第17話:7月4日(宵闇)

 私は祖母の家を出ると、来た道を戻りながら、駅の反対側へと向かった。いつの間にか時刻は六時を回っていたけれど、夏至を少し過ぎただけのこの時期、外はまだ十分に明るかった。


 駅前の幾つかの建物を除いて、私の記憶と大きな相違はない街並みを足早に通り過ぎていく。この道は、山本千里やまもと ちさとの実家へと続く道。しばらく歩いていくと、目の前に赤い鳥居が見えてきた。


 鳥居をくぐると、拝殿へと続く苔むした石段を登っていく。この場所に漂う空気は、夏に似合わない涼しさを含んでいて、少し肌寒い。神々しいなんて大げさな話ではないけれど、先ほどまでの不快な暑さとは無縁の場所だった。


 本殿の脇を通り過ぎ、社務所をこえると、その先には墓地が広がっている。神社の隣には寺があるのだ。私のお墓はその敷地のはずれにあった。墓標には、父の名前の隣に私の名前が刻まれている。たまに祖母が来てくれているのだろうか。水鉢には空色の紫陽花が供えられていた。


 木々の間から微かに漏れる日差しに、昼の勢いはない。それはもうじき闇が来ることの予兆。私はお寺の本堂へと続く古びた階段に腰を下ろした。どこから現れたのか、一匹の猫が私の足元で横になる。


「キミも一人なの?」


 そんな問いかけに、真っ白なその猫は、私の隣にやって来ると、大きく欠伸あくびをして、前足をお腹に折りたたむようにして座った。


「二時間……」


 私の世界と、この世界では、一日経過するごとに二時間のずれが生じている。それは私にとっての一日というものが、この世界の時間軸では二十六時間と等しいことを意味していた。


 最初は私の世界の方が時間軸の前方にあったのだろう。だからこの世界で何が起こるのか、あらかじめ知ることができた。でも二時間という時間軸のずれによって、この世界の今日は、やがて私の世界の今日を追い越していく。


「この世界にとってみれば、いずれ私は昨日に消えていく存在なんだ……」


 気が付けば陽も落ち、辺りはすっかり真っ暗になってしまった。隣で寝転んでいた猫の姿はいつの間にか消え、ひんやりした風に、木々に生い茂った葉のこすれる音だけが響いている。


 私は鞄を肩に掛け直すと、神社の本殿へ向かった。詳しい所以ゆえんは知らないのだけれど、祖母が『お守り』と呼んでいるピンク色の巾着袋は、この神社に代々伝わるものだったはずだ。運命を司る神、大国主おおくにぬしが祭られている神社。ここはまた、山本千里の実家だった。


 私は、拝殿の前で二礼すると、ゆっくり手を合わせた。小さく深呼吸をしながら、目をつぶり四拍手する。『願ったんなら叶えてしまえな』という祖母の声が、私の中で優しく響いていた。


「叶えられるような願いじゃないよ、おばあちゃん……」


 最後に一礼して、拝殿を後にすると、私は足元を確かめながら、薄暗い参道を下りていった。手すりに取り付けられた小さな白熱電球が、微かに足元を照らしてくれているけれど、苔むした石段は滑りやすくて、気を付けないと転んでしまいそうだ。


 石段を中腹まで下りてきた時だった。前方から微かに聞こえる足音に気づき、慌てて視線をあげる。下ばかり見ていたから、気が付くのは私の方が遅かった。


「空……」


 目の前に立っている相羽瑞希あいば みずきは、唖然とした表情を浮かべつつも、微かに私の名を呼んだ。いずれ昨日に消えてしまう私は、この世界で瑞希に関わってはいけない。だから立ち止まるわけにはいかないの。それなのに……。


「なんで、キミがこの場所に……」


 私は、ただ立ち尽くしている瑞希を残して、階段を下っていく。振り返ってはだめ。


「おいっ、ちょっ待てって。あの、携帯にメッセージ、送ったんだけど」


 メッセージ……。そんなの届くはずない。私たちはね、違う世界にいるの。


「ちょっと、待って……」


「もう時間がないので……。これ以上、こっちに来ないでください」


――消える。


「時間がないって、いったいどういう事だよっ!」


 あの時と同じ。私は明日と昨日の間に消えていく。でも、きっと大丈夫。ただ元の世界に帰るだけなのだから。そして私はもう二度と、この世界に来るべきじゃない。あるべき場所に、あるべき姿で……。運命を愛せよ。きっと何一つ無駄なことはないはずだから。

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