時を追う、君の影

第21話:7月15日(mizuki)

 世界に存在する景色、あるいは誰かの想い。いったい何がでなければいけないのか、という問いに対して、あらかじめ定まった規則や答えなんてない。だからと言って、僕らが生きているこの世界の外側に、空間的、時間的、あるいは因果的関係を何も持たない別の世界が存在するなんてことを、すんなり受け入れることは難しい。


「それは、つまりパラレルワールドってやつだよなぁ」


 そう言った林大樹はやし だいきは、僕たちしかいない放課後の教室で、小さくため息をついた。世界の複数性をパラレルワールドという言葉に変換した途端に、なんだかものすごく陳腐化されて、中身のない話になってしまうような気がする。糸乃空いとの そらと過ごした時間は、そうじゃなくて、とても不可思議な経験であるにも関わらず、それは確かな現実だった。彼女の視線も、手のぬくもりも、力のある声も、僕の記憶の中に鮮やかな色彩を残したまま積み重なっている。


「それでも、世界の複数性って、あながち否定できない気もする」


「でもさ、あれから、なんの連絡もないんだろう?」


 二人で花火を見て以来、何度か携帯端末にメッセージを送ってみたけれど、読まれた形跡はなく、送信履歴には既読済みにならない文字列が、虚しく並んでいるだけだった。


「現実ではないけれど現実でもありえた世界。俺はあの脱線事故以来、そのことを意識せずにはいられないんだ。単なる奇跡とか、偶然とかで片づけられるような話ではない気がして。確かに幻想や幻覚の類を見ていたのかもしれないけど、なんていうか、色が……」


「色?」


「ああ、欠けていた色が、見つかったような、そんな気がしたんだ」


 世界から一つだけ色が欠けている。それが何色なのか、僕は良く分からないでいた。だけれど、今はなんとなくと分かる。それは空色なんだと。青空がのっぺり青くて奥行きがないのも、きっと空色が足りないせいだ。


「なあ、相羽。世界は誰かの死で消えてなくなるもんじゃないさ。一度見つけたんなら、手放しちゃいけないんじゃないか?」


 糸乃空がこの世界から消えても、彼女の痕跡は世界の内に残り続ける。そして、僕があの脱線事故で死んでしまった世界でも、きっと僕の痕跡がどこかに存在し続けるのだろう。それが、残された人や社会に、どんな影響をもたらすのかはわからないし、あるいは誰も気に留めないかもしれない。だけれど、その痕跡に想いをはせてくれる人がいるのだとしたら、それはきっと幸せなことだと思う。


 しばし流れた沈黙を破ったのは、教室の扉が開く音だった。後ろを振り返ると、廊下の窓から差し込む西陽に照らされた林大樹の妹、林奈津はやし なつの姿があった。


 「奈津、どうした?」 と声をかけた林大樹には答えず、彼女は僕の方を向き「瑞希さん、ちょっといい?」とだけ言った。


「おっと? お前ら?」


「ちょっとお兄ちゃん。そんなんじゃなくて、真面目な話なんだから。というか私じゃなくて、千里、山本千里やまもと ちさとが……」


 山本千里……。空の祖母の住所を教えてくれた子だ。あの脱線事故に巻き込まれなかったのは、目の前に糸乃空が現れたからだと言ったら、山本千里は驚きもせず、ただ淡々と空の事を教えてくれた。


「少し話したいことがあるって」


 山本千里はきっと分かっていたんだと思う。僕の目の前に現れた糸乃空が、この世界の人間ではないことを。


 林兄妹を教室に残して、きしむ廊下を抜け、その先にある小さな昇降口で靴を履きかえる。奈津に指示された通り、新校舎建設予定地を抜けていくと、敷地のはずれにぽつんと置かれた小さなベンチに山本千里は一人で座っていた。彼女は、僕に気が付くと軽く頭を下げ、小声で「すみません」とだけ言った。


「いや、むしろお礼をいわなきゃ。この間はありがとう。おかげでいろいろ助かった」


「私も……。空に会いました。この場所で少し話をしたんです」


「そうだったんだ」


 なんとなくそんな気がしていた。そうでなければ、僕の話しをまともに聞いてはくれなかっただろう。


「驚かないんですね。もう既に死んでしまっている人なのに。その人と会ったなんて……」


「君だって、僕の話を疑いもせず聞いていたじゃないか」


「そうでしたね……。実は、少し驚いていたんですけど。でも、なんとなくそういうことかって、思いました」


「そういうこと?」


「相羽先輩と空は、きっと恋人同士だったんだと思います。ああ、もちろん向こうの世界で。でも、列車の脱線事故で、相羽先輩は亡くなってしまった。だから、きっと願ったんだと思います」


 『そう、私は願った。瑞希くんにもう一度だけ会いたいって、そう願ったの』雨と涙にまみれた栗色の瞳を、僕は今でも鮮明に思い出せる。あの日、激しく降る雨の中、空は確かに『願った』と、そう言っていた。


「願った……」


「お守りがあるんです」


――お守り。


 僕は鞄から空に手渡されたピンク色の巾着袋を取り出す。


「これ、空から……」


「それは……」


 たいていの事には動じなさそうな、そんな冷静な雰囲気の彼女が、動揺を隠せない様子に僕は少し驚いた。


「これが何か、知っているの?」


「私の実家、実家って秩父の神社なんですけど、そこのお守りなんです」


「君の実家ってまさか、あの、石段の先にある……」


「行かれたんですね、あそこに。あそこは運命を司る神、大国主おおくにぬしを祭っている神社です。そのお守りは、一般の参拝者には分けていない特別なお守り」


「特別な……。でも、空はそんな大切なお守りを、なぜ僕に手渡してきたんだろう」


「彼女なりの決意、だったのかもしれません」


 風そよぎ、僕らの後ろにそびえる木の葉がざわめき、そして蝉の声を遠ざける。


「決意?」


「あ、いえ、私の思い違いかもしれません……。相羽先輩も分かっていると思いますけど、私たちの前に現れた糸乃空は、この世界とは別の世界の糸乃空です。あの神社に祭られている大国主おおくにぬしは、世界と異世界を繋ぐ境界に立って、複数存在する平行世界の、あらゆるえんを司っています。大国主が縁結びの神様なんて言われているのはそのためです。この世と、あの世の運命を支配している神と言っても良いかもしれません。だから柏手(かしわで)は一般的な二回ではなく四回打つんです。幸せの、あるいはを意味するとも言われていますけど」


「死を意味する……か」


「ちょっと不気味、ですよね。そのお守りは、願うことで現実世界から消えてしまった存在へ導いてくれると言われています」


「それはつまり、死んでしまった人に会えるということ?」


「正確には少し違うのですけど、概ねそういうことです。パラレルワールドって言った方が分かりやすいかもしれませんけど、現実世界とは別の平行世界で現実の非存在に巡り合えると言うことです。だけど、想いが共鳴しあう者どうしか、巡り合うことはできません。世界を隔てて巡り合うには、引き合わせる潜在的な力が必要……そのように父から聞いています」


「それは、つまりどういうこと?」


「願った先の世界で、互いの存在を認識しあえる人は限られているということです」


 この世界に現れた糸乃空を、実際に見て、彼女の声を聴いて、会話をして、その温もりに触れることができたのは、ごく限られた人たちだったということ……。


「彼女、この学校にも来ていました。でも、その場で彼女の存在に気が付くことができたのは、私だけだった」


「なにか、特別な感情を抱いている人どうしだけが、異なる世界で巡り合えると……」


 大切な存在が一瞬で消え、それを受け入れることができなかった空は、ただ願う事しかできなかった。なぜ空があの時、僕の腕を掴んだのか今なら分かる。願った先で運命を変えたいと、願った思いを叶える為に……『こうするより他なかった』。その一言が、彼女の振る舞いのすべてだったと、ようやく気が付いた。


「空に会いたいですか?」


「会いたい……」


 もう一度会いたい。願ってくれてありがとうと、しっかり伝えたい。空のこと、ずっと忘れることはないと、そう伝えたい。


「ならば時間は、もうそれほど残されていないはずです」


「時間が、残されていない?」


「この世に無数に存在する平行世界はどれ一つとして、同じ時間軸を共有していません。私たちの世界と時間の幅やその配置が違うんです。未来、現在、過去、この三つは確かに一定の秩序を保って並んでいますが、その配置と、積み重なり方は決して一様ではないんです」


「初めて空に出会ったとき、彼女はこれから列車の脱線事故が起こることを予測できた。つまり、彼女の世界は、この世界よりも未来側に存在していたということか?」


「はい、おそらくそう言うことだと思います。空があの脱線事故の発生を予測できたのだとしたら、空の世界は私たちの時間軸よりも半日ほど未来側にあったはずです」


 あの事故が起こることを、空が予め知っていた理由。それは予知能力ではなく、時間軸のずれがもたらした、見かけ上のタイムリープだったのだ。


「一週間ほど前、先輩たちは携帯端末で連絡を取り合い、比較的長い時間を共に過ごしていました。つまり、向こうの世界とこちら側の世界の境界があいまいな瞬間が存在したという事になります」


 何故、携帯端末で連絡を取り合えるようになったのか、ずっと不思議ではあった。互いの世界の時間軸が重なるところで、二つの世界の境界が曖昧になり、現実と非現実が入り交ざっていた瞬間、僕らはほとんど同じ世界にいたのかもしれない。


「あの二日間だけは二十四時間という時間幅をほぼ共有していた、とうことか……」


「きっと、そう言うことだと思います。空の世界は、私たちの世界よりも未来の側にあった。でも一日の長さが、私たちの世界よりも長いために、やがて私たちの世界が追い付き、そして空の世界を追い越してく」


「重なり合う時間軸は、どんどん短くなって……」


「おそらくは……。あれから一週間たっているということは、空の世界から見れば半日以上、この世界の方が未来側に進んでいることになります。空の世界は私たちの昨日に少しずつ消えていくんです。そして永遠に重なり合うことはありません」


「昨日に消える……」


「お守りを使うのなら早い方が良いです。願いが本物なら、きっと巡り合えるはずです」


 ――君が願ってくれたように。


 両手に握りしめたお守りが、じんわり暖かくなるのを感じていた。

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