第19話:7月7日(七夕)

 こちら側でもなく、あちら側でもない。ただそこにあるものを私は見ていたい。朱に染まる東京郊外の街並みを見下ろしながら、世界にも私にも還元できない場所にいるのだと改めて思う。


「すごい。あんなに遠くまで……」


 手前に広がる住宅街の向こう側には、都心部にそびえる高層ビル群のシルエットが見える。夕空に浮かぶ小さな赤い航空障害灯の点滅は、ビルの輪郭をしっかりと形作り、やがて闇に消えていく景観の存在を知らしめる証となる。


「どう?」


 観覧車の小さなゴンドラは、風に揺られながら、ゆっくりと、でも確かに上昇を重ねていく。時間が流れるというメタファーは、わずかではあっても確実に移動していく存在の影が、刻まれる「時」だと錯覚することによって生み出されるのだと思う。この観覧車が一周した分だけ経過した時間と、そこに刻まれていく物語は、決して同値ではないのに。


「うん、瑞希くん。ありがとう。こんな景色を見たのは久しぶり」


 ありがとう……。あと何回、キミにそう伝えることができるだろう。


「なあ、空。明日、地元で花火大会があるんだ……。一緒にどう?」


「うん」


 出逢ってくれて、ありがとう。


「えっと……、良いの?」


「うん」


 最上部に近づくにつれて、風が強くなっていくのだろう。ゴンドラがの揺れが少しずつ大きくなっていく。高所と閉所が苦手な瑞希みずきの表情から、いつもの余裕が少しずつ消えていくのが、なんだかおかしかった。


――ごめんね、わがまま言って。



 二十四時間という時間幅を二つの世界が共有する。そのタイミングが七夕の日だというのは、ただの偶然なのだろうか。一見すると、偶然性の対極にあると考えてしまいがちな必然性も、良く考えれば偶然性の上に成り立っているような気がする。ただ、やっぱり二つの平行世界が一瞬だけ交わる瞬間が七月七日なんて、まるで織姫と彦星の伝説みたいに思えてしまう。


 天の川を挟んで光り輝く二つの存在とその距離。東の夜空に輝いているはずのアルタイルキミはこの場所から見ることができない。空は藍色に澄んでいるのに、河川敷の向こう側に立ち並ぶ高層マンションの影がキミを隠している。私にとって再会の願いが叶う時間は、もう永遠に訪れることはないのに。


「例えばさ……。例えば、いまこの瞬間、俺ら二人を除いて時間が止まったら、どうなるだろう」


 花火大会が始まろうとしている河川敷で、瑞希は夜空を見上げながらそう言った。「例えばさ……」で始まる彼の話に、過去の記憶が一瞬にしてフラッシュバックする。私はこの話の続きを知っているけれど、もう一度だけ聞きたいと思っていたよ。だって、ずっと考えてきたんだもの。時間ってなんだろうって。


「時間?」


「そう、時間が止まったとしたら」


 時間は止まることを知らない。それはいつの間にか私を追い越していて、その背中を追いかけても、キミの影しかつかめない。そして、その影さえも、やがては見えなくなる。決して追いつけない、それが私にとって時間と呼ばれるものの姿。


「時間が止まるってどういうことなのか、ずっと考えてきた気がする」


 瑞希はそう言って、東の方角を見つめる。彼の視線の先には琴座のベガがくっきりと光り輝いていた。あまりにも輪郭が鮮明で、その眩しさに思わず目を細める。私はやがて、この世界で星になる。そしてキミは私の世界で星となっている。


「時が流れないで静止してしまったら、たとえ意識があっても、きっと動けない。だから声も出せない。もしかしたら考えることさえもできないのかな」


「時が流れる……」


 ―-時は流れない。そうだよね。もう分かってるよ。


 涙なんてもう枯れたと思っていたのに、積み重ねられた過去の光景が再び舞い上がってきて、どうしても溢れてきてしまう。目の前の瑞希は、私の中に沈殿していた記憶の一断片なんかじゃなくて、今を形作っている事実なのに。涙って枯れないんだね。


「なあ、空……。時間って本当に流れているのかな? 時間って、視線の向け方で、現在にも、過去にもなり得るのかなと、俺はそう思うんだ」


「時は流れない……それは積み重なる。でしょ?」


「なんで……。なんで俺が考えてること、分かったの?」


 昼間、あれほど忙しなく鳴いていたアブラゼミの声はどこかに消え、かわりに夏虫の鳴き声が、喧騒にまみれて微かに聞こえてくる。


「瑞希くんの考えていることは、なんとなくわかる」


 そう言い終らないうちに、目の前が一瞬にして明るくなり、夜空に舞い上がった速射連発花火の破裂音が、私の声をかき消していった。その鮮やかさに含まれる抗いようのない強い力。花火が苦手なのはきっと……。


「音が……、きっと、音が苦手だったんだと思う」


「音……」


 上空を染める色とりどりの閃光から放たれ、やや遅れて空気を震わす花火の炸裂音は、私の声から感情をそぎ落とすように迫ってくる。胸をえぐる振動よりも先に、私から声を奪っていくんだ。


「音でかき消されてしまうようで」


「かき消されるって、いったい何が……」


「私の声……。助けを呼んでも誰も来ない。想いも伝わらない。大きな音がある世界は、とても孤独なんだ」


 打ち上げられた数個の尺玉は、私たちの遥か上空で炸裂すると、夜空を華麗に舞う無数の火花に姿を変え、そして私を孤独の世界に閉じ込める。四方を闇が取り巻き、私はそこからどうあがいても抜け出すことができない。


「ちゃんと、ちゃんと届いているから大丈夫」


「ありがとう」


 ありがとう。もう一度、言えたね。

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