は、彼女が言う「自分」に近い位置にいるのかもしれない。喜んでいい事ではなかったが、観月は会話を続けることにした。


 もう避けるように振る舞う方が、面倒で無意味に思えていたのだ。


「じゃあ暇つぶしに考えてあげる。けれどその前にこの会話ってあれは聞いているのじゃない?」

「ううん。今は鞄の中に入れているから」

「へぇ、早速手放してみたのね」

「何度か手放す前に呼びかけてみたのだけれど、『どうぞ』としか言わないのよね」

「そう。どう呼びかけたの?」

「うん。内緒の話がしたいからということで、待ってもらっているの」

「内緒の話しって言ったら、だめじゃない」

「どうして?」


 首をかしげる花乃を、冷めた目線で見つめていた。観月と花乃は同じ人間でも遠い感性を持っているのだろう。何度か認識していたことを、ここで改めて認識していた。


「とりあえず、あれがあなたの何に迷っているということについてよね?」

「うん。ありがとう。観月ちゃんなら考えてくれると思っていた」


 ぐいぐいと押し付けるような視線から逃げるように、観月は窓の外をぼんやりと眺めた。もとより、花乃の頼みに真剣に考えるつもりはなかった。どれほど真剣に考えたところで、答えになるわけではない。


 それなら花乃の求めるような答えを告げてしまおう。それは難しい事ではなかった。花乃は良くも悪くも直情的で単純であるし、あれについては自分と同じくらいひねくれている。


「迷っているわけではないのじゃない? あれはあなたには嘘はつかないはずだからさ」

「じゃあなんで様子がおかしいのかな?」

「様子がおかしいというのは?」

「最近口うるさかったよ。校内で私に話しかけない方がいいとか、帰り道でステップを踏みながら帰らない方がいいとか、放課後に居眠りしない方がいいとか、紅茶を飲む時にハミングを口ずさむのはやめた方がいいとか」

「それは私もそう思う」

「私によく干渉してくるのよね。けれどそう言っていたと思っていたら、今回みたいに距離を置いた方がいいと言い出したの。どうしてそういうことを言うのかが分からないわ」

「態度に一貫性がないのね。それはあいつの中でも決まり切っていないのじゃない?」

「私と彼女との距離感のこと?」

「えぇ。近寄りすぎているということは言われていたけれど、そうなのかな?」

「そのままでしょう?」


 花乃は半信半疑であるように首を傾けている。観月はその顔を一瞥すると再度口を開く。文字通り鉱石のような彼女の心理を紐解くという行為に、彼女への優越感が勝り、観月自身も何だか面白くなってきたようだ。


「あれはあなたに依存しすぎていると自覚しているのじゃない? あれはあなたが共にいないと、ただの鉱石でしかないのでしょう? それにどれほど優れた知識を蓄えていたとしても、意思疎通ができるのもあなただけ。

 そうやってあなたにぶら下がって生きていることに、申し訳なさでも思っているのじゃない?」

「観月ちゃんが言うのならそうかもしれない。でも彼女はそうせざるを得ないじゃない?」

「事実としてはそうだけれど……寧ろ事実であるからこそ、現状に歯がゆく思っているのだとしたら? どれだけ考えてもその事実は変わらないわ」

「私が彼女のことを大切に思っているとしても?」


 目元を落としてうなだれる花乃の言うことに、観月は感情をこめずに告げる。


「そうよ。あなたが人で、あれは人以外の存在ということは変えられない事実なの」


 それを主張する様に語尾を強めると、授業の予鈴はさながらその相槌のように鳴り響いた。授業の予鈴がなっている。観月の言葉も彼女と花乃の関係を裏付けるように、非情に鳴り響いている。


 花乃は頷いていた。咀嚼する様に観月の言葉を飲み込んでいるが、その表情は明快なものではなく疑問を固めている。


「花乃さんは、何か別のことを考えているの?」

「えっと、観月ちゃんの言うことが正しいのなら、私が何ができるのかな?」


 観月は首をかしげる。傾いた観月の視線を受けて、花乃はちらりと後ろを振り返った。その視線は自分の鞄にいる彼女へと届いている。


「彼女、どうして私を呼んだのかな?」

「どういうこと?」

「彼女、何が望みなのかな?」

「何が?」

「彼女がさ、せっかく自分と意思疎通できる人がいるのだから、それでもっとしたいことでもあるのじゃないかなと思って」

「うん。でもそれは叶わないことでしょ? あれと花乃さんは姿形から違うのだから。相手はただの石にしか見えない」

「あ、そうか……!」


 突如として叫ぶ花乃に、観月は面食らって見上げていた。先ほどの表情とは打って変わり霧が晴れたような笑顔を、ぱっと開かせていた。


「観月ちゃん。分かったよ。ずっと前から分かっていたけれど、でもどうしようもないと思っていた」

「何を思いついたの?」

「私と彼女が違うということ。でもさ、そんなことないじゃない。方法はあるかもしれない」


 それだけいうと観月は踊るように自分の席に戻っていく。その後姿を見送りながら、少し語りすぎたことを観月は後悔していた。

 


 一点の曇りのない空からの優しい視線は、花乃の背中を後押ししてくれている。そう思わざるをえないほど、花乃はかつてないほどの興奮に包まれていた。


 その興奮は花乃の体から彼女へと熱に変換され伝わっていくと、熱さと興奮に彼女が反応した。時折花乃の感情が彼女へと流れていく時がある。以前は気にしない様に彼女は振る舞っていたが、この時の熱さは無視できないものだったらしい。


「どうしたの?」

「ちょっと行くところがあってね」

「どこにいくの?」


 廊下を通り過ぎる生徒たちは、放課後で各々の場所へと向かっていく。それらが織りなす喧噪をすり抜けるように、花乃は流れていく。校舎から出ると、人の熱とは反対側にある建物へと向かっていく。


 同時に人の数もまばらになっていくと、花乃は優越感を浮かべながら軽く含み笑いを見せた。


「まだ内緒。その内分かるから」

「そう……」

「でもあなたにとってとてもいいことになると思うの」

「それはあまり期待できないことね……」

「今はそう言っていると思うけれど、きっと驚くと思うよ」

 

 自信に満ちた笑みを見せびらかして、花乃は建物の中へと足を踏み入れる。一部の文化部は旧校舎であるこの建物の中に部室を構えている。それでも部活数と部屋数は釣り合っていないため、人の気配はほとんど感じられなかった。


 建物内は時間が重みをもつような静けさに包まれている。


 そう感じるのに、少なからず人の気配や息遣いが建物の隙間からにじみ出ている。不思議な場所だというのが、花乃のこれまでと変わらない印象だった。

 三階建ての建物で、目当ての部屋は二階にある。


 けれどもその部屋に入るには一定の手順を進まなければいけない。

 三階まで上がり、その後は一階まで降りる。その後一回の廊下を歩く。歩いている間は他の誰にも話しかけてはいけない。決して走ってもいけない。

 そして影から足を踏み外してもならない。


 ここに来るときはこの手順を踏まなければならない。理由は分からないがこれから会う人には、それを厳守する様に言われている。


 別の階段から二階に上がり、真ん中の部屋に向かう。

目的の部屋の扉を開く。


 一歩足を踏み入れた瞬間に、絶対的な暗闇が花乃を四方から見つめていた。

 元は一クラスに使われていた教室ではあるが、それを思い起こさせないほどに圧迫感が強い場所だった。


 教室に並べられるとは考えられていないものが並べられている。

暗闇の向こうから無機質な呼吸音のようないびつな音が聞こえてきた。


 規則的に並んでいる机の上には、真空管やフラスコが敷き詰められている。不透明な液体が白い泡を吐き出している。泡が破裂する音がまるで鼓動のような音を広げて部屋の歪みを強調していた。


 下を見ると、機械のコードが木の根のように這っている。まるで血管のように張り巡らされ、この部屋全体が一つの生き物であるような不気味さが存在する。

 

 その部屋の中心に花乃が探していた少女が座っていた。パソコンの光と見つめあい、一心不乱にキーボードを叩いている。花乃が近づいていても、その人物は一向に意に介していなかった。


「豊風ちゃん。ちょっといい?」


 呼ばれた少女は、花乃へと視線を向ける。微かな動きに追従して、豊風の並みだった金髪が弾んでいた。光を閉じ込めたその髪と、青みがかかった透明な双眸。

 このような異質な場所に座っているということも加えて、その姿は人間離れしたものでだった。


 花乃の姿を確認すると、豊風は不敵にほほ笑んだ。


「花乃さん。ようやく来たのですね。待っていました」

「知っていたの?」

「いいえ。でもそろそろ来るだろうなとそういう予感がしました」


 その少女はすっと立ち上がり、近くにある電気ポットでお湯を沸かし始める。近くにある椅子に紅色の座布団を置いた。花乃が座ると、クッキー缶を開き、近くの机に中身を並べ始める。


 気が付いた時には天井に並べられているキャンドルライトが光を降り注いでいた。絶対的な暗闇の中で二人の間に光が広がっている。二人だけの部屋というように。


 しばらくして、電気ポットがシューシューと騒ぎ始める。豊風の鞄の中から出された二つのカップへと中のお湯が注がれ、よどみなくティーバッグが沈められる。

 手際がよく、決められた手つきだが見続けてしまう。本人の魔力のような魅力が如実に表れている。豊風という本人を象徴している仕草だった。


「豊風さんはすごいね」

「当然です。しかし花乃さんがここに来るというのなら、単純な世間話ではないと思いますが、どういうお話ですか? 私にお願いごとですか?」


 カップの中のお湯が、ティーバッグの色を滲み出し始めると、白い湯気が二人の間に立ち込める。二人の間を、パソコンの駆動音がうかがうように鳴り響いていた。


「豊風ちゃんは、今日何を作っているの?」

「今日はこの前の続きです。朝からここでそれを実装していました」

「へぇ……人工知能だっけ?」

「正確には対話エンジンになりますが、おおむね似たようなものです。とはいえ機械的なものではないです」

「パソコンで作っているのに? 機械ではないの?」

「誰もが作れるものではないのですよ。私が作っているのは、私にしか作れない無二のものになるのです」

「出来上がったら見せてもらってもいい?」

「いいですよ。あなたは驚いてもらえるから、見せるに値します」

「ありがとう。でも忙しそうなのね、それなら豊風ちゃんに頼むのは、やめておいたほうがいいのかな?」

「今日の話ですか?」

「やることがある時に頼みごとをしてしまうのもね」

「聞きますよ。引き受けるかどうかは、内容次第です」


 湯気の向こうで豊風が微笑む。カップをつまむ指先から、彼女の体がしなやかに伸びて、すらりと伸びる足の先が鈍く輝いていた。


「それじゃあお言葉に甘えるよ。あの、豊風ちゃんってぬいぐるみ自作しているよね」


 無邪気に笑う花乃の表情に、豊風が喜色を示す。自身の好きなことを話題にされてうれしいだけではなく、花乃がそれを知っていたことが勝っているのだろう。


「はい。そうですね、もしかしてそれで何か作ってもらいたいものがあるということですか?」

「ううん。その作り方を私にも教えてもらいたいの」

「作り方をですか? それはまたどうして?」


 豊風の問いかけに花乃は、首を縦に振る。首元の彼女にそっと指を触れながら話をつづけた。


「うーん。内緒といったらだめ? あんまり細かいことは話せない」

「話せない? それは口止めされているということでしょうか?」

「うん。そういうことじゃないの。自分で作るというのも、今日ここに来たのも自分で決めたこと。それに嘘はないよ」

「疑っているわけではないですよ。しかし自作というと、贈り物ということがあるかもしれません。そういった類のものですか?」

「贈り物は贈り物なのだけれど……」

「それは誰に……?」


 表情は変えていない。

 だが軽い後悔が豊風の胸の中に落ちる。うかつに聞きすぎた。けれどもそうしてしまうのは、目の前の花乃の、赤い表情を目の当たりにしてしまったから……。その純情に触れてしまった。


 その感情が不意打ちだったから……。

でもこれ以上は踏み込めない。


「すみません。軽率でしたね」

「ううん。いいの」


 豊風からは花乃の意図が、一切見えてこない。けれど花乃がここに来た時から、どうするかというのはすでに決めていた。


「分かりました。花乃さん個人の願いであることが分かりましたので、もう何もききません。それで返答といいますと問題ありません。どういうものを作りたいのかにもよりますが、それくらいでいいならお手伝いします」

「本当ありがとう」

「それでその作りたいぬいぐるみは、どういったものを作りたいのですか?」

「まだ決まっていないの」

「決まっていない。なら今日訪れたのは、私の意志の確認ということですね」

「そういうことかな? また考えを固めてくるから、その時にまた相談させて」

「はい。普段からここにいますので、いつでもどうぞ」

「あまり邪魔するのも悪いから、もう帰るね。ありがとう。お茶もおいしかった。また来るね。その時は今回の用事だけではなくて、普通におしゃべりでもいい?」

「いいえ。いつでも来てくださっていいですよ。まぁ私が教えるからには厳しく行きますから。妥協はしませんよ」

「うん」


 豊風の元から去る時に、花乃が首からぶら下げているペンダントが鈍い光を放った。不気味な光だ。その光が豊風の目に留まった時、理由もなくそういう気持ちを抱いた。

 そしてその時の光が、花乃に鋭く向けられている。そのような気が拭いきれず、豊風の胸に一点の不安を残していた。



「どういうつもりなの?」


 部活棟からでた瞬間に、彼女は声を響かせた。花乃にしか届かない声は、冷徹な旋律を伴って花乃の中を抜けていった。歩きながら花乃は空だけを見ていた。


 その空に引っ張られるように花乃は歩き続けていたが、それと同時に語りだす。


「そのままの言葉よ」

「ぬいぐるみを作るというのが? そんなこと始めたかったの?」

「うん。ぬいるぐみというか、作りたいのはもっと違うもの」

「違うもの?」

「うん。あなたに関係するから話しておくよ」

「どういうこと?」


 彼女の反芻には何も答えずに、花乃は校舎の脇を抜けていった。もったいぶる足取りで、食堂の裏の道を通り、自動販売機が並んでいる場所に進んでいく。


 静かだった。時間が重みをもったように。


 そしてあたりには誰もいない。自動販売機でジュースを買うと、近くのベンチに腰を下ろした。昼に観月と話した後から、燃え上がっていた感情が爆発しそうだった。

 それを抑えるように足を揺らしながら、彼女へ声を届ける。


「作りたいのはあなたの体」

「私の体?」

「そうよ。私考えたの。あなたは私の傍にいてくれている。それはあなたがそのような体でしかないという理由もあるわ。

 あなたはそれで満足かもしれない」

「それは……」

「でもそれってそのような体を持っているから、そう思っているだけじゃないの? あなたは他にやりたいことがあってもいいのじゃない?」


 花乃の疑問に、彼女は何も答えなかった。ただ時間だけが過ぎている。静寂が織りなす歪な音を花乃は気づいていなかったから、花乃は話を続けてしまった。


「だから私考えたの。

 自分で歩けるようになったり、私だけではなくて、他の誰かとコミュニケーション取れるようになるようになれたら、すっごいいことなのじゃないかって」

「……」

「そのため別の器が用意する必要があると思って。器というよりあなたの体。あなたなら、上手く操ることができると思う。なんとなくね」

「だからぬいぐるみを作ろうというの?」

「そこはぬいぐるみではなくても、人形とかでもいいのだけれど……」

「……」

「確かにあなたが本当に今の体からぬいぐるみに移れるかもわからないけれど、でも私の体には乗り移れるでしょう?

 なら試しにちょっと作ってみてもいいのかなと思うの。もしかしたら、歩いたりすることができるようになるかもしれないよ」


 しゃべればしゃべるほどに花乃は舞い上がっていた。自分にも彼女にも、それが正しいことだと信じて疑わなかった。熱い視線を彼女へとむけ続ける。その視線が熱をまとうほどに、彼女の体は固く冷めていった。


「どう思う?」


 花乃はそう尋ねる。


「私には分からない」

「そのうち分かるようになるよ」

「いいえ。分からないわ。だけどあなたが何をしようとしているのかは分かる」

 

 はっきりとした言い方だった。花乃は何も返せなかった。それを確認してから、彼女はゆっくりと告げた。


「つまり……あなたは私がいなくてもいいということなのね」

「え?」

「私が歩けるようになれば、あなたが私をぶら下げる必要もないですものね」

「そういうことを思っているわけじゃないよ……」

「そもそもあなたがぬいぐるみを作ったとしても、それを私が操れるかは断言できないじゃない。できるかどうかも分からないものに、時間をかけることはおろかだわ」

「それはそうだけれど、できなかったとしてもそれはそれで何も問題ないじゃない? それは残念だと思うけれど……」

「どうしてそこまで楽観的なの?」

「どうしたの? あなたはそういう性格なのは知っているけれど、でも何かムキになっていることない? 何か気に障るようなことを言った?」

「言っていない。私はいつも通りに分析して話しているだけ」

「だけど……何かあなた前から変だよ。私から距離を置こうとしているようじゃない。でも今回のことだってあなたを離れさせたいからじゃなくて……」

「私は何も変わっていない。あなたが抱いていることは、全部気のせいに過ぎない」

「嘘よ」

「何が嘘だというの? あなたが私の何を知っているというの?」


 はっきりとした彼女の言葉だった。


 花乃はなんて言っていいのか、言葉に迷っていた。ぐるぐると自分の感情と、彼女への感情が混ざり合って、どうすればいいのか見失っているようだった。

 考えれば考えるほど、彼女が何を思っているのかが不透明になり、胸元にある彼女との距離が果てしないものに見えてくる。


 時間は平等に流れていく。花乃の脚から伸びる影が徐々に大きくなり、花乃の体を飲み込む中、彼女だけは変わらず透明な光を放っていた。


「ごめんなさい」


 花乃を我に返らせたのは、彼女だった。


「え?」

「少しきつく言いすぎた。あなたの心にないことを言ってしまった」

「えっと……私は別にいいのよ」

「あなたがぬいぐるみを作りたいというのなら作ればいい。それがあなたにとって満足することなら」

「うん……。帰ろうか?」


 これ以上言い続けるのは怖かった。


「そうね」


 立ち上がった時に、花乃はふと疑問に思い尋ねてみた。


「できるできないは別として、あなたは私の傍にいること以外にやりたいことはないの? あなたはこのままでいいの?」


 花乃のまなざしが彼女を照らす。しばらくして、彼女は毅然とした口調で答えた。


「ないわ。私はこのままでいい。でも忘れないで。あなたはあなたで、私は私なのだから、違う」

「そう……」

 

 


 なんとなくだけれど、花乃と彼女との間には共通の認識が生まれていた。

それはぬいぐるみを作る放課後の時間は離れていた方がいい。

 どちらが言うまでもなくそういう空気が、二人の間に醸成されていた。

 

 教室にあるナンバー式のロッカーに鞄と一緒に彼女を残していく。豊風の元に向かうときに、いつも彼女に尋ねかける。


「じゃあ私行くけど、いいの?」

「……」


 それから毎日が繰り返されていった。ページをめくるように、一日が繰り返されて生き、ぬいぐるみの出来具合だけが時間の経過を教えてくれる。


 豊風の熱の入った指導もあったのか、初めてにしては順調にぬいぐるみができていた。

 ぬいぐるみの形になりつつあるまなざしに見つめ返されると、花乃の手が止まった。


 彼女は花乃とは違う。

彼女は花乃とは違って、冷静だった。

彼女は花乃とは違って、論理的だった。

彼女は花乃とは違って、体を持っていなかった。人ではなかった。


 出会うはずなどなかったはずなのに。

 それでも出会ってしまった。出会ってしまって、時間を共にしているのに、まだ彼女のことをほとんど知らない。


 それがかわいそうだと花乃は思っていただけなのに、彼女のことを想うほどに彼女とは距離が離れていく。どうしてと不安が芽生えるが、自分の行動が間違っていると思えなかった。


 豊風とぬいぐるみを作っていると、自分の思いが間違っていないと思えてくる。ぬいぐるみの作成は順調に進んでいて、日が進むたびに彼女の器となるそれができていく。


 いつもは厳しい豊風も、この時間だけは気分がいいようだ。その反応も、花乃の行動が間違っていないことの自信へと変わっていた。


 だからそれは妄信するかのように、次の日、その次の日と花乃は豊風の元へと足を運び続けていた。きっと彼女はまだ知らないだけなのだろう。自分がぬいぐるみを彼女のために作れば、きっと彼女も分かってくれるはずだ。


 彼女への気持ちが形になっていく。自分が作るぬいぐるみを、自分で見つめている。ぬいぐるみが自分を見つめ返してくる。そのまなざしには、花乃の表情が写っていた。


 彼女が、自分の体を、今以上の自由を手に入れることができたらそれが素晴らしいことに違いないはずだ。

 でもそれが自分の間違いだとしたら? 彼女が望んでいる物は違うものだとしたら?


 彼女は今も自分の傍にいる。ぬいぐるみを作っていることも知っている。そのうえで、彼女は花乃に何も言わない。花乃の行うことを見守っている。


 私は本当に彼女のためになることを、しているのだろうか? 彼女は何を望んでいるのだろう? 分からない。ぬいぐるみの瞳がまだ自分を見つめている。分からないのではなく、目を背けている?


花乃が見るべきものはぬいぐるみなのだろうか?


 そのような疑問がチクリと花乃の胸を刺し、赤く広がっていった。


「花乃さん。手元がおろそかになっていますよ」


 しんとした豊風の厳しい声が、花乃を我に返らせた。指先から滴り落ちる赤い色。同時に自分が持つ針の鈍い輝き。遅れてめまいに覆われて寄り添っていた豊風の肩にもたれこんだ。


 花乃の顔を見て瞠目している豊風が、眼前に迫っていた。


「ごめんなさい」

「しっかりしてください。それくらいの傷で済んだのは怪我の功名ですけれど……それを喜ぶわけにはいかないですよ」


 口を尖らせながら、豊風はきついまなざしで花乃を見据えた。鋭い瞳の裏側に、豊風の心配がある。隠しきれていないその気持ちを、花乃は背けるように目をそらした。

 彼女にお願いしていろいろと手伝ってもらっているのに、自分は彼女とのことで集中できていないのが申し訳なかった。


「全く。何に気を惑わされているのかは分からないですけれど、ちょっと待ってください」


 立ち上がる。自分の鞄の中から絆創膏を取り出すと、花乃の指に巻き付けた。自分でつけた傷が隠される。けれど、傷が見えないことに胸がざわついて花乃は絆創膏をじっと眺めていた。


「ありがとう」

「今日はもうやめた方がいいかもしれませんね」

「え……」

「なんだか、覚束ない手つきで集中できていないみたいです」

「そう……かな?」

「そうですよ。いつもならそんなことないと言い返すのだろうに、今ははっきりとしない胡乱な返答をしているばかりですよ」

「うん」

「何か気になることでもあるのですか?」

「気になること……」

「あるなら話してくれてもいいのですよ」


 豊風は電気ポットで湯を沸かし始めていた。ふつふつと大きくなる電気ポットの音が広がりを持つ。豊風に話すべきことなのだろうか? 


「ごめんなさい。やっぱり秘密なの」

「そうですか……。まぁいいですよ。私も疲れました。これで終わりにしましょう」


 そういうと同時に、電気ポットが白い息を吐いた。花乃の返事を待たずに二人分の紅茶を作ると、豊風が片方を花乃に渡した。


「どうぞ。これ飲んで帰りましょう」

「うん」

「それから、秘密ということなら私は別にそれで構わないですよ。あまり気に負うのはやめてください」

「なんだかごめんね」

「はぁ、そういうあなたを見ていると少し調子がくるってきます。何に悩んでいるのかは知らないですけれど……」

「うーん。悩んでいるつもりは……」


 言いかけて止まった。絆創膏をまかれている自分の指先を見る。この指を気付つけたのは花乃自身だ。それさえもまだ自覚がない。自分は悩んでいるかどうかさえ、気づいていないのではないか?


「私は悩んでいるのかな?」

「話を振ったのは私だけど、初めはやる気が満ちていたのに、今はなんだか心ここにあらずという様子ですよ」

「やっぱりそうなのかも。多分私悩んでいるんだ」


 カップを両手で持ちながら、豊風は神妙な顔つきをする。自身が花乃に置いて行かれていることの不満を隠すように、紅茶に口を付けた。

 花乃は紅茶に微かに映る自分の顔を見つめていた。


 私は悩んでいる。このぬいぐるみを作ることが、彼女にとっての望みにつながると思っていた。そうであると思っている。けれどもそうではないかもしれない。

 どちらかが決断できないというのは、彼女のことをやはり分かっていないのだろう。


「このぬいぐるみね。他の誰かにあげようと思っていたの」

「へぇ……そうだとは思っていましたけれど」


 豊風が窓の外を見ながら相槌をつく。花乃は続けて語りだした。

ぽつりとつぶやくと、零れ落ちるように言葉が紡がれていった。


「その人にとって必要なものだと思ったから。だけどね、その人にはいらないって言われて、だけど私はそうじゃないと思って」

「はい」


 できかけのぬいぐるみを見つめて、花乃は語り続ける。


「だから私はこれを作り続けていたのだけれど、でも形になるほど自分のしていることに自信がなくなってきたの。これをその人に見せて、その時どう言ってくれるのが分からなくなってきたから」


 豊風にはほとんど分からないかもしれない。だが彼女は紅茶と共に、花乃の顔を真剣に眺めていた。


「私がやっていることは無駄だったのかな?」

「そうですね」

「はっきり言うね」

「そうですね」


 豊風はカップに口つけて目を閉じる。紅茶の熱をその身に受けて、そしてすっと目を開いた。


「花乃さんは喜ばせたくて贈り物を送るのですか? 花乃さんはそういうつもりではないでしょう?」

「私が……」

「何も知らない私ですが、花乃さんが送るべきものはぬいぐるみではないです。

その人の助けになりたいのなら、その人と面を向かって話すべきなのではないですか?」

「え……」

「私から言えることはそれだけです。所詮部外者の意見ですが……」

「いや……そんなことないよ」


 花乃は豊風の両手を握りしめる。豊風の眼前に花乃の顔が迫った。虚をつかれた豊風は、彼女らしくないぽかんとした表情を浮かべる。豊風の頬に紅が染まっているが、それは本人も花乃も知るところではなかった。


「花乃さん。顔近いです。あと力強いです」

「あ……ごめんね」

「いいですけれど」

「でも豊風ちゃんに話してよかった。豊風ちゃんの言う通りだよ」

「私の?」

「もう一度その人と話してみる。今から話してみるよ」

「今から? 近くにいるのですか?」

「ここにはいないけれど……、学校にいるの」

「あぁ、そうなのですか。学校にいる人なのですね」


 豊風のつぶやきは、花乃には聞こえなかったようだ。流れるような足取りで、旧校舎の教室から出ていく。その後姿を豊風はじっと眺めて、空になった花乃のカップの縁にそっと手に振れる。


「ぬいぐるみを渡す人というのは、誰なのでしょうね」


 そう呟いた矢先に、また扉が開いた。


「豊風ちゃん。ありがとう」

「……。はい。どういたしまして」


 無表情で花乃を眺めていた豊風だが、彼女にしては珍しいふんわりとした笑顔で答えた。



 彼女は何か悩んでいた。それが今なら分かる。


 彼女のためだと自身で思う前に、自身は彼女と話をすればよかったのだろう。

彼女の望むものを用意しようと思っていた。だが、するべきことは彼女と向かい合って、その悩みを話すことだったのだろう。


 彼女が悩んでいる物を、花乃は正面から見据えるべきだったのだ。

階段を上り、自分の教室に戻る。


「あれ?」


 自分のロッカーを開こうとして、予期していなかった光景に花乃は足を止めた。自分のロッカーが開かれたままになっている。駆け寄って中を確認してみると、自分の鞄は輪郭さえ見当たらなかった。


 背筋から悪寒が走り、それが全体に駆け巡っていく。誰がこのロッカーを開けたのだろう? その疑問よりも、彼女はどこへ向かったのか?

 目の前の光景に硬直したまま花乃は立ち尽くしていた。


 後悔が彼女の間を駆け巡る。どうして彼女を一人にしてしまったのだろう。ロッカーの中から安全だと思っていたのは、完全に間違いだった。

 彼女を一人にさせてしまってはいけなかったのだ。


 その時、廊下に一つの影が伸びていた。


「捜し物はこちらですか?」


 花乃を待っていたその影は、夕日に照らされて黒に赤が混じる。この世のものとは思えないような色合いが、花乃へとにじみ寄っていた。


「先生?」


 彼女の前に現れた先生は、大人びた顔つきを崩していない。子供らしい容姿であるのは以前と全く変わらない。けれどその笑みは形容できない歪さが見え隠れしている。


「あの……どうして先生が私の鞄を持っているの?」

「それはナンバー式のロッカーを開けることができた理由ということになりますね。まぁ先生という立場では、そういったことも可能なわけで」


 先生は右手に持っているそれを花乃に見せる。花乃がいつも首からぶら下げていたペンダントが、先生の手に絡みついていた。


「先生も、聞こえるの?」

「はい。ですがはっきりと何を言っているかまでは分かりません」


 そのとき先日までのやり取りが思い起こされてきた。先生は彼女の声を聴いたようだと話していた。

 それは勘違いではなく、確実なものだったのだ。花乃が彼女を遠ざける時をずっと待っていたのだ。


「その通りです。ですが少し誤算だったのは、行動を起こすときに花乃さんが戻ってきてしまったことでした。結果として失敗しました」


 手に持っている花乃の鞄を見せつける。失敗という結果とは裏腹に、先生の表情は余裕に満ちていた。


「だけどそれは結果として良い方向に向かっているのだと、解釈するべきであるかもしれないですね」

「どういうことですか?」

「花乃さん。これは花乃さんの身に余るものです。しかるべきところに預けて、あなたはこれに出会う前の日常に戻るべきなのです」

「先生……」

「元々出会うはずではなかったと思いませんか? 彼女に出会わなければあなたがぬいぐるみを作る必要もなかった。あなたはあなただけの自由を持つことができるはずです」


 いつもの愛嬌のある姿とは違い、飲み込まれそうな迫力が先生の体全体を包んでいる。身じろぎしそうになるのをぐっと耐えて、花乃はまっすぐな瞳で見つめ返した。


「それは先生ではなくて、私が決めることだと思いますけれど……」

「楽観的すぎるでしょう。まず理解してください。花乃さんと彼女は違うの。その違いは、決して埋められるものではない。違う者同士がずっと同じに寄り添い続けるのは、いつかすれ違うきっかけになります」


 辺りは嘘のように静まりかえっていた。花乃と先生の他に誰も近寄ることはない。先生の言葉が絶対的な真実と告げるように、静謐さが近づいている。


 花乃は静寂に押しつぶされそうになっていた。


「先生は……彼女をどのようにするつもりなのですか?」

「これにとって悪い環境にはしない。ということだけは話しておきます。

それ以上のことについては話す必要はないでしょう」

「そんな……ことないよ」

「先ほども告げましたけれど、あなたと彼女は違う存在なのですよ。

元々出会うはずのなかったのです」

「それは彼女もそう思っているのですか」

「残念ですが、その通りです」


 静寂は終わらない。見つめあう先生と花乃。花乃は認めたくないとずっと思っていた。例え先生の言う言葉の方が真実だとしても……。


 それなら先生の言葉に従うべきなのだろうか? それは花乃のではすでに答えが決まっていた。


「その通りだとしても、私は彼女と一緒に居たい。それは同じ時間と場所を共有するということではない。彼女が望むことを与えてあげたいし、彼女が悩むことになら寄り添ってあげたい」

「あなたと彼女が違うとしても……?」

「違うとしても、私は彼女と対等でありたいと思うことならできるはずです。いえ、違う相手同士であっても一緒に居たいから、対等でありたいの。

 だから私はぬいぐるみを彼女に与えたくて……」


 自身の胸中を吐露する様に、廊下で先生へ言葉をぶつける。叫ぶうちに、自分でも分からなかったことが見えていた。


 自身が紡いだ言葉通り、花乃は彼女と対等になりたかったのだろう。悩みを持っているのなら、一緒に共有したいし、そのまま支えにもなりたかった。

 これだけは誰にも譲ることはできない。

彼女は誰にも譲りたくない、何にも代えることのない存在のはずなのだ。


 花乃はそう口にだろうとする前に、口は開いたままだった。

何か妙だ。自分の感情をすべて吐き出すと、先生の不自然さが徐々に際立ってくる。


 そもそも突然に表れる先生の姿は、非現実的な輪郭を持っている。この場所に突然現れたことも不自然だった。それだけではない。先生の顔を照らすまなざしも先生のものではなかった。


 先生は、私の知る先生ではない? ありえないことだが、彼女についてならそういう突飛な可能性もある。なら目の前にいる人は誰なの?


「先生。ちょっと聞いてもいいですか?」

「はい」

「私がぬいぐるみを作っていることをどのように知ったのですか?

それを知っているのは、私と豊風さんと、そこの彼女だけです」


 自分でそう話してみると、霧のようにつかみどころのなかった違和感がようやく形を持ち始めた。それに伴ってある仮説も現れ始めていた。


「さっきも言いましたが、それを知っているのはその三人だけなのだから、

先生がそれを知っているのはおかしいです。

 そうだ。なら先生は本当に先生なのですか?」

「……」

「その中は先生ではない別の人なのではないですか? 例えば……」


 追い詰めるように花乃は訝し気に話す。彼女の中ではほとんど確信をつかんでいる様子のはずだ。

 だが、先生は不敵にほほ笑み返す。それは彼女への賛美も含まれている複雑な顔つきだった。


「私にしてはちょっとやりすぎだったようね。いいえ、あなたの方が一枚上手だったということなのかしら? いや……これは認めづらいことね」


 そう告げた矢先に先生は踵を返すと駆け出していった。


「あ、待ってよ」


 花乃は先生の後を追った。


「待ってよ!」


 花乃が叫ぶ声に反応するそぶりも見せず、先生はかけ続けていった。

奇妙にも、花乃から逃げているはずなのに、先生は一定の距離を保ってかけていく。逃げることが目的ではないようだが、花乃には先生の意図が分かっていた。


 いや、先生のではなく彼女の意図になるのだろう。

階段を上り、そこは屋上に向かっていた。いつもは施錠されている扉が開いている。

 扉からあふれている光に飛び込むように屋上に飛び出した。


 べっこう色が薄く引き伸ばされた空に、滑るように飛行機雲が走っている。

二色のコントラストが空を構成していて、花乃の見ている視界全てに覆っていた。

 永遠と見まごうような広大さの下で、屋上の空間がぽつんと残されている。


 その中央に先生が……いや彼女が立っていた。


「もうずいぶん前になることよね。私があなたの体の所有を奪った時があったわ」

「そういうときもあったね」

「ロッカーの中にいるときにね、この先生がよく前を通りかかっていて、その時に確信があった。この人なら同じように体の所有を奪える」

「それで試してみたの?」

「そう。私の予想を超えてそれはとてもうまくいくことができた。ただタイミングが悪くて、ちょうどあなたが戻ってきた」


 屋上で対峙する二人は、一定の距離を保ちつつ向かい合っていた。彼女は先生の手を嫌悪感を湛えた瞳で見やっていた。


「もうこういうことをしないと思っていたのに、それでもやってしまったのはあなたの本音が聞きたかった」

「そんなことをしなくても、言ってくれればいくらでも話してあげるよ」

「いいえ。あなたが私だと気づいていない状態で、聞きたかった。でも、飾り気のないあなたの本音を聞く方法はこれしか考えられなかった。

 あなたを騙すことになったとしても」


 みるみるうちに彼女の双眸が黒く濁っていく。いくら花乃がそうではないと言ったところで、彼女は花乃を信じることができなかったのだろう。

 だがそれで得られたものは、彼女の望むものではなかったのだ。


「不安だったんだね」


 花乃はそう呟くと彼女に近づいていく。


「それは私が不安にさせてしまっていたのだと思う」

「そんなことないわ」

「いいえ。違うの」


 彼女は動かない。花乃は一歩一歩近づいていく。目の前に彼女がいる。花乃はゆっくりと首を横に振った。


「ごめんね。私が不安にさせてしまったのよ。

あなたがすぐそばにいることが当然だと思っていたから、

それであなたが何を悩んでいるのかが見えていなかった。そして独りよがりの考えで、あなたを遠くに置いてしまっていた。

 本当はあなたに向き合うべきだったのに」


 先生の体だが、双眸は彼女の感情がありありと満ちている。それに近づくように、花乃は彼女の頬に触れた。しっとりとして柔らかく、触れると沈み込んでしまいそうな頬。


 彼女もそっと目を閉じて、花乃の手に感覚をゆだねていた。


「あなたは見た目に反して向こう見ずで、思いついたことをすぐに実行しようとする。自分が決めたことは曲げないし、ちょっと子供っぽいところがある」

「うん。知っているよ」

「あなたのそういうところを知るたびに、自分が許せなくなってきた。私という存在と出会わなければ、あなたはあなたらしく生きていけたのかもしれない。それを私が壊してしまった。

 時間がたつほどに、あなたの中に私が染み込んでいく。私の存在があなたの自由を束縛するようになった」

「それは」

「あなたは違うと言うかもしれない。でも私がいるからあなたは元のあなたのように生きていけなくなったのではないか?」


 彼女の体ではない、先生の体が彼女の感情によって塗りつぶされていく。滲んでいく彼女の瞳をじっと見て、花乃はゆっくりとつぶやいた。


「だから私から遠ざかろうとしていたの? あなたらしいというか、難しいことを考えるね」

「でも駄目だったわ。あなたの本音を聞いたからだけではなくて、元から駄目だった」

「どういうこと? いや、ちょっと待って……」


 彼女と見つめあってしばし佇む。ふと降り注いだように一つの答えが花乃の前に現れた。


「あなたは、私と一緒に居たいということ? 遠ざかるのはあなたも嫌だったの?」

「それは……」


 言葉に詰まり、彼女は行き場をなくしたように目線を泳がせていた。花乃に見透かされたことの困惑や、気恥ずかしさで顔が赤く染まっていく。先生には申し訳ないが、花乃はこの瞬間を、彼女の感情を目にすることができたことに喜びに打ちひしがれていた。

 やがて彼女が観念する様に、ため息とともにゆっくりと語りだす。


「そうよ……」

「そうなんだ……」


 彼女の言葉をかみしめながら、花乃は目を閉じた。よかった。ただそれだけでよかったのだ。


「私もそう。あなたと一緒に居たい。

 でもそれだけじゃなくて、あなたといつまでも対等でありたい。あなたが傍にいると嬉しく思うし、あなたのために何かしたいと思っている。

 あなたと出会わなかったらこう思わなかった。でも出会うのが私とあなただったのよ。こうなること以外のことなんて考えられない」

「あなたは……私の苦労も知らないで……。いや勝手に苦労だと思っていたのは私だったから」

「これからもずっとそばにいてくれるよね」


 彼女からの言葉はなかった。代わりに花乃のペンダントがまばゆく輝く。花乃が抱いている喜びと同じ輝きだった。花乃はペンダントを首からかける。

 あるべき場所に収まったような安心感が、花乃と彼女を優しく包んでいた。彼女も同じ気持ちに違いない。言葉では交わらない確信が、二人の間で硬く結ばれていた。


 光が収まると、そこには花乃と先生が立っていた。先生は、教師という立場を忘れて目を丸くしていた。


「あれ? 私はどうしてここにいるのですか? それに花乃さんもどうしてここに?」

「いや、えっと……」

「とにかく、用がないのに屋上に上がってはいけません。戻りますよ」


 室内へと戻る先生の背中を一瞥すると、花乃は自分のペンダントを持ち上げる。そのペンダントを口元へ寄せると、内緒話をするように囁いた。


「ぬいぐるみは作り続けようと思う」

「どうして?」

「今日のことの記念日。あなたと本当の意味で友達になれた日だから」

「……」


 彼女は何も言わなかった。けれど、もし彼女が花乃と同じ気持ちであるに違いなかった。頬に手を当てると、その熱が体から手へ伝わってくる。


「帰りましょう」

「そうね」


 彼女の声が聞こえてくる。いつもの彼女のような声。明日もこのまま彼女と自分が共にある。

 彼女と花乃は違う。けれど共に生きていくことができる。

それは誰も知らない困難がまだ存在しているに違いない。


 だけどそれでも乗り越えて生きていける。

花乃はそう確信していた。

 地平線には太陽が沈みつつある。薄い紅色に、深い藍色が滲みだしている。色が混ざり、薄い青色の境界を流星が横切っていた。

















 


 




















 




 























 

















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