第13話:6月30日(午前)

「お願いですっ」


 言葉は相手に届くよりも前に、まず私自身に響く。あらゆるメッセージは私の中にくさびを打つように食い込んでなかなか離れない。それを外部に向けて、もう少しだけ届くように……。


 自分でも驚くほど大きな声を出してしまったことに、はっと我に返る。私の目の前で、小さなため息をついた相羽瑞希あいば みずきは、列車の乗り場とは反対側に視線を向け、人の流れとは逆行するように歩き出した。慌てて彼の後についていきながら、駅のコンコースへと続く階段を二人で登っていく。


 通勤時間帯のピークはすぎてはいたけれど、改札付近は忙しなく歩く人たちで混雑していた。この駅にはいわゆる駅ナカと呼ばれる商業スペースが広がっていて、その利用客も多いのだ。私はその一角にある小さな喫茶店の前で瑞希を振り返った。


「ここで少しだけ、一緒にいてください」


 私の行動にどんな意味があるのだろう。そんな焦燥に駆られる。後続の列車が、あの忌まわしい事故現場に追突することによってもたらされる二次災害の可能性。それを考えると、私には他にやるべきことがあるはず、という強迫観念が繰り返し迫ってくる。でも、いったい誰が私の話を信じてくれるのだろう。そもそも、この世界であの脱線事故が発生するかどうかだって、本当のことは分からないのに。


 瑞希は少し間をおいて、腕時計を確認すると、「少しだけなら……」とつぶやいた。


「ありがとうございます」


 目の前でさっと開いた自動ドアをくぐり、カウンターの上に掲示されたメニュー表を眺めながら思考を整理する。無意味も含めて、私は私にとっての意味を回収するより他ない。幸いなことに、黒を基調とした内装は、オレンジ色の間接照明に照らされ、その落ち着いた雰囲気が私の心を取り巻く焦燥を和らげてくれた。


「アイスコーヒーで良いですか?」


 私の問いかけに、瑞希は軽くうなずく。程なくしてカウンターに置かれた二人分のアイスコーヒーを、彼は手際よくトレイに乗せ、それを持って窓際のテーブル席へ向かった。


「あの、名前。名前は?」


 二人掛けのテーブル席に座った彼は、コーヒーにストローをさしながらそう言う。


「えっと……」


 やっぱり、目の前の瑞希は私のことを知らない。でも、その理由はもうなんとなく分かる。単に過去に戻ってきたわけじゃないんだって。目の前に座っているのは紛れもなく相羽瑞希なのだけれど、でも彼は、私の知らない相羽瑞希。


「糸乃、糸乃空いとの そらといいます」


 私は、人との距離感の取り方が良くわからない。そんな私に瑞希は『距離なんてものは、おのずと定まるものなんじゃないかな』なんて、言ってくれた。目の前にいる彼と、私との間には、どれだけの距離が広がっているのだろう。また分からなくなってしまったよ。いや、最初から分かってなんか、いなかったのかもしれない。


「そう……。ああ、僕は相羽瑞希」


「突然、ごめんなさい。でもこうするより他なかった」


 他に選択肢なんてなかった。あの場で私ができたこと、それは君の腕を掴むことだけ。それを言い訳だというのなら、もうそれでいい。


「どういうこと?」


 私の知っている瑞希はもう死んでしまっている。それはどう抗っても訂正しようがない現実。勝手にあふれてくる涙を瑞希に見られたくなくて、うつむきながら小さく瞬きを繰り返す。カランという音を響かせ、グラスの中で氷が崩れていった。


「あれ、電車遅れてるのかな……」


 事象のアモルファス。秩序があるようでそうでない。悲劇や危機といった単純な物語に回収できない余剰。それは抗いようのない運命のようなものと言ってもいい。運命が大きく変わることなんてないんだと私は思い知る。それはまた、自分にとっての運命についても同じこと。


 窓ガラス越しに駅構内へ視線を向けると、駅係員がしきりと電光掲示板を指さして、乗降客の案内対応に追われているようだった。電光掲示板には、先発列車の大幅な遅延がアナウンスされている。後続の列車はやはり緊急停止していたのだ。


『脱線事故だってよ。カーブを曲がりきれずに列車が高層マンションに突っ込んだらしい』


「えっ?」


 驚く瑞希の後ろに座っていた二人組の大人たちの会話が、とぎれとぎれに舞い込んでくる。私はいわゆるタイムリープと呼べるような時間の戻り方を体験しているわけでないし、これは過去の情景ではなく現在そのもの。それは、今目の前にいる瑞希が「例えばさ……」で始まる物語を話してはくれないのと同じこと。


『運転再開の目処は立ってないってさ。はあ、今日はもう仕事どころじゃないよね、あ、俺とりあえず職場に連絡してくるわ』


 そう言って席を立ったスーツ姿の男を横目で追っている瑞希は、未だ起きている現実を信じきれないでいる様子だった。


「事故……」


「こうするより他なかった」


 私には、こうするより他なかった。でも、一つだけ運命に抗えた事があるとすれば、それは目の前に瑞希がいるという事実。


「まさか……。まさか、君は僕が乗るはずだった電車が……」


「カーブを曲がりきれずに列車が脱線。沿線のマンションに激突しているはず……」


 私は、肩から下げてた茶色のショルダーバックを開け、携帯端末に着けていたピンク色の巾着袋を外す。


「もう行かなきゃ。突然、ごめんなさい。お代はここに置いておきます」


 このお守りなんだと思う。


「ちょと、待って……。君には……」


 私には、未来が見えていたわけじゃないの。きっと、それは……。

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