第16話:7月4日(午後)

 埼玉県と言っても、都市部からはかなり離れた場所にある私鉄路線の小さな終着駅。私は小さな駅前のロータリーを抜け、古びた商店が立ち並ぶ市道を、しばらく道なりに進んでいく。視界の左右には田園風景が広がっており、青々とした稲穂が、風にそよいでいて、まるで緑の絨毯が空を飛んでいるようだった。


「懐かしい……のかな」


 懐かしい風景というものは、人が作り出したある種の幻想なのかもしれない。微細な変化は、時間の経過と共に連続的存在している。だから、懐かしさは日々生み出されている変化に気づかないがために構成される情動の一種なのだと思う。


 記憶の中にある『知っている街並み』と、目の前にある『現実の街並み』には少なからずギャップがあって、だからこそ厳密には一致しえない。そういう意味では、私たちは常に知らない街を歩いている。あるいは常に知らない世界にいる。


 田園風景を横目に、小さな角を曲がると、道はやや上り坂となる。道の両脇には、私の背丈ほどもある大きな雑草が生い茂っていた。虫の音色に包まれた緑の景色に挟まれ、しばらく歩みを進めると、石垣に囲まれた大きな家が見えてくる。それは、祖母が亡くなってから、程なくして取り壊されてしまったはずの家。この世界ではあの当時の荘厳さを失うことなく、静かにたたずんでいた。


 大きく開かれた門扉を抜け、敷地内に入ると、庭に生い茂った草木から、湿気を孕んだ夏の匂いがこぼれてくる。右手には農作業に使う道具類が無造作立てかけられた倉庫が見えた。子供の頃、秘密基地なんて言いながら千里ちさとと良く遊んだその場所は、あの頃と変わらず同じ場所にあった。ぬかるんだ地面をさらに奥へと進み、私は母屋の玄関の前に立つと、少し強めに扉を叩いた。


「誰もいないかな……」


 腕時計を確認すると、時刻は午後四時。この時間、祖母はまだ畑仕事をしているのだろう。扉に手をかけると、案の定、鍵はかかっていなかった。私はうしろめたさを覚えつつも、懐かしさ漂う家の中に入って行った。


 土間作りの台所に置かれた時計の秒針が、相変わらず静かな空間に大きな音を響かせている。子供の頃、奥の和室にも響いてくるこの時計の音が、なんとなく怖くて、いつまでも寝れないでいた。


「今日は四時間のずれ……」


 昨日、あの公園で私の身体は透明になって、そしてこの世界から消えた。その瞬間は、私の世界で日付けが代わった瞬間と同じだった。視界に色が戻って意識がはっきりすると、私は自分の部屋のベッドの上で、制服を着たままお守りを握りしめて泣いていた。視線の先に微かに見えたデジタル時計は午前零時を示していた。


 ――明日が昨日になる瞬間。いったい今日はどこにあるんだろう。


 あれから、少しだけ時間のずれについて考えを巡らせてみた。昨日の時間のずれは五時間程度だと思っていたが、正確には六時間だったことが分かった。そして、最初にこの世界を垣間見ることになった六月三十日の時点では、やはり十二時間のずれであったとしか考えられなかった。


今日は四時間のずれ………。これまでの時間軸を考えれば、一日たつごとに、二つの世界の時間のずれが、二時間ずつ減っていることになる。


 台所の奥にあるふすま扉を開けた先の和室には、大きな仏壇がひっそりと置かれていた。夏の日差しが障子扉を透過して、優しさを帯びながら畳の敷き詰められた室内を照らしている。


「私……。本当に死んでいるんだ」


 柔らかい光に照らされた仏壇の上には、常陽じょうよう高校附属中学の制服を着た自分の写真が飾られていた。私は、仏壇の向かいの障子扉をそっと開けてみる。目の前には裏庭が広がっていて、縁台の先には、空色をした紫陽花あじさいが咲いていた。風通しが良くて、とても心地よい縁台。私はいつだってここに座っていた。


「空よ……」


 懐かしい声に思わず振り返る。何年振りだろう。私の名前を呼ぶ祖母の声を聴いたのは。認知症の症状が進行するにつれて、私の名前さえ忘れてしまったから。


「ああ、やっぱり空じゃね。久しぶりじゃねぇ。今日はどうしたんさ?」


「おばあちゃん……」


「紫陽花が綺麗じゃろう? 空色の空。お前の空じゃよ」


 空という、私の名前は祖母が付けてくれた。この庭の紫陽花の空色が大好きだったんだって、そう母から聞いていた。懐かしさとか、嬉しさとか、悲しさとか、苦しさとか……。いろいろな感情が溢れ返って、どんなに頑張っても、こらえようのない涙で、視界がぐちゃぐちゃになっていく。


「どうしたんじゃ。ほれほれ、そんなに泣かんと」


 腰は曲がっていたけれど、しっかりとした足取りで私の前に立った祖母は、私をギュッと抱きしめ「ほんによう来てくれたなぁ」とだけ言って、子供の頃、良くそうしてくれたように私の頭をそっと撫でてくれた。


「おばあちゃん、これ」


 スカートのポケットから取り出したピンク色の巾着袋を、祖母は黙って眺めていたけれど、やがて、私がなぜここにいるのか、はっきりと理解したようだった。


「おばあちゃん、教えてほしいの。私はこの世界にもう来れなくなるの?」


「空、時間の流れが違うんじゃよ、お前の世界とこの世界では」


「時間の……流れ」


 時間は流れているのだろうか。いつだったか瑞希は、『時間は流れるもんじゃない』って言っていた。一日を二十四時間かけて思い出す人はいないだろうって。


 時間は積み重なっていくもの。そしてその積み重なり方は、人それぞれ特定の関心に依存している。残したい記憶だけを積み重ね、残したくない記憶は積み重ねない。いえ、関心のない出来事はそもそも積み重ねようにも記憶にすら残っていない。


 でも、残したくないと願っても、勝手に積み重なっていく記憶だってたくさんある。過ぎ去った時間は流れているのではなく、それは時に理不尽な仕方で積み重なっていくんだ。


「そうじゃ。一日が二十四時間、そんなのは当たり前のことじゃ。でも二十四という時間の幅そのものが、当たり前ではないんだよ。これはなぁ、とても大切なことじゃ。世界は常に並行して存在するわけじゃないということだよ。いずれ昨日に消えたり、明日に現れたり、そういうもんなんじゃ」


「私は、いずれこの世界の昨日に消えてしまって、もうここには来れないの?」


「そういうことじゃ、空」


 それは残酷な結論なのだろうか。それともこの世界を垣間見ることができただけでも奇跡と呼ぶべきなのだろうか。私にはよく分からない。ただ、同じ瞬間を、時代を過ごせるということが一番の奇跡なんだと思う。誰かとの出会いは、ほんのちょっとした運命の歯車のかみ合わせ。でも、そんなほんの些細なことこそが、常に決定的なのだと思う。


「ありがとう、おばあちゃん。もういかなきゃ」


「ああ。お前に会えてよかったよ。元気でな」


 煤けた玄関で振り返った私に、祖母は手を振りながら、「願ったんじゃろ?」とだけ言った。


「え?」


「願ったんなら叶えてしまえな、空や」


「おばあちゃん……」


――運命を愛せよ。与えられたものを呪うな。生は開展の努力である。生の全てを愛せよ、そして全てを最も良く生かせよ。

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