第14話:7月3日(午前)

 結局、私はあの総合体育館でしばらく意識を失っていたらしい。もちろん、自分が茶色の冷たい床の上に倒れ込んでしまった記憶もなければ、体育館ホールの隅に置かれた硬いベンチに寝かされたことさえも覚えていない。たまたま私たちの近くを通りかかった救急隊員が、貧血だろうから、しばらく休めば意識も戻ると瑞希みずきの母親に伝え、私をこのベンチに寝かせてくれたらしい。館内の壁に設置された大きなデジタル時計に視線を向けると、時刻は既に二十一時を回っていた。


 ――私が見ていた世界、それはきっと、あの時と同じ。


 世界がすれ違っていくその瞬間を私は知っている。世界は、たった一つのピースが違うだけで、全体がまったく別物になってしまうような、そんなディテールの集積。そうした経験の中で世界は成り立っているんだと、私は幼い頃に知った。


『このお守りには、とても強い力があるんじゃ。願えば、いくつかの違う景色を見ることができる』


 父が亡くなったその日、祖母はずっと泣き腫らしている私の横に座って、ピンク色の小さな巾着袋を渡してくれた。その中を開けて覗いたことは一度もないのだけれど、祖母はこの巾着袋を『お守り』と呼んでいた。


『空、お前が本当につらい時、そんな時はこれをしっかり握って、そして願ったらいい。このお守りは、お前が大切に持っておきなさい。でも、とても強い力があるから、決してみだりに使ってはならんよ』


 いつになく真剣な表情でそう言った祖母の顔が印象的で、私はそのお守りが少しだけ怖かった。まるでおとぎ話のような祖母の。でも、それが単なるではないことを、やがて思い知る。


 それは、小学生の頃。景色が昨日とほんの少しだけ違って見えるのだけれど、一見するとどこが違うのか分からない。それは世界から一つだけ色が欠けているような感覚に近いもの。欠けているのが何色なのかはよく分からないのだけれど、景色に奥行きがないのは、欠如した色彩によるものなのだと分かる。


 私はその景色の中で、他界したはずの父に出会った。でも、父の記憶の中には、私の存在そのものが含まれていなかった。私のことが分からないのではなく、そもそも知らないということ。それは私の頭の中にある世界の記憶と、目の前の世界がまるで違うことを意味していた。


 後に平行世界という言葉を知ることになるのだけれど、私のことを知らない父の前で、このお守りの力がどんなものなのか、それが何を私に見せるのか、その意味が少しだけ分かったような気がして、頭の中が真っ白になっていった。それはやがて耐え難いほどの恐怖の感情に変化していき、じっと目を閉じていたら、神社の軒下で意識を失ったまま倒れていた。


『違って見えるのは、きっとほんの少しのことじゃ。でもな、空よ。決定的に違うことがある。それは、少し難しい言葉を使えば、運命というようなものと……。それと、そうじゃなぁ、時間の流れ、というべきだろうか……』


 この世界そのものが物語のようなものなのかもしれない。虚実で切り分けられるような仕方で世界は成立していないのだと思う。何本もの平行的な時間軸が、互いに折り重なりあいながら世界を複雑に構築している。私たちは特定の関心や立場からでしか、世界を見ることができないから、ただそれが唯一の世界たと錯覚しているに過ぎないんだ。


 このお守りと、その力は安易に使うべきものではない。十分に理解しているつもりだったのに……。


 登校する時間としては、少しだけ早いかもしれない。古びた常陽じょうよう高校の木造校舎は、この世界でも相変わらず建て替えられる気配はなかった。 『違って見えるのは、ほんの少しのこと』 という祖母の言葉に、大きな誤りはないのだなと、妙なところで感心してしまう。夏の日差しを浴びながら、私は新校舎建設予定地と書かれた看板の横をそろりと抜けていく。さすがに正門から入る勇気はなかった。


 もしこの世界の私に出会ってしまったら、いったいどういうことが起きるのだろう。そのことについて、一度だけ祖母に訪ねたことがあった。だけれど、既に認知機能障害が出始めていた祖母は『めったなことで願ってはいかん。でも願ったんなら、叶えてしまえな、空や』と繰り返すだけで、何も教えてはくれなかった。


 校舎の裏手から昇降口に入ると、相羽瑞希あいば みずきの靴箱を目で追う。くすんだ茶色の下駄箱に、黒い革靴が無造作に詰め込まれていて、彼は既に登校している様子だった。


『願ったんなら、叶えてしまえな……』 


 晩年、認知症を患っていた祖母は、私に会うたびにその言葉を繰り返していた。そして、いつしか私のことも分からなくなって、二年前に他界した。


「願ったんなら……」


 廊下を横切って行く同じクラスの友人を数人見かけたけれど、私に視線を向けて話しかけてくる人はいなかった。この世界に私の居場所はない。でも、瑞希は確かに生きている。願ったことの行方、もうそれだけで十分だよ。


 疎外感だけが募っていく閑散とした昇降口で、私は小さく深呼吸する。微かな木の香りが、冷え切った心を少しだけ暖めてくれたような気がした。


「空……」


 突然声をかけられ、私は驚きのあまり後ろを振り返った。


「千里……」


 目の前に立っていたのは山本千里やまもと ちさとだった。彼女は、母の妹の長女であり、私とは従妹いとこの関係にある。山本家は、埼玉県は秩父にある神社の神主の家系、つまり社家しゃけだった。私が祖母の家に住んでいた頃は、千里もよく遊びに来ていて、小さなころからとても仲が良かった。


「空……なの?」


 目の前の千里は私の存在を知っている。異なる世界では、存在を知らないか、あるいは知っていたとしても痕跡のみ。


「千里、あの、これは……」


「本当に空なの?」


「えっと、そうなんだけど……」


 千里は手に持っていた鞄をどさりと床に落とすと、いきなり私に飛びついてきた。そんな彼女は私の腕の中で小さく泣き震えていた。


「千里……。どうしたの」


 泣き崩れていく千里を抱えながら、彼女の鞄を拾うと、私たちは新校舎建設予定地のはずれに向かった。


 旧校舎からやや離れた場所に木製のベンチがぽつんと置かれている。ベンチの後ろには大きな桜の木が植えられており、生い茂った緑の葉が、熱気を帯びた初夏の日差しを遮ってくれた。


「幽霊……じゃないよね」


「うん。でも、この世界の糸乃空いとの そらじゃないんだ。千里なら、なんとなくわかるでしょ?」


「うん、なんとなく……ね。あの、空はね、三年前に……もう」


「そういうことか」


 この世界の私は既に死んでいる。だから私の存在は、その痕跡のみ。


「白血病だったの。空、風邪をひいてしまって、そのまま肺炎で……」


 そう言うと、千里は両膝を抱えたまま、顔をうつぶせ、そして小さく肩を震わしていた。


「私のせいなの……」


「千里のせいじゃない。だから大丈夫」


 意志は行動の傾向性なのだと思う。傾向性の文脈から責任らしきものが見えてきたとしても、最初から真の責任なんて存在しないんだ。誰かのせい……なんて。そんな自己の責任だけで割り切れるような出来事ばかりじゃないよ。


「抗原型、一緒だったの」


「えっ?」


 千里と私は従妹どうしだったし、きっと白血球型抗原が似ていたのかもしれない。つまり、白血病の私に千里の骨髄を移植すれば、病状が改善したかもしれないということ。


「検査や骨髄採取のための入院がとても怖かった。怖くて……。だから決めかねてたの。でも、私の骨髄を移植すれば空は助かるかもしれないって。だから私、ずっと考えて、やっと覚悟ができて……」


「うん」


「手術の予定日も決まって……。でも、そんな時に肺炎を起こしてそのまま……。あまりにも突然の出来事で……。そんなの嘘だよねって……」


「うん。大丈夫だよ、千里」


「空の方が私なんかより、もっと怖いはずだったのに……。私がもっと強ければ、こんなことには……」


「大丈夫」


 震える彼女の小さな背中を、私はただ抱きしめてあげることしかできなかった。やがて千里はゆっくり顔をもたげると、涙にぬれた瞳で私を見上げ、「空のおばあちゃんね、秩父ちちぶにまだ住んでる」とだけ言った。


 何かを分かるのと同じだけ何かが分からなくなるように、強さと弱さは同時に増していくんだと思う。それは必ずしもコントラストがはっきりして輪郭が鮮明になる、ということではないのだけれど、そうした経験の積み重ねが、明日を形作っているのだとしたら、そこにはきっと希望に繋がる何かがあるんだ。「例えばさ……」で始まる物語のように。

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