六 , 死線を超えて

薄暗い薄明の空の下。透明な空気を吸い込み、吐き出す。


門の中央で後ろを振り返り、わたしはこの街での冒険を思い出していた。


ここで出会った、弱虫の少年のことを。


最下級の魔物にすら背中を見せて逃げ回り、わたしが助けなければ、きっとあの薄暗い洞窟で死体となっていた彼。かと思えば、わたしを守るために、トロウルに正面から立ち向かうほどの、勇敢な姿を見せた。


「どっちが本当のアランだったんだろう」


小さく呟く。わたしの問いは答えを得られぬまま、日の出前の静かな静寂に吸い込まれていく。わたしひとりが声を発したところで、朝の静寂は姿を変える様子はない。


「もう関係ないか」


わたしは今日、この街を発つ。私の体に呪いを、忘れられることのない苦しみを与えたものを殺す、そのために。


アランのそれとは異なる、灯火のない夜に迫る邪悪のようなどす黒い目的。それだけが、今のわたしを支える、生きる理由だ。


胸の中で、さよなら、と告げる。もちろん、アランに。


彼と過ごしていた時だけは、わたしは目的を忘れ、笑うことができた。彼と過ごす時だけは、わたしはわたし自身でいられた。


再び振り返り、外の世界を見つめる。都合の良い夢は、これで終わりだ。彼をわたしの持つ闇に引きずり込み、その光を消してしまいたくはない。


手に持った麻袋を握り直し、足を踏み出そうとした、そのときだった。


「おぉ〜い!るーうーしゃー!ちょっと来てくれへんかぁ〜!」


静寂を叩き割るような。いや、わたしの感傷を台無しにするような、間の抜けた独特の訛り声。


無視することもできたが、ため息をついて振り返った。


膝に手を付き、肩で息をしながら。大怪我を負ったわたしとアランを助けてくれた、酒場の女将さんが立っていた。


彼女は息を整えると、わたしの目を見て言う。


「アランが、アランが大変なんや!」


――――――――――――――――――


体を引きずりながら、小さな外の景色にゆっくりと近づいていく。


眩しく感じないことから、どうやら今は夜中らしい。はやる気持ちを抑え、一歩ずつ確実に、外へと近づく。


やがて、僕の全身を清涼な空気が包む。我ながら無茶をしたものだ、と自嘲気味な笑みがこぼれた。


不意に、がくりと膝から崩れ落ちる。杖代わりにしていた松明から手が滑り、そのまま僕の体は地面に吸い込まれる。


薄暗い洞窟の床ではなく、整えられた石畳が視界に入る。


体は動かない。少しずつ思考がぼやけていき、動くべき理由も、少しずつ忘れていた。


何か、目的があったのではないかと、自分自身の声がする。だが、それに答える体力すら、今の僕には残されていなかった。


ゆっくりと目を閉じる。夢が僕を侵食していき、やがて意識は完全に落ちていった。


――――――――――――――――――


旅に戻るはずだったわたしは、女将さんの背中にしがみつき、アランの元へ急いでいた。


わたしは筋肉がつきにくいので軽いだろうとは思うが、それでも苦なく運ぶのは女性には難しいはずだ。だが、彼女は難なくそれをやってのけている。


「驚いたぁ?うちも、昔は冒険者やったけん。ルーシャちゃんぐらい、軽いもんやで」


激しいが、規則正しい呼吸の合間合間に言葉を挟み、わたしに話しかける。


「驚きました。でも、今はありがたいです」


女将さんの話では、アランが洞窟の前で血まみれで倒れていたので、また酒場で保護したということらしい。しかし、門から酒場までの距離を考えると、わたしの体力で走り切ることは不可能だった。


そこで、女将さんの背中の上で揺れる、今の移動法となったのだ。


「もう着くで!」


彼女がそう叫ぶと、視界の奥に見慣れた酒場が映る。


「女将さん、アランは二階ですか」


「うん?そうやで。ルーシャちゃんも使っとったあの部屋や」


その言葉を聞き、わたしは女将さんの肩から手を離した。


「ちょっ、ルーシャちゃん!?」


思わず立ち止まりそうになる彼女を、声で静止する。


「女将さんは、そのまま走っててください。わたしなら大丈夫」


そう言いながら、彼女の背中の上で体制を変え、跳躍する準備を整える。


「わたしが合図したら、思いっきり跳んでください。その後は、なんでもいいです」


酒場が近づいていく。ある一点に視線を集め、集中する。


「なんやようわからんけど、わかったわ!」


女将さんの同意が得られたところで、わたしは彼女の視界に映るように手を伸ばし、指をひとつずつ折りたたんでいく。


「いきます。五、四、三、二、一」


やがて、酒場の目の前に到着する。


「跳んで!」


鋭く叫ぶと、女将さんがわたしの頼んだとおりに、思い切り跳ぶ。


そして、わたしもまた、体のばねを伸ばしきり、彼女の背中から跳躍した。


二階の部屋の窓枠にしがみつき、壁を走るようにしてさらに跳躍。窓の上に着地し、そのまま窓を開けて中に入る。


「アラン!」


わたしが叫ぶと、血みどろのアランを取り囲む、数人の顔見知りたちが一斉にこちらを向いた。


彼らは窓から飛び込んできたわたしに驚いていたが、わたしがベッドで横たわるアランに近づいていくと、それに合わせて道を開けてくれる。


「アラン、なんでこんな」


アランの体は、ぼろぼろのように見えた。血に塗れた衣服、打撃痕の残る左手。顔だけは、既に拭かれたのか綺麗に見える。


「う、ぐ」


アランがうめき声を上げ、周囲の冒険者たちと共に、わたしは息を呑む。


やがて、彼はゆっくりと瞼を開いた。


「アラン!」


思わず、再び叫ぶ。こちらに戻りかけた彼の意識が、また消えてしまわないように。


薄く開かれた瞼の奥で、彼の眼が、わたしを捉える。


「ルー、シャ?」


乾いた唇が、わたしの名前を呼ぶ。ただそれだけで、わたしの胸の中に、温かいものがじわりと広がる。


「そう、わたしよ。わかる?」


アランに声をかけ続ける。彼はわたしをぼんやりと見つめ、ゆっくりと喋りだす。


「君に、伝えたいことが、あるんだ」


まるで遺言のような彼の言葉を、わたしは遮る。


「そんなの、後でいいよ。元気になるまで待つから、死なないで」


目頭が熱くなり、やがて涙が頬を伝う。だが、アランはわたしの言葉を無視して、こちらに手を伸ばす。


「ルーシャ。僕も、連れて行ってくれ。強く、なるから」


そして、君を――。彼はそう言い残して、ゆっくりと目を閉じる。


足の力が抜ける。筋肉はわたしの体を支えることを放棄し、全ての神経は感情を整理することに費やされる。


とめどない涙が流れることをただ事実として理解していると、ふと、周囲に居た誰かが、この場に似つかわしくない疑問符を浮かべる。


「なぁ、こいつ、息してないか」


…え?


顔を上げる。座り込んでいるわたしは、アランの胸の動きがよく見える。


呼吸に合わせて規則正しく上下する、アランの胸が。


「な、なにそれ…」


わたしは訳が分からなくなって、それからどうやらわたしの脳は、意識を手放すことでその混乱を収めようとしたらしい。


ぐるりと世界が回るのを最後に、わたしの意識はどこかへ飛び立ってしまった。

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