我々は侵略されてる

/´ω`У´ω`\つっくばサーン♪

月を観る


 図書室に足を踏み入れると、冷たい空気に抱きしめられる。玉城観月は肩をすくめた。眼鏡越しの薄い灰色の目を開き、じっと周囲を見渡す。


 時間は放課後になっている。

 薄い闇の中に無数の本が収められている。形鳴き視線が、観月を見つめ返していた。沈黙の音がひしひしと空気を伝わっていく。人を拒む声なき声が、図書室の中から響いてきた。


 学生鞄の重さが少しだけ肩に食い込んでいく。それを持ち直して、観月は図書室の中へと進んでいった。


 激しい暑さだった夏の余韻は、どこを探しても見当たらない。代わりに足元に漂う肌寒い空気が徐々に広がりを始めている。

 窓の外にちらついている紅葉の色が、光に透かされて図書室の床を紅色に染めている。対照的に暗闇色の影が本棚に寄り添っていると、削り取られた空間のいびつさが、見知らぬ場所に迷い込んだような空気を醸成させていく。


 図書室には自習用の長机に椅子がいくつか並べられている。無論誰もいない。人がいたことを見たことがない。観月は椅子に座った。長机を独占すると、これから流れる自分だけの時間が見えてくる。


 閑散とした図書室の空気は、季節が巡っても変わらないままで迎えてくれる。

その光景に彼女の軽く息をなでおろす。


 人がいない図書室。

 その中の一つになった時に、自身が望むべき形になったと実感した。枠にはまった感覚に彼女はふっと目を薄める。


 その感覚がいつもよりも愛おしく思えてくる。毎日行っていること。なのに彼女は、今日もそれを求めていた。


 昨日も今日も、その安らぎを求めている。

それは理由の見つからない違和感を最近常に感じているから……。


 最近学校にいると、誰かに見られているような視線を受けている。その視線の主は分からない。個人のものであるかとか、集団の者であるかとか、何も分かっていない。


 けれど曖昧な視線なのに確実にそれは、観月に向けられている。

 はっきりと感じるのに、その視線はまるで不透明で、どこから向けられているのかがおぼろげであった。

 探そうとするとどこかに遠ざかってしまい、気にしないようにすると、またどこからか向けられ始める。


 それに込められている感情が何か読み取れず、その視線自体にはどのような意味があるのかも不明だった。


 けれど何かしらの意図を持った視線であるようだ。だから無視することができなかった。しかし分からないものは分からない。絡み合う知恵の輪のように、観月はもどかしく、くすぐったい思いを受け続けていた。


 それを受けている間は、気が休まることはなく苛立ちだけが募っていく。 


 唯一の救いは、それに悪意があるものではないということ。それと放課後になると、この図書室にまでは届くことはないということ。だからこの時間と空間だけは、観月の心休まる時間だった。


 とはいえあまり楽観的には慣れない。いつのまにか安らぎの時間と場所は、ここだけになっているということでもある。

 そういう事実も自分のみじめさが強調されて疎ましい。だってすでに自分は侵略されているということになるから。


 侵略されているのである。不特定多数の視線よりも何よりもまず、観月にはそれが重要だった。視線によるものではない。もっと確実な何かに、観月は侵略されている。


 あいつの顔を思い出すと、黒い感情が胸を這い回っていく。そもそもなぜこういうことになっているのだろう。全てはあいつがいるからだ。


 観月は首を振る。あいつのことを考えて、それに気を取られているわけにはいかない。自分にはここで行わなければならないことがある。自分にしか行えないことで、行わなければいけないこと。


 学生鞄からノートPCを取り出して、電源を付ける。ポケットから取り出したスマホを近くに立たせた。カメラで撮影した写真を並べていく。


 日付ごとに管理されている写真には、全て同じ女性が映っている。ある写真は観月の家の玄関内で撮影されたものであった。


 写真には一人の少女が映されていた。玄関前でカメラに目を向けている。学生服に身を包み、姿勢よく直立している姿は、工夫のない淡白さを際立たせていた。


 年ごろの少女には考えられない、落ち着いた表情をしている。あどけなさが残る体躯とその顔つきがややアンバランスで、崩れてしまいそうな不安感を抱かせる。


 軽く横に走らせた薄い唇と、それよりも薄い肌は、生命を閉じ込めているとは思えない。できそこないのマリオネットのような雰囲気が、写真越しからでも漂ってくる。


 眠たそうな双眸もそれに拍車をかけていた。不透明なまなざしは何事も遠ざけており、不気味な彩に拍車をかけていく。


 観月にとっては見知った顔であり、馴染みの顔でもある。撮影した場所も彼女の自宅であり、被写体も彼女の知る者だった。


 そして写真に写っている少女は、観月と同じ姿形をしている。似ているというものではなく、似すぎている。

 彼女そのものといっても間違いない。けれど観月ではない。


 その姿を見て、自然と観月の目に力がこもっていた。視線の意味は観月にしか分からない。


 別の写真には学校の食堂で食事をしている少女が映っている。先ほどの少女と同じ人物だった。撮影したのも観月である。


 食事をしている少女は、朝に観た時と代わり映えしない表情だった。カメラ越しで観月を見る少女の視線からは、書きかけの肖像画のような淡白な色合いが溢れている。


 まるで人が持っているものではない。そして人が持っている物を持っていない。そういう印象は間違いではないだろう。


 それ以外の写真も全てその少女が映されている。撮影を行ったのは全て観月である。一部の写真は少女に気付かれない様に撮影されている。


 ノートPCのエディタを起動させた。テキストファイルには「観察日記.txt」とだけ書かれている。そのテキストファイルの中に書かれている内容も、観月しか把握していない。


 観月が図書室を選ぶ理由は二つある。一つは単純にこの場所が気に入っているということ。人気がなく煩わしい俗世から切り離されて、開放感に浸れる。


 もう一つの理由はここで行っていることを、誰にも見られなくて済むということだ。彼女は観察日記に向かった。


 スマホを手で操り、別の写真をスライドさせる。そこには学校の廊下に立ち窓の外に目を見やる少女の姿が映されていた。別の写真には学校の中庭で、木の幹に手を当てている少女の姿が映されている。


 別の写真には枯れてしまった頭が垂れた向日葵を、下から見上げている少女の姿が映されている。


 その次も、その次の写真も、場所は状況は違うが同じ少女が撮影されている。

それ以外の人物は写真の中に映されていない。その目的は観月だけが知っていることだ。


 観月はスマホを操る手を止めて、ノートPCに向かう。

 観察日記に今日日付の章立てを作り、傍に置いてある写真を見て、彼女は一日を思い返す。写真に写る彼女を見て、彼女のことを書き記していく。


「勇海……」


 写真に写る少女に向かって、ぽつりと呟く。

 玉城勇海というのが、少女の名前である。背丈は顔つきも、身にまとう雰囲気も観月の瓜二つであった。その重なり具合は奇蹟的な一致を見せているため、よく驚かれる。


「双子だからそのとおりでしょ?」


 そのたびに観月は周囲にそういう説明を行っていた。ただ観月については黒淵の眼鏡をかけているため、見分けは用意である。


 機能的な意味でしか眼鏡をかけていないが、それが別の意味で役立つことは幸いであった。同時に勇海との違いができたことも、喜ばしいことであった。


 けれども根本的なところで、響きあうものがあるのだろう。二人は周囲から双子として見られている。双子としても似すぎていると言われるほどだ。


 当然だ。似すぎているのは双子だからではない。


 玉城勇海、自分の双子の妹。


 双子ではあるが、勇海がこの学校に現れたのは観月よりも後のことである。体が弱く体調を崩しがちであったが、何とか登校できるようには回復し、遅れてこの学校に編入した。


 そういうことにしている。


 後から勇海が現れたことに対して、そのような説明を観月と勇海は行っていた。この説明があっさりと周囲に受け入れられたのも、勇海であるからということのようだ。


 双子だからではない。勇海であるから、あっさりと周囲に受け入れられることができた。


 そのことについて、勇海は観月にこう説明していた。


「周囲の認識を操作するということは、万能ではない。そう思い込ませるだけの理屈といったものが必要になる。

 今回の例でいうなら、私と姉さんの姿が似ているのも双子だからという理屈で説明できるから、周囲に受け入れることができた。

 そういった文化と現象が備わっているこの世界に来られたことが、私の幸運である」


 勇海はそのように口にしていた。原理は理解できないが、勇海は観月の双子の妹であると、周囲の人間に思い込ませているという理解が得られれば十分だった。


 人間社会という環境は勇海にとっては幸運であったかもしれないが、観月に対しては不運である。


 勇海は妹として観月の日常に侵入し、妹として彼女の学園生活に侵入していた。その出現に波紋が広がるように、観月にも様々な出来事が降りかかってきた。様々な人との出会いが重なり合った。

 

 鉱物型生命体のこと、無意識共有空間のこと、自衛反応による連結時間ねじれのこと。学校の無限地下迷宮でさまよったこともある。ネットワーク内に紛れ込んだ電子生命の教育を行ったこともあった。


 今でも理解できないことばかりだ。思い出したくもない事ばかりでもある。

 それら一つ一つに苦心されていたものである。状況や、その結果も異なることばかりだけれど、原因は分かっている。

 

 パソコンの傍に置いてある勇海の写真を一瞥して、観月は鈍い色の溜息を吐いた。とはいえ、それらも全て記憶の中にあるものとなっている。


 それらの非現実的な出来事の事態を収束させて、気が付けば秋になっていた。時間が経過したということだ。


 それは観月との同じ時間を共有することが長くなったということだ。時間が重なるにつれて、傍に彼女がいることに、疑問を持たなくなっていた。


 慣れてしまっている自分が鏡に映っている。彼女を受け入れつつある自分が居る。

 果たしてこのままでいいのだろうか? 観月は勇海をみた。すぐに横を見たら勇海がすぐ隣にいる。その光景が昨日もあり、明日も続いていく。

 

 勇海は彼女の日常の中に現れていくのだろう。疑問を持つことはなく、それが続いていることを自分が知っている。知ってしまっていた。

 その瞬間に、勇海へのとてつもない怒りが自分を通り過ぎたのだ。


 だからその彼女について、観月は観察日記をつけている。

彼女、玉城勇海、いや彼女という宇宙人を知らなければいけない。既に彼女に侵略されているのだから。



 学校の裏はうっそうとした森林が広がっている。その中には湖が人知れず姿を保っていた。


 人による整備などは一切行われておらず、危険であるため立ち入りは禁止されている。けれども溺れるくらいの規模でもなく、観月はたびたび無断でその場所に踏み入れていた。


 春先のときであった。湖のほとりで立っていた観月は、空から光が降り注ぐのを見た。

 純白の光は螺旋の軌道を描き、湖に吸い込まれていった。無限とも思えるほどの光は湖面から溢れていき、迸る流れとなって傍にいた観月を飲み込んでいった。


 幻のように跡形もなく消えていった光であるが、そこに観月と姿を同じにさせた何かが立っていた。


 光の主であり、この空の頭上から現れたそれは、自分をこの星の外から来た生命だと説明した。分かりやすく言うなら、宇宙人というのだろう。

 ただ想像していた宇宙人とは程遠く、観月のような体を持っているわけではない。そのような個人や自分という概念のない生き物であるらしい。

 

 その説明によると、その生命体の姿形は不定であり、周囲に観られてこそその姿を固めることができるという。つまり観月と相対したことで、その生命体は新たな認識と体を得たということのようだ。


 また、体を持っていないというのが理由であるのかは分からないが、それは周囲の認識に影響を与えることができる。そしてそれらにとって都合のいいように塗り替えることができるらしい。


 そういう宇宙的な能力を持っているようだ。

他者に自分を与えられる存在。


 その説明を聞いた時、観月は何とも言えない気持ちになった。口を通して外にしようとすると、もどかしさに胸が痛くなる。


 けれどそれには、私が必要なのだろうということだけが分かった。

だから自然にその定義を与えるために、観月はそれに勇海という名前を付けた。


 その時から勇海は、観月の双子の妹となった。


 それから勇海は観月の近くに寄り添っていた。物理的な距離だけではなく、精神的な距離についても。


 億劫だと思ったことはすでに数えきれないが、身近に近い存在がいることがなく、勇海にどう接するべきなのかはまだ決められない。


 決められないから今は傍に置いている。勇海のことを観月は何も知らない。知ろうとしていないといった方が正しいのだろう。


 それは勇海に対する態度ではない。観月は誰にでもそうする。学生という社会の中で群れるのに抵抗があるわけではない。だがその群れの中に入り込むのには抵抗がある。


 理由とか、言葉で表すことのできない。自分という本質での問題。そういうようにできているからとしか、説明できなかった。だから邪魔にならない場所で、誰にも見つからない場所で、ひっそりと生きていた。

 

 勇海の存在が彼女の態度に少しずつ変化を与えているのは、彼女の前にある観察日記という形に象徴されている。


 勇海について彼女は観察日記を書き記している。毎日勇海が何を行ったのか、どこに行っているのか。それを観月気づかれない様には逐次観察し、状況によってはスマホのカメラで写真を撮っている。

 

 その時の記録を、毎日この場所で、この観察日記に書き連ねていた。観察しようと決意してから、毎日欠かすことはしていない。そして観察日記については、秘密にしている。

 

 図書室であるから誰かに見られる可能性はあるが、それでもここが一番最適であった。家などで行うと勇海に見られるから。寧ろ家で作業することが、一番危険なのである。


 誰よりも勇海には知られてはいけない。眼鏡の奥の双眸をすっと細めた。


 写真の向こうにいる自分のような別存在に目を向けると、胸の奥が握りしめられて体の自由が効かなくなる。


 それは危機感に間違いない。


 自分は知らない間に、勇海に侵略されている。いつの間にか彼女が隣にいることに疑問に思わなくなっていた。

 彼女と同じ姿をしている彼女であるから、彼女の本質が勇海にも流れ知られてしまうのではないか?


 その恐れもある。それだけではない。勇海は今妹として生きているが、その正体は地球外生命体である。宇宙人というやつだ。


 いつその本性を現して、私達の生活を脅かすかは分からない。彼女自身からその意志を聞いたわけではないが、彼女の本性を知っているというわけではない。


 宇宙人だと知っている数少ない人間は観月だけであり、警戒しているのも観月だけであるのだ。自分だけしかできないことなのである。なら自分が勇海の本性を暴かなければならない。


 この観察日記は自分にしかできないことだ。だからやらなければいけないのだ。



 勇海のことを遠ざけたいがゆえに、彼女のことを知ろうとしているのは皮肉なことなのだろう。

 ディスプレイに羅列されている文字の流れに浮き彫りにされて、観月から通した勇海が現されている。

 

 勇海という個の性質なのか、宇宙人としての性質なのかは定かではないが、勇海は気持ち悪いほどに規則的に動いている。


 朝は六時半に必ず起きる。観月と同じベッドで眠っていた勇海は、観月が起きるよりも前に、彼女を見つめている。三十分後には身支度を終えて、服装を整え玄関の前に立つ。姿勢のブレ具合も、服装のブレ具合もなく、昨日と変わらない表情を今日も向けていた。


 駅を通る改札の位置も右から二番目で、電車に乗る時間も揺らがない。不思議なことに、勇海が訪れてからまるで監視されているかのように毎朝の電車が遅れることはなかった。


 電車に乗る扉も決まっている。掴むつり革が同じなのも言うまでもないだろう。

学校に向かう道のりも変わらない。勇海の足取りは信じられないほどに同じ場所を歩き続けている。

 

 学校での立ち振る舞いも彼女は揺らぐことはない。昼に観月の隣で、彼女が用意したお弁当を食べることも変わらない。弁当を食べ終わる時間まで寸分の狂いもなく、進行するのだ。 


 そして放課後になると、校門の近くのベンチで、観月を待っている。水が高いところから低いところに落ちるように決められたことで、座る場所も既に決まっている。


 家に帰ると、夕食の支度を観月が行っている間、観葉植物に水を与え、写真を撮る。

 観月が飼っている猫にえさを与える。選ぶエサも全て同じメーカーのものだ。与えるえさの量も一緒で、えさを与えた後に、猫のあごの裏をなぞるのもお決まりとなっている。


 二十時には夕食を共に食べて、後片付けを二人で行う。

 二十二時には観月と共に風呂に入り、二十三時には観月と同じベッドで眠りにつく。


 そしてまた同じ時間に目覚める。彼女の固定化された行動は、生物という柔軟さとは程遠い。精巧さが、逆に不自然な違和感を与え続けている。


 けれども、それが勇海の在り方であると観月は思っていた。彼女がそうであるのなら、それを疑問に思うのはやめよう。


 疑問に思われることの理不尽さについては、観月自身が一番知っていることであるからだ。


 勇海の今日の姿も、観月が書き続けているものに、書かれていることと同じである。今までもそしてこれからも、観月が知る勇海は、彼女の目の前に現れている。


 ふと、手が止まった。なぜ自分はこれを書き続けていたのだろうか? 勇海のことを知るためだと思っている。けれども、以前から彼女のことを見てきたはずだった。


 宇宙人という彼女の不透明さに光を当てるため、続けてきたこの行為により彼女のことを知ることができた。それと同時に自分の中の不透明な感覚が、そっと忍び寄ってくる。


 それは誰から与えられたものなのだろうか? 観月にはどのような答えも思いつくことはなかった。パソコンに触れる手は出口のない迷路を彷徨うように、揺れ動くだけだった。 


「観月ちゃんここにいたのですか。探しました」


 誰かに呼ばれている。ふと顔を見上げると、図書室の入り口付近から近寄ってくる一人の女性が、目に留まった。


 セーラー服を翻しながら少女が観月を見つめ、そして近づいている。


 煌々と輝いている双眸に、吸い込まれるのではないかと想うほどの錯覚を受ける。染めあがった紅の唇や、白く透き通った頬にほのかに宿る頬紅。

 

 非の打ちどころのない顔つきから視線を落とすと、すらりとした手脚が自然と目立っている。彼女が見せつけることなくとも、身体つきは女性としての魅力を凝縮している。


 人形のような計算されつくした精巧さに、果実のような甘酸っぱい魅力が奇跡的に調和している。観月と同じセーラー服に身を包んでいても、はちきれるほどにあふれていた。


 流れるような足取りと仕草に従って、重力に従っていた彼女の黒髪は、その動きをなぞっていた。コマ送りのように映る彼女の姿に、分かっていても目を離すことができない。


 彼女の美貌さに照らされると自然と目が細くなってしまう。見知った姿であるがゆえに、本物だと言い切れるものだ。

 眼鏡の位置を直して、観月はノートPCを閉じた。対照的に、女性はふんわりと笑うと、観月の反対側に座った。


「花乃さんは探していたと、言っていたけれど?」


 先に口火を切ったのは観月である。彼女に用件があるのは伺えたので、手早く終わらせておきたかった。伏せられたノートPCに視線を投じるが、目の前の少女はそれに気づいていない。


「うん。そうなの」


 にへらと花乃は笑う。


 そういった能天気な彼女であることが、観月が彼女を敬遠している理由でもある。遠回しな観月の言い方でも、彼女は言いたいことをくみ取れたようだ。


 頬を赤らめ両手を組み合わせながら、しどろもどろに話し始める。


「勇海ちゃん見ていないかなって思って」

「勇海のこと? いえ……今はどこにいるのかは知らないわ」

「そうなんだ……ちょっと残念です」


 花乃から勇海のことが飛び出してきたことについては、

納得と驚きが観月へと入り乱れてくることになった。

 花乃と観月の接点は勇海でしかない。それは花乃が勇海の正体を知っている数少ない人物であるということでもある。


 だけど花乃は、観月側ではない。人間ではあるがどちらかというと勇海への理解を深めている。その辺りの事情については、観月は思い出したくもなかった。


「ごめんなさい。この時間の勇海については、私は知らないの。いつも一人でここにいるから……」

「そうなのですね。勇海ちゃんはどこにいるのでしょう。観月ちゃんも探すのに苦労しました。けれど観月ちゃんならなんとなくここにいるのかなと思って……」

「花乃さんはよくここが分かったね」


 花乃は意味もなく笑う。文字通り咲いたように笑う彼女は、その美貌さも相まって光の中心にあるかのようだった。自分とは何一つ重ならない。だから彼女とは距離を置きたかった。


 屈託のない笑顔が、羨ましくなる。目の前にいるのに、とても遠い。彼女と自分は違う。彼女が悪くないのに、彼女のことを疎ましく思ってしまう自分がいる。


 観月と花乃は対極に位置している二人なのである。


「ところで、勇海を探しているの?」

「はい」

「どうして、勇海を探しているの?」

「勇海ちゃんに渡そうと思っているのです」

「そう……それなら私が預かっておいて、私から渡すというのでもいいけれど」

「いい案なのですが、すぐにでも彼女に直接渡したいのです。彼女もそれを望んでいると思っていますから」


 なんだか含みのある言い方だった。


「望んでいるね……」


 確かに観月から渡すという選択では、勇海の手に渡るのは放課後の時間になる。急いでいるのなら花乃が直接手渡した方が懸命だろう。


 しかし、急いでいるというのは誰が? 

そもそも何を渡そうとしているのだろう? いや、そもそも勇海が花乃に頼むということが、彼女の想像の域を超えていた。


 次から次へと疑問が沸き上がってくる。

 彼女の知らない勇海の姿が、花乃の後ろにおぼろげながら浮かび上がっている。

そしてそれは観月へとささやいていた。


「それって何?」

「うーん」


 花乃は似つかわしくない難しい顔をする。言葉を探していた花乃だが、それを諦めた様子ではにかんだ顔を作る。


「心苦しいのだけれど、観月ちゃんには教えないほうがいいのかと思います。ごめんなさい」

「いえ、いいの」 

「でもいずれ分かりますから」

 

 勇海が何を求めていたのかは気になる。けれどそれよりも勇海の知らなかった側面が掘り出された。その事実に自分の浅はかさが浮き彫りになる。


 思えばこの場所で勇海について書き記していたのは、勇海を知るためである。けれども、この時間だけは勇海のことを見たことはない。空白の時間となっていた認識が呼び声となって、観月に囁いていた。


「勇海ちゃんの場所をご存じないのでしたら……私はお邪魔にならないうちにここを離れます」

「待って花乃さん。私も一緒に探しに行く」


 言うと同時に、観月は広げてていたノートPCを鞄にしまう。図書室の入り口には、荷物保管用の自由に使えるロッカーがある。そこに押し込んでしまえば、身軽になる。


 花乃は複雑な表情をしていた。驚きと納得が入り乱れたようなものである。彼女がこのような顔を作れるほどの器用さがあるのかと、観月を驚かせたほどだ。


 けれどもなぜそんな顔をするのかは、皆目見当がつかない。


 今は勇海を探すことを優先すべきだろう。そのままの表情を張り付かせている花乃を半ば置き去りにして、観月は図書室を飛び出していった。



 入り口前のロッカーに鞄を詰めて、扉を閉める。無機質な音に観月は見つめられる。飛び出していったのは衝動的であったのは理解している。

 花乃から預かっているものを無理にでも見せてもらうだけでも、いいのではないか? けれどそれは憚られた。


 衝動的な動作に理由をつけるとするなら、それは公平ではないということだ。

勇海の知らないところで、勇海の側面に振れるのが……。けれどそれは勇海をどのように見ているのだろうという疑問にもつながる。


 勇海は人間ではなくて、今は観月の妹として生活している。けれど観月からすれば水月のような関係だ。姉と妹という関係に、自身は何を見つめているのだろう。


「観月ちゃん」

 

 パタパタと跳ねるような足取りで、花乃がついてくる。根拠のない自信に満ちた表情を輝かせて、胸を張っている。


「私もついてきますよ」

「別にいいよ。私が探そうと思っているだけだから、ついてこなくてもいいの。見つけたら連絡はするから安心して」

「いいえ。観月ちゃんと一緒に行きます。観月ちゃんとなら、勇海ちゃんに会えそうな気がしますから」

「何それ」

「そんな自信がするのです。観月ちゃんなら勇海ちゃんを見つけられるって」


 より強く胸を張る。

 この場で言い争っているのも、時間の無駄になりそうなので、

観月は黙って歩き出した。後ろからパタパタとした足音が流れてくる。追いついていた影が、彼女の影を追い越す。


 隣にはすでに花乃が歩いていた。二人の絡み合う雰囲気が、微妙な沈黙を作り出していた。それを嫌うとでもいうように髪の毛をいじりながら、花乃が会話を始める。


「観月ちゃんはいつも放課後になると、あの場所にいるのですか?」

「最近はね」

「結構静かでしたね。観月ちゃんが好むのも分かります。だから今勇海ちゃんを探しに行くというのを話した時、ちょっとだけ驚いちゃいました」

「私自身も驚いている。けれど、これは必要なことだから」

「必要なことですか?」


 花乃が覗き込んでくる。まっすぐな視線を湛える双眸は透明な湖のようで、

足元から伸びる自分の影が黒く、深く際立っていた。


「どうして驚くの?」

「いえ。驚かせるつもりはなかったのですけれど、前までの観月ちゃんならそういうことは言わないでしょう?」

「そうね……」


 自分の影を眺めながら肯定する。昔の自分なら、他人に興味はなかった。どうでもいいことは放棄していたのかもしれない。


「そう肯定するのも、以前の観月ちゃんなら考えられないことですよ」


 花乃は柔和な笑みを作る。一瞥した後に、黙って歩き続けた。

花乃は観月の隣に、ずっと寄り添うように歩き続けた。

 こういう彼女だから、観月は距離を置きたくなってしまう。彼女のことを悪い人だとはみなしていないが……、知らない自分を知ってしまうのが億劫だった。


「ところで観月ちゃんは、勇海ちゃんがいる場所に心当たりがあるのですか?」

「いや、別に」


 目を丸くしている花乃を横目に、観月は階段を降りる。降りきった時に、花乃を見上げて言い放つ。


「だけど想像はある程度できているわ。勇海は器用じゃないから」

「器用じゃない?」


 疑問を浮かべる花乃の表情を跳ね返すような、自信に満ちた表情を観月は見せつけた。


「そう。勇海は今から一時間後には私を校庭で待っている。それはあいつの中で決まっていることだから、校内にいることは確かだと思う」

「おー。そういう考えは観月ちゃんだからできるのですね」

「あと、花乃さんはどこを探したの?」

「え?」

「勇海は器用じゃないと言ったでしょ? 私が最後に観たのは教室にいたときのことで、そこからずっとどこか一つの場所を拠点に行動していると思う。放課後の時間で、いろんなところに行くほど、勇海は足が軽くないの」

「つまり私が探していない場所に、勇海ちゃんがいる可能性が高いということ?」

「そう」

「やっぱり花乃ちゃんのところに相談に来て、正解でした」

「そういうのはいいから、早くどこを探したか教えて」


 花乃はいたずらに笑う。その後、宙を見上げながら自分の行動を遡った。語り終わるのを、観月は待っていたがすぐに後悔に変わった。


 しばらくして、花乃は語り終わった。


「ということなの」

「えっと、花乃さんは体育館と音楽室と、視聴覚室、理科室、生徒会室、資料室、美術室、職員室、プール、講堂、食堂、飼育小屋は探していたということ?」


 およそ十分は語り続けていた。


「美術室を初めて探したのですけれど、だけどそこにはいなかったのでそれからはしらみつぶしですね」

「意外と多くの場所探しているのね。その行動力はよく分からないわ」

「好奇心には自信があるのです」

「そう。まぁそれで探していない場所は、逆に絞るということができるから」


 だがそこまで探しても勇海を見つけられなかったというのは、彼女が観月たちの盲点の中にいるということだろう。

 同時になぜ自分が気を使っているのかは疑問になる。花乃は廊下の窓を開く。窓の向こうからは、外で歌っている合唱部の歌声がわずかに風に乗っている。その音を浴びて目を閉じている彼女の姿が目の前にある。


「それでどこに向かいますか?」

「そうね……」


 勇海のことを考える。これまで彼女を見てきたのは自分だ。朝から晩まで彼女のことを見ている。自分以外に彼女を見ていた人はいない。

 彼女のことを知っているのは自分以外に存在しないはずだ。


 彼女は何をしていたのだろう? 何を見ていただろうか?


 何か自分に響いている。かろうじて音になっているそれは徐々に膨らんで、近づいてくる。音は重なりあって、声になる。その声は自分の声音に似ていた。

 彼女を探せるのは自分だけだという自信が胸の底に根付いている。それがそっと語り掛けてくる。自分が見てきた経験によって、芽吹いていたものだ。


「あとはあそこぐらいかな? 行ってみましょう」

「どこですか?」

「ついてきて」


 返答を聞く前に、観月は歩き出した。



 昇降口から外に出ると、迷うことなく歩き続ける。向かうべき場所はすでに決まっていた。

 夕方の陽光が光と影の境目を縁取ると、普段とは違う校舎が姿を見せている。この空間で、観月の知らない勇海がいるということが、現実味を帯びてくる。


 何をしているのかは分からない。分からないからこそ、確かめに行く。

人間じゃない勇海のことを知る。それはどのような理由なのだろう。毎日続けてきたことなのに、理由を探すことができない。

 きっと自分の中には答えはない。勇海に会わなければ見つかることがない。だから確かめに行くのだろう。


「観月ちゃん。待って」


 後ろから花乃が近づいてきていた。ほとんど彼女を無視していることについて、義憤を見せているようではなかった。けど好奇心を湛えた視線は疎ましい気持ちが強くなる。


「勇海さんの居る場所が分かったのですか?」

「うん。自信はないけれど」

「けれど心当たりがあるということだけでも、すごいと思います。私はしらみつぶしに探すということしかできなかったのに。やっぱり妹さんのことだからですか?」

「あいつは妹じゃないから」

「それはそうかもしれないですけれど」

「そうなの」


 その言葉を突き刺すように言い放つ。そのまま歩きを止めない。花乃は姿も非の打ちどころのない美麗さを放っているが、それに比類するように分け隔てない清廉な性格も持ち備えている。

 そういうところが、観月の苦手に思うところでもある。その彼女に、勇海と自分のことを口にされるのは気持ち悪い。

 観月のそう言った視線には気づいていないようで、花乃は語りだす。


「それでも意外ということは変わっていません。観月さんが、勇海さんを探すのを手伝ってくれることについて」

「そう? そうね。自分でもどうしてかなんて、説明できない」

 

 自分の手を見る。自分はいつだって自分の一部しか見ることができない。

分かっているようで、分かっていない。自分が一番近くて遠い存在なのだろう。

 なぜそういうことを想ってしまったのだろう?

それはまるで、勇海のように他者の認識が必要な存在だと言われているみたいだった。

 隣で花乃が頷いている。


「はい。観月さんが勇海さんを妹ではない、別のように見ているのは分かっています。それでも彼女のことに興味があるというのは、決してマイナスではないのではないでしょうか?」

「そうね」


 花乃の言葉は、勇海と観月の知られざる関係を知っているから告げたのだろう。けれどその言葉の受け止め方は、自分に変化があるからだ。以前の、勇海に出会う前の自分なら、花乃と会話をして別れただろう。


 変わっている。けれどそう変わることになったきっかけが、観月ではない彼女にある。

 何とも言えない気持ちになった。観月が変わりつつあることを、花乃が自覚できるほど、顕著なものなのだろう。

 これを受け止めていいのかどうか、自分のことであるのに自分では分からなかった。

 けれど……。


「だけど勇海に興味があるわけではないから」

「そうなのですか?」

「そうなの」

「だけど……」 


 指を頬に当てて、勘繰るような視線を向けてくるが、観月はほぼ無視して歩き続けた。

 校舎の裏を回り校庭の傍を通る。校庭での運動部たちはすでに練習を終わりにさせており、影の中から静寂が訪れようとしていた。

 

 校庭を通り過ぎる。水場を抜けて校舎手入れされた鉢植えの列が

丁寧に整列されている。確か園芸部が手入れを行っていたもののはずだ。

 

 今も園芸部がその前で固まっている。すると一人のおかっぱ頭の女の子が観月を見て、驚いた口を手で押さえた。

 分かりやすい表情をする女の子だな。その視線の先には探していた者が、こちらに背を向けている。


 その背中に向けて、観月は話を始めた。


「こんなところにいたんだ」

「姉さん?」


 スカートについた土を払って、彼女は振り返る。勇海は観月を見つめた。不透明な双眸には、虚無が漂っているように光を飲み込んでいる。

 夕日を吸って赤胴色のように変わっている髪の毛が、風になぞられると、観月との距離が広がっていった。


 二人の間を走るように校舎の影が伸びていく。影の中に飲み込まれる観月と、光の中で佇む勇海。


 一人で立つ観月に対して、勇海は園芸部の中にいる。距離という物理的なものではなく、二人の間にしか見えないものが存在していた。

 じっと観月を見つめる勇海の視線を振り払い、話し始めた。


「勇海はどう思っているのか私は知っている。

どうして私がここにいるのかを、推測している」

「うん」

「でもそれについては私を見るのではなく、花乃さんを見るべきだと思う」


 そういうと、観月の背後で小さく声が漏れた。花乃は勇海と観月の顔を交互に見やる。


「花乃さんが私を探していたの? そういうことなのね」

「探しましたよ。勇海ちゃん」

「そう。私を探していたんだ……」


 胡乱な目つきの双眸が、わずかに見開かれる。


「あれを探してきてくれたのですか?」

「うん。その通り」

「そう。ありがとうございます。それに頼んでもいないのに、私のところまで持ってきてくれて……いずれこちらから受け取りに行こうと思っていたのですが」

「いいの。気にしないで」

「ありがとう」


 抑揚のない声で勇海は話す。同じ顔なのに、話し方自体で印象が大きく変わる。

この違和感は拭いきれることはないだろう。

 花乃は心からの笑顔を見せた。


「それに今日渡せたのは、ここに勇海ちゃんを探してくれた観月ちゃんのおかげでもあるんだよ」

「姉さんが。だからここにいるのね。私を探していたのですか?」


 勇海の言葉を合図に、この場にいる全員が観月へと視線を投げる。

こそばゆいけれど、分からない。自分だけが取り残されている。何度もこういう場面で感じていた。

 けれど今は向こう側に勇海がいる。自分と同じ顔をしているのに、自分の傍にいたと思ったのに、違う場所にいる。何かが体から染み出していくような感覚が、観月から急速に熱を奪っていく。


「あなたはここで何をしているの?」

「園芸部の活動です」

「そうだろうと思っているわ。部員として活動しているの」

「そう」


 勇海の周囲にいる園芸部の部員がそれを物語っている。勇海の足元に置かれている如雨露や、手にはめ込まれている軍手も園芸部の備品なのか。

 それを気にせず使っているということは、勇海が部員であるということを如実に語っている。


 周りの部員も、観月を迎え入れるように喜色を湛えた表情でうなずいている。

妙な疎外感と、いたたまれなさが観月を包む。


「全く、部活を始めていたのだというのだったら、そう言ってくれればいいのに。

そんなことしていたなんて、夢にも思っていなかった」

「姉さんには、関係ないと思って」


 その言葉には言語以上のものは含まれていない。ありのままの事実を話しているに過ぎない。何も色合いを見せていない彼女の双眸が、観月を無機質に映している。


 観月はその瞳の意味をやっと理解した。観月と勇海は違う。


「そうね。それなら私にはもう関係ないから、もう帰ることにする。そもそも花乃さんが勇海を探していただけで、私は勇海には用事がないから」


 もと来た道を戻る。困ったように観月と勇海を交互に見ている花乃は無視して、歩いていく。けれど振り返り、きつい視線を向けて、はっきりと言った。


「それに前からだけれど、私を姉さんを呼ぶのはやめてと言っているじゃない」


 その言葉を残して、観月はその場から離れていった。今更ながら彼女を探しに行ったことを後悔していた。



 図書館に戻り、自分の荷物を整える。

このまま校舎の外へと出ると、校門へと向かった。


 清々しい空気と空に反して、自分の気持ちは沈んでいく。勇海に告げたことは自分の本心であり、間違っていないと信じていた。だがそう信じることで、自分が勇海に向けている思いのいびつさを、ありのままに触れてしまう。

 

 見ない様に歩き続けても、自分の思いは寄り添いは慣れない。それでも見ないようにして歩き続けるしかない。


 校門が見えてきた。

 いつもなら勇海が待っているはずだが、今日はその通りにはならない。勇海が待つ時間よりも早いから……。


 勇海ならまだいないはずの時間だ。勇海に会わないようにするなら、こうやって勇海の生活リズムから外れてやれば充分である。


 勇海を知っているから、勇海から離れることもできる。

けれどこうするつもりで、勇海を観察していたはずではなかった。


 ではどうして? 立ち止まり目の前の道を見る。校門へ続く緩やかな曲がり角は、どこか知らない景色のように観月を惑わせている。

 なぜいつもここで勇海が待っていて、それで二人で帰るようにしていたのだろう?


 勇海があそこにいるから? 違う。あそこにいる勇海に、自分が歩み寄っていたのだ。


 その時だけではない。いつだって自分が勇海の傍にいた。登校するときも、お昼の時も、下校の時も夜の時も……。

 侵略してくる彼女を拒絶したい気持ちで、彼女を観察している。矛盾した行動の根元には、自分の矛盾した感情がある。


 勇海に出会わなければ知らなかったことだ。彼女が自分を侵略している。知らなかったことが、彼女のせいで見えてくる。彼女がいないことで、自分が取り残された寂しさも知ってしまった。

 

 全部勇海のせいだ。

 だから今日はもう一人で帰りたかった。なのに……。彼女はその場所で座っている。


「勇海」


 勇海はいつも通りだが、いつもとは違うこの時間に観月を待っていた。ベンチに座り、観月の姿をとらえるといつもと同じまなざしで観月を照らしていた。


「どうしてここにいるの?」

「いつも姉さんをここで待っている」

「そういうことを言っているのではなくて、それに姉さんと呼ぶのは……」


 そう言いかけて観月はため息を吐いた。そのまま勇海の隣に座る。

ベンチに座る勇海をずっとここで見ていたが、二人でベンチに座るのは初めてだった。


 二人して空を見上げている。互いに言葉はない。観月も話さない。勇海も目を閉じたまま彼女の隣で座っている。けれどもこの時間を味わうように、安らいだ色を薄く浮かべているようだった。


 観月にはそれが読み取れる。観月だから読み取れるのだろう。その理由を知ってしまったのは、観月だから。

 彼女を観察するためという名目で、彼女の傍にいたつもりだった。

けれど、それよりずっと前から彼女の近くにいた。知らなかったことなど何もなかった。


 ふと佇み、空を見上げる。自分の怒りが沸き上がっている理由はそれなのだろう。自分が放課後に図書室にいた間、勇海は園芸部で部活動をしていた。園芸部の人と一緒に……。


 自分には選択さえなかったことで、人間ではない彼女がそれを行えたことが信じられなかった。自分を同じ顔をしているのに、彼女は自分とは違う。

 そのことに嫉妬してしまっていたのだ。自分の思いに触れてしまうと、それがさらに勇海への嫉妬を加速させてしまう。


 隣を見ると、首を傾けている自分と同じ顔を持った別人がいる。上を見上げると真っ赤に色づいた紅葉がある。陽光を透かして、淡く広がる光に目を細める。


「園芸部の活動を始めたなんて知らなかった」

「始めたくて始めたわけではないけれど。あそこで植物を見ていたら、誘われた」

「そうだと思った。私に知らないところでそんなことしていたのね」

「でも姉さんならいずれ察すると思っていた」

「どうして?」

「姉さんだから」


 姉さんだから。その言葉だけが、自分にむけられている。


「理由になっていないわ。勇海もそういうこというなんてね。

似てきたのじゃない」

「姉さんに?」

「人に」

 

 勇海は、考え込むように足元を見つめる。観月の皮肉を、勇海はかみ砕くように頷いていた。


「何に納得したの?」

「自分の変化を上手く言葉にできなかったのですが、姉さんに言われて枠にはまったように思えます」

「変化?」

「この星に来る前までは、他人と共に行動するなんてこと考えたことはなかった。私に個人を与えてくれる何かというものに、巡り合うことはあり得ないことでしたから」

「そうなんだ」


 勇海が何を話すのかは、読み取れない。けれど何を話すのかは少しだけ気になる。観察ということを気にせず、単純な興味が湧いて出てきた。


「だけど……姉さんが傍にいてくれているから、その変化にも巡り合えたのだと思うようになりました」

「そう」


 観月も変わっている。自分がどのように変わっているかは、上手く形にすることはできない。葛藤をどう受け入れたらいいのかも分からず、単純な相槌をつくだけである。

 けれど変わったというきっかけは、勇海から与えられた。勇海が来なければそういうことも思わず、自分が描いた世界の中で完結していた。


「姉さん」


 勇海がその声と共に、顔を近づけてきた。淡い色の瞳だけれど、ここまで近づくとその色が浮かんでみえる。

 透き通るような頬の白さの中に、仄かな赤い色がにじみ出ている。自分の息と勇海の息が混ざり合い、勇海の熱に呼応して自分がほんのりと温められていく。


「何?」

「これ。姉さんに渡します」


 勇海は自分の鞄からなにかを取り出す。丁寧に包装された箱を手渡される。


「なにこれ?」

「姉さんへの贈り物です」

「どうして?」

 

 勇海は言葉を探すように、瞳を左右に動かしたがはっきりとした口調で告げる。


「姉さんに必要だと私が思ったから」

「何それ」


 贈り物を渡す適切な理由ではないかと思うけれど、勇海には確固たる理由があるようだ。促されるように渡されたものを手に取る。


「開けていい?」

「はい」

「花乃さんにも選ぶを手伝ってもらったのです」

「そうなんだ。じゃあ花乃さんも中身を知っているのね。そうなんだ。開けていい?」

「どうぞ」


 重さとか大きさから運びにくいものではないと思っているが、

何が包まれているのか分からない。勇海が持ってきたものだから、予想しづらさはなおさらだった。


 それにまだ信じられない。勇海が観月に贈り物を送る?

それに必要だという言葉も、信じられなかった。必要だと思えるほど観月を見ていたということだとしたら……


 考えを張り巡らせる見つきとは裏腹に、彼女の体は包装を破いていく。

中からは現れたものを見て、観月は思わず息を漏らした。


「なにこれ?」

「スマートフォンのカバーです」

「それは分かっているけれど……いや……ちょとまって」


 額に手を当てて目を閉じる。必要なことという勇海の言葉が反芻された。


「どうしてこれが必要だと思ったの?」

「姉さんがいつもスマートフォンを操作していたので、長時間使用しても問題ないようにする必要があります」

「だから必要があるということか……だけどそうじゃなくて……」

「どうしたのですか?」


 勇海のまっすぐな視線が、胸に届いてくる。彼女も自分を見ていたという事実が、この簡素なプレゼントに残されていた。

 ただそれだけのことなのに、何も言えなくなる。一人疎外感に押しつぶされていたが、勇海にはいつもそばに自分がいるのが当然のことだったのだろう。


 勇海の言葉は半分は正解だが、半分は間違っている。必要そうだからという観月への理由の他に、勇海だからそう思ったというのを、彼女はまだ気づいていない。


「なんでもないわ。とりあえずありがと。花乃さんにも今度お礼に言っておくべきね」


 待てばここに来るだろうか? そうも疑問に思ったが、ここには来ない気がした。勇海が観月と出会うために、見送ったのだろう。


「それと、姉さんがさっき探しに来たのは本当に驚きました」


 そう呟いた勇海の横顔は、満足げな表情を浮かべている。自分が驚いたということを、喜んでいるようだった。


「どうして?」

「だってこの時間は、姉さんは図書室にいるでしょう?」

「それは……知っていたの? いや……」


 まだ自分が何をしているかまでは知らないのかもしれない。

しかし勇海は淡々と語り続ける。


「私について記録していたのですよね?」

「知っているの?」

「当然です」

 

 彼女の淡々とした語りが、非情な響きを奏でている。水をかぶせられたかのように、体中の熱が奪われるが、体の内側から燃えるような感情が沸き上がってくる。


 驚愕と、羞恥と、後悔がごちゃ混ぜになって、自分でも何を抱えているのか分からなくなってくる。


「知っていたんだ……」

「もしかして秘密のことでしたか?」

「当り前じゃない。なんであなたはこんなにめざといのよ」

「私ではなくても分かりやすい事でしたし……みなさんご存じだったから」

「待って、今なんていったの? それってどういうこと?」


 勇海の無表情がとても怖い。薄く口を開いた前に、観月は勇海を止める。


「待って……心の準備をするから」

「……」


 両手で自分の顔を覆う。暗闇の中で、イメージしてしまう最悪の言葉を消していく。手を当てたまま、恐る恐る指の隙間から勇海を覗き見る。


「私が図書室でやっていたことってみんな知っていることなの?」

「みんな知っていますよ。姉さんが私をずっと見ていたということ」

「……それってみんなからどう思われているの?」

「妹想いの姉さんだと噂していました」

「……」


  確かに勇海を見るために、勇海の傍に寄り添っていた。周囲の目も気にせず……。

 それは周囲の人にはどのように映るのかは、明白だった。

 体が弱かったということになっている勇海を、過保護気味に見守る姉というのなら……。自分の行動は過激なほどに、妹を見守っていると思われていたら……。


「そういうわけじゃないから。違うから」

「どういうわけですか?」

「いや、違うの。だけど皆、クラスの人は皆知っていたのね」

「はい」


 パズルのピースがはまったかのような感覚が体を突き抜ける。

 ここ数日抱いていた不自然な視線の正体が見る見るうちに明らかになる。視線の出所がつかめなかったのも当然だ。視線は全員から浴びていたものなのだから。


「正確に言いますと、姉さんが私を観察していたのをみんな知っているということなので、図書室で行っていたことについては私しか知りません」

「今更それを言われても、何の励ましにもならない……」

「励まし?」

「あぁ……事実を述べただけなのね」


 頭を抱えてうずくまる。自分の後悔と愚かさを分かっているのは自分だけなのか。穴があったら入りたいという気持ちが今なら分かる。


 一人になりたいが、隣にいる勇海が自分を見つめている。視線の気配につられて目を開くと、勇海は隣にいた。ここまで取り乱しているのに、勇海は変わらず傍にいる。


「ですが、どうしてそのようなことを行おうとしたのですか?」

「それは……あなたが気になるから。監視しておかないと……」


 自分の言葉さえ恥ずかしく思えると、ついと目をそらしてしまった。勇海のことを宇宙人だから警戒していたと思っていた。けれどその言葉の中に隠していたのはそうではない。単に勇海が気になるから。


 人としての興味ではなく、自分の傍にいるもう一人の自分として

気になっているから。だから彼女のことを知りたかったのだろう。


「園芸部楽しい?」

「まだ分かりません。でも続けてみようと思います」

「そう。私はもうあなたの監視はもうやめる」

「必要なくなったのですか?」

「そうね。でもこれは使うことにする」


 勇海からの贈り物を、鞄にしまう。


「それは必要あるものですか?」

「必要ないものだけど使うの」


 観月は不敵に笑う自分の表情を、勇海に見せる。

分かって見せろという挑戦でもあった。


 相変わらず、勇海は変わり映えのしない表情でこちらを見つめている。でもその言葉は、彼女が抱いているものそのものを、ありのままに伝えている。


「帰ろうか。夕飯の支度もしなければいけないし」

「はい」


 立ち上がり勇海に手を差し伸べる。勇海はじっとその手を見つめていたが

その手を受け取った。勇海の手はひんやりとしているけれど、

つかんでいるうちに彼女の熱と自分の熱が混ざり合って一つになっていく。


 観月はもう一人の自分と傍にいる。彼女に侵略されている。

その彼女と二人でいることで自分の知らない自分が、照らされていく。


 明日も、その次の日もこのように過ごしていく。二人を見送るように地平線の向こうで太陽が顔をのぞかせていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る