あーしたてんきになあれ
大河井あき
あーしたてんきになあれ
上沢が地方の営業職に
上沢は有休を利用し、足型を測定するために靴屋に来店していた。髪の毛の先から足の裏まで身だしなみに気を
岩のような顔をしかめて
「上沢様、何か悩みがあるようですね」
上沢は心を見透かされたことに戸惑いながらも、素直に「はい」と答えた。表情や仕草に感情が出やすいことを本人は知らない。
「それなら、こちらはどうでしょう」
與が遠近両用メガネをくいっと上げて指し示したものを見て、上沢は腕を組み、革靴を注文した客に売り込むものなのかと不審に思った。
「確かに、普通の下駄なら和服を着る趣味でもないかぎりわざわざ使う理由はありません。ですが、この下駄は特別なのです。履いてからぽーんと
「感じませんか? これはですね、ビッグチャンスを引き寄せる下駄なのですよ」
「ビッグチャンス?」
與の
会計が終わり、與の申し出で名刺交換をしたあと、「下駄はあなたの気持ちに応えてくれます」と励まされたことで上沢の心はすっかり晴れやかになった。
その翌々日、上沢は下駄の絶大な効果を知ることになる。
上沢は下駄を放る場所として、家の付近にある広々とした原っぱを選んだ。そして、日課である早朝のランニングを終えるとすぐにランニングシューズを履き替えた。
スポーツウェアを着たごつい顔の男が、「あーしたてんきになあれ」とどこか気の抜けた言葉を唱えながら下駄を放る様子は
草の上を転がった下駄が示したのは、表。上沢は片足立ちのまま「よしっ!」とガッツポーズを取り、けんけんで下駄を回収して自宅に戻った。それ以降は普段と変わらぬ一日を過ごした。
翌日、上沢はランニング後にシャワーを浴び、朝食を済ませスーツに着替えて革靴を履き、バスと電車を乗り継いで会社に到着した。いつも通りの出社だが、上沢の
上沢は社内に入るとすぐに上司から小会議室へ呼び出された。
まさか、な?
期待と否定の半信半疑。正しかったのは、前者だった。
「よかったな。都市部への配属が決まったぞ」
つまりは栄転だ。以前、上沢は取引で
間違いない。これはチャンス、ビッグチャンスだ!
上沢は転勤した先で成功する自分の姿を思い描いて興奮した。そして、今すぐ下駄を抱きしめて子犬のように
上沢は珍しくベッドへダイブしたときに、ふと「あーしたてんきになあれ」の意味に気付いた。「てんき」とは「転機」、つまりは與の言っていたビッグチャンスのことなのである。下駄の表を出すことで、次の日に良い転機を迎えられるというわけだ。
転勤するまでの一ヶ月間は引継ぎや引越しであっという間に流れていき、転勤してからも新しい環境での数週間は目まぐるしく過ぎていった。上沢が家の前にある公園で、再び下駄を放る余裕ができたのは、十月下旬になってからだった。
上沢は
やはり偶然だったのだろうか。それとも一回きりの
「上沢くん。今夜一緒にご飯でもどう?」
失意は瞬時に
そうか、仕事以外でも転機はあるのか!
上沢に声をかけたのは
上沢とて男である。加えて独身である。美しい女性から食事に誘われたとなれば「ぜ、是非!」と受けるのもやぶさかではなかった。
女性と二人きりで食事をするのが初めてだったこともあり、料理の味が分からないほどに緊張していた上沢だったが、笑みが絶えないほどに幸福に満ちた時間を過ごした。帰宅してからも高揚した気分は収まらず、ストレッチをしたり枕に思いっきり顔を
それからは下駄を放るのが日課となり、転機を次々とものにしながら一ヶ月が経った。確率だけで考えるのなら一回ぐらい下駄が裏を示してもいいのだが、不思議なことにずっと表を出し続けていた。上沢の評価は上昇気流に乗ったかのように高まり、徳根との関係は交際を結ぶまでに発展した。
しかし、
十一月十一日。上沢の手帳のカレンダーには箇条書きで二つメモされていた。一つは「徳根さんの誕生日」、もう一つが「午前十時、駅前、デート」である。
上沢は徳根の誕生日を知っていた。そこで、三日前、下駄が表を出し続けていることで
だが、
結局、徳根の先導でデートスポットを
下駄がもたらすのは転機であり、成功ではない。転機をものにできるかどうかは本人次第なのである。だが、成功が度重なっていた上沢は、下駄を放るだけで幸運が舞い込んでくるという錯覚に
朝は浮かれて夜は悲しみに暮れていた上沢は、その日下駄を放るのを忘れていた。
悪いことは重なるものである。上沢が追い討ちを受けたのは、デートの失敗で枕を
明日はお得意様との取引があり、だからこそ絶対に成功させる必要があったのだが、上沢は失敗を
下駄を使うべきなのだろうか。ただ、転機を
上沢は雲行きの怪しさを感じながらも
下駄が示したのは――裏。裏だった。
それが何を意味しているのか、頭の固い上沢でも分かった。そして
凶兆が、脳中に
しばしの葛藤の末、上沢は断腸の思いでポケットから携帯電話を取り出して取引相手に連絡し、取引の延期を頼んだ。ただ、理由を説明することはできなかった。携帯電話を切ったあと、上沢は最悪の展開を想像した。
延期を了承してはもらえたがおそらくは
いつもはまっすぐに伸びている背中を丸めて
下駄などもう二度と使うまい。上沢は、そう心に誓うのだった。
下駄の裏を出してから一年ちょっとの歳月が流れ、今は十二月の中旬である。年末が迫り誰もがせかせかとしているこの時期を、上沢だけは実にのんびりと過ごしていた。
下駄の使用を
しかし、転落しきった末路を想像して解雇も失恋も覚悟していた上沢は、人生意外とどうにかなるものだなあと楽観視する傾向が強くなっていた。ゆえに時間にはルーズになり、スーツの着こなしにはだらしなさが目立つようになった。深く考えることをやめて、自身を
以前はどれだけ
二度と使うまいと決意した下駄。しかしその決意を今の上沢が覚えているわけもなく、覚えていたとしても気にするわけもなく、「そういえばこんなものあったなあ」と嬉しそうに履いて公園へ向かった。
「あーしたてんきになあれ」
吉と出るか凶と出るかなどお構いなしといった調子で唱えながら、一足早いおみくじを引くような心持ちで下駄を放った。
乾いた空気にカランコロンと軽快な音を響かせて示したのは表。確かに表だった。
だが、次の日、上沢は転機と呼べるようなきっかけに出くわさなかった。
二回目は裏、三回目は表、四回目も表。しかし効果は一向に現れない。上沢は「どうしたんだろうなあ」と
「どうも、與です」
「お久しぶりです、上沢です。いやあ、実は下駄の効き目がなくなってしまったみたいで」
與は、その
「下駄を放ったとき、表になってくれとか、裏返るなとか念じていましたか?」
「いやあ、そんなことはもう考えませんよ。裏が出たってどうにかなるでしょうし」
與が
「それはですね、あなたが
あーしたてんきになあれ 大河井あき @Sabikabuto
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