あーしたてんきになあれ

大河井あき

あーしたてんきになあれ

 油蝉あぶらぜみの声がよく響き渡る晴れが続く八月下旬。しかし、上沢うえざわ寛志かんじは心をくもらせていた。

 上沢が地方の営業職にいてから五年が経つ。彼は仕事に真摯しんしではあるのだが、生真面目きまじめさがあだになることも多かった。それなりの評価をもらってはいるのだが、同期が次々と昇進して成功を収めている状況に不安を覚え、このままでは好機にも恵まれないまま定年を迎えることになるのではないかと憂鬱ゆううつになっていたのである。

 上沢は有休を利用し、足型を測定するために靴屋に来店していた。髪の毛の先から足の裏まで身だしなみに気をつかう人間であり、当然革靴も丁寧に手入れしている。だが五年も使い続けていれば、それも営業のためにひたすら歩いたり駆けたりするのだからボロボロにだってなるだろう。上沢は近所にある老舗しにせの靴屋で、オーダーメイドの革靴を注文することにしたのだ。

 岩のような顔をしかめて溜息ためいきをついた上沢に、足型を取り終えた店長のあたえ優鶴ゆづるたずねた。

「上沢様、何か悩みがあるようですね」

 上沢は心を見透かされたことに戸惑いながらも、素直に「はい」と答えた。表情や仕草に感情が出やすいことを本人は知らない。

「それなら、こちらはどうでしょう」

 與が遠近両用メガネをくいっと上げて指し示したものを見て、上沢は腕を組み、革靴を注文した客に売り込むものなのかと不審に思った。すすめられた履物はきものが、見た目には何の特徴もない下駄げただったからだ。しかし、その反応も見通していたかのように與は続けて言った。

「確かに、普通の下駄なら和服を着る趣味でもないかぎりわざわざ使う理由はありません。ですが、この下駄は特別なのです。履いてからぽーんとほうるだけでよいのです。『あーしたてんきになあれ』と言いながら」

 怪訝けげんな顔を浮かべたままの上沢に、與はゆっくりと口角を上げて言った。

「感じませんか? これはですね、ビッグチャンスを引き寄せる下駄なのですよ」

「ビッグチャンス?」

 與の胡散臭うさんくさい言葉を戯言ざれごとだと無下むげにせず購入にまで至ったのは、上沢がそれほどまでに好機にえていたからだった。

 会計が終わり、與の申し出で名刺交換をしたあと、「下駄はあなたの気持ちに応えてくれます」と励まされたことで上沢の心はすっかり晴れやかになった。

 その翌々日、上沢は下駄の絶大な効果を知ることになる。



 上沢は下駄を放る場所として、家の付近にある広々とした原っぱを選んだ。そして、日課である早朝のランニングを終えるとすぐにランニングシューズを履き替えた。

 スポーツウェアを着たごつい顔の男が、「あーしたてんきになあれ」とどこか気の抜けた言葉を唱えながら下駄を放る様子はいささ滑稽こっけいに映るのだが、上沢は至って真剣だった。下駄が地面と触れる瞬間、心の中で「表だ、表!」と体中の血管を広げて叫ぶほどに熱くなっていた。

 草の上を転がった下駄が示したのは、表。上沢は片足立ちのまま「よしっ!」とガッツポーズを取り、けんけんで下駄を回収して自宅に戻った。それ以降は普段と変わらぬ一日を過ごした。

 翌日、上沢はランニング後にシャワーを浴び、朝食を済ませスーツに着替えて革靴を履き、バスと電車を乗り継いで会社に到着した。いつも通りの出社だが、上沢の歩幅ほはばは普段よりもわずかに大きくなっていた。

 上沢は社内に入るとすぐに上司から小会議室へ呼び出された。

 まさか、な?

 期待と否定の半信半疑。正しかったのは、前者だった。

「よかったな。都市部への配属が決まったぞ」

 つまりは栄転だ。以前、上沢は取引で殊勲しゅくんを立てたことがあったのだが、それが大きく評価されたのだ。

 間違いない。これはチャンス、ビッグチャンスだ!

 上沢は転勤した先で成功する自分の姿を思い描いて興奮した。そして、今すぐ下駄を抱きしめて子犬のようにで回したい衝動をどうにか抑え、「ありがとうございます!」と力強く答えた。帰宅後に衝動を解き放ったことは言うまでもない。

 上沢は珍しくベッドへダイブしたときに、ふと「あーしたてんきになあれ」の意味に気付いた。「てんき」とは「転機」、つまりは與の言っていたビッグチャンスのことなのである。下駄の表を出すことで、次の日に良い転機を迎えられるというわけだ。

 転勤するまでの一ヶ月間は引継ぎや引越しであっという間に流れていき、転勤してからも新しい環境での数週間は目まぐるしく過ぎていった。上沢が家の前にある公園で、再び下駄を放る余裕ができたのは、十月下旬になってからだった。



 何故なぜだ。昨日きのう、下駄はまたもや表を出したというのに。

 上沢は眉根まゆねを寄せて難しい顔をしていた。会議や外回り、日報報告などを終わらせたのだが、下駄の効果が全く発揮されないまま退社時間が来てしまったのである。

 やはり偶然だったのだろうか。それとも一回きりの代物しろものだったのだろうか。あるいは土地が関係していたのかもしれない。そこまで推測し、いずれにしろ効果がなかったことに変わりはないと結論付けて、失意にうなだれながら席を立とうとしたそのときだった。

「上沢くん。今夜一緒にご飯でもどう?」

 失意は瞬時に霧消むしょうし、上沢の表情はぱっと明るくなった。

 そうか、仕事以外でも転機はあるのか!

 上沢に声をかけたのは徳根とくね琴美ことみという事務員である。社内では、明敏めいびんさを感じさせる美しい目鼻立ちやそれにたがわぬ秀逸な仕事ぶりからマドンナとうたわれている女性だった。

 上沢とて男である。加えて独身である。美しい女性から食事に誘われたとなれば「ぜ、是非!」と受けるのもやぶさかではなかった。

 女性と二人きりで食事をするのが初めてだったこともあり、料理の味が分からないほどに緊張していた上沢だったが、笑みが絶えないほどに幸福に満ちた時間を過ごした。帰宅してからも高揚した気分は収まらず、ストレッチをしたり枕に思いっきり顔をうずめたりしてからようやく眠りについた。

 それからは下駄を放るのが日課となり、転機を次々とものにしながら一ヶ月が経った。確率だけで考えるのなら一回ぐらい下駄が裏を示してもいいのだが、不思議なことにずっと表を出し続けていた。上沢の評価は上昇気流に乗ったかのように高まり、徳根との関係は交際を結ぶまでに発展した。

 しかし、天狗てんぐになっていた上沢は、まさに天狗が台風で叩き落とされるがごとき失態を演じることになる。



 十一月十一日。上沢の手帳のカレンダーには箇条書きで二つメモされていた。一つは「徳根さんの誕生日」、もう一つが「午前十時、駅前、デート」である。昨日さくじつ、上沢が普段より高く放った下駄は当然のように表を出した。

 上沢は徳根の誕生日を知っていた。そこで、三日前、下駄が表を出し続けていることでうわついていた上沢は「当日は俺に任せてくれ」と豪語してデートに誘ったのだ。実は、上沢から誘うのはこれが初めてだった。

 だが、如何いかんせん、上沢はデートそれ自体にうとかった。おしゃれなカフェやブティック、雰囲気の良い雑貨店ざっかてんといった店をほとんど知らなかったし、気のいたサプライズをする発想にも至らなかった。上沢が当日持参したのは、修学旅行の行動計画よりも面白みのないデートプランがぎっしりと書き込まれたA4用紙だった。だから、徳根が頭を押さえてあきれてしまったのも無理もないのである。

 結局、徳根の先導でデートスポットをめぐることになった。上沢はリードするはずがむしろリードしてもらっている状況を恥じ、自己啓発書を読む時間の一割でも恋愛心理学の勉強に回していたらとひどく悔やんだ。無論、恋愛心理学だけでどうにかなるものではないのだが、上沢の知識ではそう考えるのが精一杯だった。

 下駄がもたらすのは転機であり、成功ではない。転機をものにできるかどうかは本人次第なのである。だが、成功が度重なっていた上沢は、下駄を放るだけで幸運が舞い込んでくるという錯覚におちいっていた。その思い違いに気付いたのは、徳根にプレゼントを買って家まで送り届けて、帰路をとぼとぼと歩き終えたあとだった。

 朝は浮かれて夜は悲しみに暮れていた上沢は、その日下駄を放るのを忘れていた。



 悪いことは重なるものである。上沢が追い討ちを受けたのは、デートの失敗で枕をらした次の日だった。

 明日はお得意様との取引があり、だからこそ絶対に成功させる必要があったのだが、上沢は失敗をいまだに引きずっていた。

 下駄を使うべきなのだろうか。ただ、転機をかせなければまた自尊心が傷ついてしまう。しかし、使わずに失敗したらそれこそ後悔することになるだろう。けれど……。

 上沢は雲行きの怪しさを感じながらもなかば自暴自棄に下駄を放った。

 下駄が示したのは――裏。裏だった。

 それが何を意味しているのか、頭の固い上沢でも分かった。そしておののいた。本来ならば表は晴れで裏が雨。つまり表が良い転機ならば裏は悪い転機なのである。

 凶兆が、脳中に暗灰色あんかいしょくの積乱雲を作り出し、発達させる。体温が急激に上がり、眩暈めまいで足元が覚束おぼつかなくなり、嘔気おうきが襲う。身体からだは豪雨でぐっしょりと濡れたかのように重くなった。突発的なストレスが高熱を発症させたのだ。

 しばしの葛藤の末、上沢は断腸の思いでポケットから携帯電話を取り出して取引相手に連絡し、取引の延期を頼んだ。ただ、理由を説明することはできなかった。携帯電話を切ったあと、上沢は最悪の展開を想像した。

 延期を了承してはもらえたがおそらくは不興ふきょうを買ってしまったはずだ。それどころか自分の信用が地に落ちた可能性もある。そのせいで左遷させん、いや解雇すらもありえるかもしれない。そうなれば影響が及ぶのは仕事だけではない。徳根さんとの関係だって破綻はたんしてしまうだろう。たった一度の裏だけで、表を出して得たものをすべて、すべて失ってしまうのだ。

 いつもはまっすぐに伸びている背中を丸めてむせび泣きながら、悪寒おかんで震える身体を引きずるようにして家へ戻り、下駄を靴箱の最下段、利き手と逆側である左端にしまった。

 下駄などもう二度と使うまい。上沢は、そう心に誓うのだった。



 下駄の裏を出してから一年ちょっとの歳月が流れ、今は十二月の中旬である。年末が迫り誰もがせかせかとしているこの時期を、上沢だけは実にのんびりと過ごしていた。

 下駄の使用を自粛じしゅくしたあとも、昇進の話こそないものの左遷の話もなく、大きな進展こそないものの徳根とのお付き合いは続いていた。つまりは可もなく不可もなしといった具合だった。故意に転機を引き寄せなくなっただけであり、極端な変化がないのも当然ではあるのだ。

 しかし、転落しきった末路を想像して解雇も失恋も覚悟していた上沢は、人生意外とどうにかなるものだなあと楽観視する傾向が強くなっていた。ゆえに時間にはルーズになり、スーツの着こなしにはだらしなさが目立つようになった。深く考えることをやめて、自身をかえりみることもなく、何事にも呑気のんきに取り組む様子はまるで宇宙をただよっているかのようだった。

 以前はどれだけいそがしくとも休日は家中いえじゅうを綺麗に片付けていた上沢が、年明けも近いからと半年ぶりに家の掃除をしていたときのことである。靴箱に例の下駄があるのを見つけたのだ。

 二度と使うまいと決意した下駄。しかしその決意を今の上沢が覚えているわけもなく、覚えていたとしても気にするわけもなく、「そういえばこんなものあったなあ」と嬉しそうに履いて公園へ向かった。

「あーしたてんきになあれ」

 吉と出るか凶と出るかなどお構いなしといった調子で唱えながら、一足早いおみくじを引くような心持ちで下駄を放った。

 乾いた空気にカランコロンと軽快な音を響かせて示したのは表。確かに表だった。

 だが、次の日、上沢は転機と呼べるようなきっかけに出くわさなかった。

 二回目は裏、三回目は表、四回目も表。しかし効果は一向に現れない。上沢は「どうしたんだろうなあ」と他人事ひとごとのようにつぶや いてから、與の名刺を頼りに電話をかけた。

「どうも、與です」

「お久しぶりです、上沢です。いやあ、実は下駄の効き目がなくなってしまったみたいで」

 與は、その間延まのびした声に「んんっ?」と疑問をいだいて訊ねた。

「下駄を放ったとき、表になってくれとか、裏返るなとか念じていましたか?」

「いやあ、そんなことはもう考えませんよ。裏が出たってどうにかなるでしょうし」

 與がらしたのは「あちゃあ」という嘆声。「原因が分かったのですか?」と訊ねる上沢に、與は心底しんそこ残念そうに答えるのだった。

「それはですね、あなたが能天気ノーてんきになってしまったからですよ」

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あーしたてんきになあれ 大河井あき @Sabikabuto

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