五 , 少女は絶望の夢を…

床に落としたランタンが微かに周囲を照らす洞窟で、わたしは球体のような巨躯を持つ魔物と対峙している。


魔物の名はトロウル。ずんぐりとした巨体を持つ魔物で、人間に対して敵意を持たず、生き物が好き。人間に限らず、魔物以外の生き物と遭遇すれば、大喜びでじゃれてくる。


説明だけを聞くと、とても恐ろしい魔物とは思えない。だが、彼らは加減というものを知らないうえに、精神が未熟なのだ。


彼らの無尽蔵の体力を満足させるだけの体力を人間は持たない。仮に持っていたとしても、振り回される腕に捉えられればひとたまりもない。最悪の場合、動きが止まった一瞬の間にトロウルにとっての最大限のコミュニケーションである、熱い抱擁を全身で受け止めることになる。当然、人間にとってのそれは死そのものだ。


尤も、今わたしの目の前にいるトロウルは、少年にじゃれれば私の剣で首を刺され、その少年は目の前から逃げ出し、残ったわたしにはさんざんコミュニケーションを拒否されている。怒り心頭といったところだ。


十分に時間は稼いだし、アランは逃げられただろう。この街にトロウルを倒せるほどの冒険者はそう多くない。救援は、恐らく期待できない。


だが、アランが逃げるまで。いや、洞窟からトロウルが出ないよう封鎖されるまで、持ちこたえなければいけない。


少しでも洞窟の奥に誘導するために、すり足で距離を取る。が、トロウルは大股でこちらに向かって突進し、そのままの勢いで右腕を真横に薙ぐ。殺意はないが、しかし怒りの篭った大振りな一撃。


剣の腹で斜めに受け、トロウルの腕力を利用して地面に張り付き、折れまがった体のバネを活かして、後ろに飛び退る。


すぐに呼吸を整える。暗闇に包まれた洞窟の中で耳に入るのは、トロウルの大地を揺らす足音と、空気を振動させる鼻息。そして――


――ぜいぜいと肩で息をする、わたしの荒い息遣い。


体力はとっくに限界に達している。むしろ、ここまで良く保った方だ。


極度の低体力症である私は、どの道どこかで死を迎えていただろう。森の木々に体力を奪われるか、砂漠の砂に体力を奪われるか。――洞窟で、トロウルに殺されるか。


死に方が変わっただけ。むしろ、最後にひとり助けられたのならば、自分を褒めるべきだろう。


残る体力をどれだけ絞っても、次の一撃を躱せるか、躱せないかの瀬戸際。だが。


「最後に、ちょっとくらい、人間の恐ろしさを、味あわせてあげる」


肩で呼吸しながら、目の前のトロウルに悪態をつく。最も、彼らは人間の言葉なんて理解していないのだが。


体の奥底に残していた、最後の反撃のための力。


「狙うは、目玉」


次のトロウルの攻撃に合わせて、相打ち覚悟で目を狙う。今のわたしにできる、最大限の無意味な抵抗をしてやろう。


トロウルは幾度となく攻撃を躱され苛立っているのか、鼻息を荒くし、苛立った歩調でこちらに近づいてくる。


そして、


「え?」


目の前で火花が弾けたような、大きな衝撃。遅れて、この戦いで初めて、トロウルが足を使ったことに気付いた。


そうか。彼らにとって、腕はじゃれるための遊び道具であり、足は敵を攻撃するための武器なのか。


蹴り上げられ、地面に叩きつけられたわたしは、そんなことを考えながら、少しずつ、意識が闇に落ちていくのを感じていた。






わたしは、暗闇の中にいる。目を開けると、暗闇の中に立ち尽くす、小さなわたしがいた。


「ねぇ、どうしてわたしだけ、パパとママが居ないの?」


小さなわたしが、わたしに問いかける。


「どうしてわたしだけ、髪の色が違うの?」


また、問いかける。それは、幼い頃に私自身が感じていた疑問そのものだった。


「どうしてわたしだけ、背中が傷だらけなの?」


ぞくり。幼いわたしのその言葉によって、凍りつくような寒気がわたしを襲う。そして、背中が焼けるように痛み始める。


思わず背中に手をやると、わたしの手のひらは、べっとりとした血に塗れ、背中の出血に気づくと、まるでわたしの意志に応じるように、背中からおびただしい量の血が吹き出る。


痛い。痛い、いたい、いたい、いたい。


だれか、たすけて――。






「ルーシャ!」


自分の名前を叫ぶ、少年の声に意識が現実に引き戻される。


「横に転がって!」


その声に従って、ぼやけた視界を無視し、全力で横に転がる。直後、一瞬前までわたしの顔があった場所に、トロウルの足が着地する。


声がした場所に目をやると、声の主の少年――アランが、トロウルに向かって全身を使った体当たりをぶつけていた。


彼はそのままトロウルの腕にしがみつくが、彼の体重でトロウルの腕の動きを止められるはずもなく、しばらく振り回されたのちにわたしの近くに投げ飛ばされる。


「アラン、なんで」


なんで逃げなかったの。肺の酸素が尽き、言葉にならない。思わず激しく咳き込んでしまう。


「ルーシャ、ごめん。せっかくルーシャが助けてくれた命を、無駄にしちゃって」


そんなのいい。なんで助けに来てくれたの?わたしの問いは、声にならない。


「誰も見捨てたくないんだ。ルーシャは馬鹿みたいだって思うかも知れないけど、でも」


アランに、怒り狂ったトロウルの足が迫る。


咄嗟に、右腕の円形盾バックラーに剣を重ねて両腕で受けるが、それでもアランは弾き飛ばされ、壁に叩きつけられる。


アランがなぜトロウルの蹴撃を避けなかったのかは、聞くまでもなかった。アランの後ろにいる、わたしを守るためだ。


きみは、弱虫なのに。ゴブリンにすら足が竦んじゃうくせに。わたしに素手で負けるって言われて、言い返せもしないのに。


「どうして、立ち向かえるの」


ようやく絞りでた問いに、アランは答えない。かわりに、わたしの前に立ち、再びトロウルからわたしを庇おうとする。


もういいよ。わたしを見捨てて逃げて。これ以上傷つかないで。


涙が頬を伝う。まるで、さっきとは立場が逆だ。


トロウルは再び蹴撃を繰り出し、アランはまた吹き飛ぶ。しかし、再び立ち上がり、トロウルの前に立ちはだかった。


体格も、体力も、膂力も数段劣る人間という生き物が倒れない事に困惑したのか、トロウルは瞳に警戒の色を湛え、少し後退りする。


その隙に、アランはわたしに声を掛けてきた。


「ルーシャ、一撃だけでいいんだ。一瞬だけ僕が隙をつくるから、一撃だけ、トロウルの首に剣を突き刺して欲しい」


アランは、まるでわたしみたいに肩で息をしながら、しかしはっきりとした言葉でわたしに告げた。


「どうせ死んでもともと。だったら、やれるところまでやってみない?」


わたしを振り返って、アランはにやりと笑う。アランがこの場にやってくる直前の、わたしのように。


少しずつ、トロウルに対する恐怖心は消えていった。わたしの脳を、全能感が支配していく。


大丈夫、わたしはやれる。だいじょうぶ。


剣を杖代わりに立ち上がり、構える。壁に手をついて立っても、脚が震えるほどに体は疲れ切っている。


「やるなら、首じゃない。目を、狙う」


立ち上がり、戦意を取り戻したわたしを見て、アランは前を向き直った。


死んでもともと。やれるだけ、やってやる。


アランがじりじりとトロウルに対して距離を詰める。トロウルは後退るが、やがて意を決したかのように、アランに対して蹴撃を放つ。


アランが防御の構えを取るとほぼ同時に、わたしは息を大きく吸い込み、止める。


この酸素が体中を巡り、尽きるまでの一瞬がわたしに与えられたタイムリミット。


アランが、ひび割れた円形盾バックラーと剣で、トロウルの足を受け止める。先程までとは違う、受け流すのではなく、正面から受け止める防御。


だが、めきめきという音とともに、剣が、円形盾バックラーが砕け散り、アランの体は宙に舞う。


永遠に感じられる彼の浮遊。だが、彼の体と同じように、トロウルの足もまた、彼とは反対側に弾き飛ばされている。


周囲の動きが、まるで晴天の日の雲のように、ゆっくりに感じられる。体中のばねを利用し、跳ぶ。そして、剣を持った右手を、トロウルの右目に向かって伸ばす。視界の端から、トロウルの腕が迫る。だが、届く。剣が眼球に触れる直前、トロウルが目を閉じようと、瞼の筋肉に力を込める様子が、手に取るように分かる。だが、この切っ先がトロウルの肌を貫くことは実証済みだ。


勝った。

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