第22話:7月16日(sora)
放課後と呼ぶには少し遅い時間帯かもしれない。人の気配が極端に少ない教室や廊下に、昼間の暑さも幾分か和らいだ空気が流れ込んでくる。そんな廊下の窓から耳を澄ますと、ヒグラシの声が微かに聞こえてきた。音が少しだけ優しくなるこの時間が好きだ。薄暗い廊下を抜け、誰もいない昇降口で、私はキミの痕跡を探している。
「キミは、もう永遠に……いない」
空白というものは、その周囲に空白以外の何かがあって、初めて空白として存在することができる。薄暗い昇降口で、もう決して埋まることのない、
外から入り込む緩やかな風の流れが、古びた校舎の中へ抜けていった。廊下側に延びる私ではない影に気が付いて、風が吹き込んだ方向に視線を向ける。空白が鮮やかな色で彩られていく瞬間。逆光に浮き上がるシルエットに、胸元で緩められた彼のネクタイが揺れていた。
「少し歩こうか」
瑞希はそういうと、踵を返してゆっくり歩きだす。私は、ただ彼の後についていくことしかできなかった。まるで、時を追うように、キミの影の後についていくことしか……。
「なぜ……ここに」
私の問いかけに瑞希の足がピタリと止まった。ヒグラシの声がすぐ近くに聞こえる。
「大切な人が消えてしまうということが、少しは分かったような気がしている」
「うん」
「いや、空の気持ちが分かるとか、そういうこととは少し違う。だって、誰かの気持ちをそのまま理解するなんて、きっと不可能だと思うから」
誰かを理解するなんて、そう簡単にできることじゃない。私もそう思う。『誰かのために……』 なんて言葉、私は好きじゃない。
「でも、分かり合えないって、本当にそうなのかなって思うんだ。共有できる何かが無ければ、きっと一緒にいたいと思わないし、もっと話しがしたいなんて思わないだろ?」
そう言って私を振り返った瑞希の瞳には、微かに涙が光っていた。
――ありがとう。私のために泣いてくれて。本当にありがとう。
「キミは私と一緒にいたいと思うの? 私ともっと話しがしたい?」
「はじめは良く分からなかった。でも、ほんのちょっとの時間だけど、空と一緒にいて、話をして……。そうしていると、なんていうか、同じ物語の内にいるというか。いや、ごめん。うまく言葉にできない……」
「同じ物語……」
「言葉だけで、誰かを理解するなんてこと、俺は無理だと思う。言葉の裏側には、いろんな考え方があって、それは人それぞれだし、どんな言葉を、どう伝えるかって、何かルールがあるわけじゃない。もちろん、その言葉をどう受け入れるかについてもそうだと思う」
空は青い、というような単純な表現でさえ、そこには様々な解釈の可能性がある。良い天気だね、とか、空気が澄んでいるね、とか……。
「でも、それじゃ、お互いにいろんな考えがあるよねって。噛み合わないのしょうがないよね、で終っちまう。だから、俺は、物語を共有すること、あるいは同じ物語を歩けることが大事なんだなって思う。物語なんていうと、なんだか、子供っぽくておかしいんだけど、でもそう言うより他ないっていうか」
考えをそのまま言葉にすることなんてできやしない。だから厳密な意味で人は相互理解不可能なんだと思う。でも、私にはキミの言葉が分かる気がする。一つの言葉に、沢山の意味や価値が含まれているなかで、互いに同じ景色を垣間見るために必要なのは、言葉だけではない何かが必要ななんだ。物語をキミと少しでも共有できていたのなら……。そうであったのなら、私は素直に嬉しいと思う。
「キミは、私と同じ物語の中にいた?」
「少なくとも俺はそう思っているよ。物語にすることで、物語を話してくれることで、悲しみも、苦しみも耐えられるようなものに変わっていくのだと思う。感情は決して消滅するわけじゃないけど、でも、そんな感情と共に生きていくことはできる」
――言葉は感情を超えて大切な人に届く瞬間がある。きっと。
「どうして……」
私は瑞希に駆け寄り、彼の胸を拳で叩く。何度も何度も叩く。彼はそんな私をそっと抱きしめてくれた。キミはこんなにはっきりと、確かに存在しているのに……。なんでそんなに……脆いの。
「空……」
「どうして私を置いて消えてしまったのっ」
「ごめん。本当に。辛かったな」
ちょうど良いくらいの心的な距離。それを私はずっと分からないでいた。最適な距離感と言うものが分からなくて、空気が読めなくて。だから、いつの間にか人とずれてしまう。私は、きっと間違えて人に生まれてしまったのかもしれないと、本気でそう思った。
「瑞希のばかっ」
同じ物語の内にいる……。『距離なんてものは、おのずと定まるもの』と言った瑞希の言葉の意味が、今ようやく分かった気がする。
「僕らの物語、ここで終らせてしまってはいけないと思うんだ」
「瑞希?」
「これは返すよ。これは俺が持っているべきものじゃない」
そう言って彼がポケットから取り出したのは、あのお守りだった。
「お守り……」
「なあ、空。花火の続きをやらないか? この間はあんな天気になってしまったから。明後日で最後……なんだろう? 最後の時間まで、俺は空と同じ景色を見ていたいと思う」
「同じ景色……」
「秩父の神社でお別れしよう。夜の十時に、駅のホームで待っている」
誰かと一緒に見たい景色がある、というのはとても素敵なことだと思う。誰かと情動と記憶を共有できるのなら、それは幸せなことに違いない。
『例えばさ、記憶が、自分の中に宿っているんじゃなくて、どちらかというと、世界の側にあると考えたらどうかな。茜色の空とか、心地よい波の音にふっと記憶が再生されるから、やっぱり記憶は世界の側にあると思うんだ』
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