第15話:7月3日(午後)
記憶にとって、夢が現実かどうかは、それほど大きな問題ではないと思う。それは「終わる現実」なのか、あるいは「終わらない現実」なのか、その狭間における程度の差にすぎないから。
――大切な記憶は、ただ消えないよう、願うばかり。そうでしょう?
幼いころから、私にとって死はあまりにも身近だった。死に痛みや恐怖が伴わないのであれば、桜の花びらが風に舞い散っていくように、人はもっと空気になじむように死んでいくに違いない。死に対する恐怖というものは、本当のところは死に方に対する恐れなのだと思う。だって、死に方は生き方そのものだから。
「時間のずれ方が違う……」
この世界は、私の世界の時間軸とは、半日ほどのずれがあったはずだった。だから私はあの時、この世界で何が起こり得るのかを予測できたし、実際にあの脱線事故は起こってしまった。
でも、今日に限って言えば、それほど大きな時間のずれを感じない。私の世界では、おそらく二十二時を回っている頃だと思うけれど、こちらでは夕刻が迫る時間帯。確かに過去性を帯びた世界なのだけれど、そのずれは四時間から五時間といった程度のもの。別の平行世界を垣間見ている可能性はあったけれど、風景の色彩は、間違いなくあの時と同じものだった。
陽が傾きかけている西の空に、団地街のシルエットが優しく浮かび上がっている。小さな公園をいくつか通り抜け、細い路地を曲がった直後に、私は少し前を歩いていた
「あのっ」
午後の風が私たちの間をすり抜けていく。本当は声をかけるつもりなんてなかった。ただ、瑞希の後姿を見ていたかっただけ。立ち止まって振り返った彼の前髪が微かに揺れていた。
「今日は何?」
今日は……。平行世界で、誰かに私のことを覚えてもらった経験はあっただろうか。痕跡としてではなく、確かな現実の記憶として。でも、この世界にとってみたら、私のアイデンティティーなんて、きっとどこにもない。
「あれ、
「えっと……、それは……」
「何年?」
「一年です」
初めて彼に出会ったとき、私はまだ中学生だった。瑞希に対する想いは、たぶん一目惚れのようなものだったんだと思う。
「向かいの公園で、少しだけ話をしないか?」
意外な瑞希の提案に、私は思わずコクンとうなずくと、先を歩き出した彼の後について歩いた。
周囲を団地に囲まれた小さな公園には、三人組の小学生がブランコの周りではしゃいでいる。二人乗りが楽しいのか、かわるがわる場所を変えながら、ブランコを大きく揺らしていた。その反対側からは犬を連れて散歩している人が、さらに向こう側には、大きな買い物袋を両手に持った女性が足早に団地の中に消えていった。
「本当は……、本当はもう会ってはいけないって、そう決めたのに……」
私はベンチの上で、両膝を胸の前で抱えこむ。この世界で君に会えたとしても、君は私の知る瑞希ではないし、君だって私のことを知らない。私の知る瑞希はもう、どこかの景色に消えてしまった。
「
涙がどうしようもなく溢れてきて、私はしばらく顔をあげることができなかった。
「だって、きっとこれはあり得ない現実。それに……」
それに、この世界で私は既に死んでいる……。そして、私の世界に君はもういない。どうして世界はこうもすれ違っているの?
「現実って、そもそもあり得ないことの連続なのかもしれないよ……」
そう、あり得ないことばかりの連続。それは必ずしも奇跡の連続を意味していないでしょう? 絶望の連続だって……。
「ああ、いや、なんていうか、あのさ俺。お礼が言いたくて……」
「お礼……」
「この間はありがとう。お前がさ、あの時、俺の腕を引っ張ってなかったら、ほんとに死んでたと思うんだ。別に生きることに執着しているわけじゃないけど、なんというか、まだ死ぬには早いと言うか」
「ダメっ」
「え?」
七月だというのに陽が落ちかけると少しだけ肌寒くなる。気付けはブランコではしゃいでいた小学生たちは、いつの間にかいなくなっていた。
「死んでしまってはダメ」
夕空が迫る、宵闇の少し手前。どこかノスタルジーな薄い朱色が空を包み始める。
「あ、ああ……。そうだよな」
そんな私たち二人の影が、砂の地面に長く伸びていた。天空に映し出される、現実と虚構の境界線。その狭間を揺らぐ私という存在。いえ、それはむしろ非存在と呼ぶべきもの。
「生きて。瑞希君は絶対に生きて」
夢がずっと続く現実なら良いのに。でも、それだけは願っても叶わないこと。
「わかった。わかったから……。大丈夫、心配するな」
そう言って、瑞希はまるで子供をあやすように私の頭を撫でてくれた。
「約束……」
「うん、約束だ」
約束は過去の出来事の受動的な記憶とはちがう。それは、はるかに能動的で積極的な意志の記憶。あるいは記憶の意志。
「なあ、糸乃……」
「空でいい」
――空がいい。
「えっと、空? お前には、その……。先のことが見えるのか? つまり、未来が予知できるとか……」
「少なくとも、もう先のことは分からないの」
たぶん、もう私には分からない。私は過去に戻ってきているわけはないので。
瑞希はしばらく黙っていたが、やがて「連絡先、教えてくれないかな」と言うと、ズボンのポケットから携帯端末を取り出した。
「きっとつながらない。それでも良ければ……」
私も、鞄の中から携帯端末を取り出すと、その画面にソーシャルメディアのメッセンジャーアプリケーションを立ち上げ、アカウントの二次元バーコードを表示させた。
「つながらないって、電波の届かないところに住んでいるとか?」
瑞希は自分の端末を空の端末に重ね合わせて、私のアカウント情報を登録する。
「概ねそう」
「えっと……、マジ?」
私を覗き込む瑞希の顔が少しだけ真顔で、そんな表情になんだかおかしくなって、思わず笑ってしまった。あの事故以来、笑うってどういうことなのか忘れていた。
腕時計を確認すると時刻は六時に迫っていた。陽はまだ沈んではいないけれど、緩やかに吹きぬけていく風に、昼間の熱気はもう含まれていない。瑞希と別れた後、私は彼が暮らしている街並みをもう少しだけ眺めていたくて、一人で公園のベンチに座っていた。
時間のずれ方の相違。もし、二つの世界で、時間の流れるスピードが異なっているのだとしたら……。
辺りがあまりにも静かだなと感じたときには、その異変は既に起こっていた。最初は目が霞んでいるだけかと思っていたのだけれど、やがて実感を伴ってそれはやってくる。手の輪郭が、景色にゆっくり溶けていくんだ。
「えっ?」
決して痛みはないのだけれど、胃の底から湧き上がる不安の感情に胸が押しつぶされそうになる。それは、手だけじゃない。腕や足、自分の体そのものが少しずつ透明になっていく。
「消える……」
夢は終わる現実なのだと思い知る。視界が色彩を失い、ただ真っ白になって崩れていく世界の中で、自分の声さえも、私に届かなくなっていく。
「いやだ、私は消えたくない」
――私を消さないでっ。
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