sora-side
第12話:6月30日(午後)
列車の脱線事故現場からほど近い総合体育館の入り口正面では、数人の警察官が、次々と到着するワゴン車を誘導している。紺色のつなぎを着た職員たちが、白いワゴン車から遺体の入った棺を館内へ搬入していく。病院ではなく、この場所で検死がなされるのだ。それは医療機関に搬送されるまでもないということを如実に物語っている。
急遽、遺体安置所に指定された総合体育館の正面玄関は、大きなブルーシートで覆われ、エントランスに置かれたホワイトボードには死亡が確認された人たちの氏名と住所が書かれていた。あの脱線事故で一瞬にして奪われた命は一人や二人ではなかった。
『例えばさ……。例えば、いまこの瞬間、俺ら二人を除いて時間が止まったら、どうなるだろう』
私は「例えばさ……」で始まる彼の物語が大好きだった。そこから始まる瑞希の言葉の中に、沢山の可能性や希望が満ちているように感じたから。希望を語ることは決して容易じゃない。日々の生活の中で、少なからず絶望することは多いけれど、「例えばさ……」というその言葉の先にあるのは、いつだって前向きな感情だった。
見上げた先のホワイトボードには『
深い悲しみに満ちた嗚咽と、携帯端末の虚しい着信音だけが響き渡っている体育館一階のホールには、身元が確認された犠牲者のみが安置されていた。
「空ちゃん、見ない方がいい」
そう言った瑞希の母親の足元には、白い布に包まれた彼の変わり果てた姿がある。ボロボロに破れた制服のズボンから、擦り傷だらけの青白い足が覗けていた。
『たまには学校に行きなさい』なんて、そんなこと言わなければよかった。いつも不真面目で、だらしなくて、授業なんかほとんど出ないのに成績だけは良くて、でも出席日数が足りなかったら、きっと卒業できないから……。
時間なんて流れようが、積み重なろうが、もう、そんな事どうでもいい。過去が現在の内にあるのだとしたら、私をもう一度、どうかもう一度だけ過去に巻き戻してほしい。
思わずこみあげてくる吐き気に口元を抑える。深化した悲しみの感情は、体が拒絶するほどの不快さを伴って、私の心を呑み込んでいく魔物となる。思わず床に屈んでしまったその拍子に、手から滑り落ちていった携帯端末は、体育館の冷たい床を転がっていった。瑞希の母親は、そんな私の背中を優しくなでてくれた。
床に落ちた携帯端末に手をのばす。少しでも気持ちを落ち着けようと、ストラップとしてつけていたピンク色の巾着袋をギュッと握ってみる。まだこの端末の中には瑞希との記憶がしっかり刻まれている。彼とのメッセージのやり取りは、私の頭の中とは別の次元で記憶を形作り、それはネットワークを通じて永遠に残っていくのだろう。決して更新されることのない記憶として……。
「いや……」
更新されないまま積み重なっていくのなんて、いや。
「空ちゃん……」
痕跡だけの瑞希なんて、そんなのいや。
「いやっーーーーーーーーー」
音のない虚ろな空間が、一瞬にして喧騒に変わり、向かいから吹き抜ける強い風で呼吸が苦しい。明るい視界に思わず眉をひそめ、はっきりしない意識で辺りを見渡してみる。無機質な灰色の天井には、列車の発着を知らせる電光掲示板。列車に乗るために、プラットホームに立ち並んでいる人たちの後ろ姿。
「えっ?」
『まもなく、五番線に下り列車が到着します。黄色い線まで、お下がりください』
左手に握っていた携帯端末から、ピンク色の巾着袋がユラユラ揺れていた。慌てて端末の画面を確認すると、時刻は午前八時、日付けは六月三十日。
あの脱線事故が起こる直前の時間だ。端末の画面から視線をあげると、目の前には半袖のワイシャツ姿で列車の到着を待つ高校生の後ろ姿が立っていた。男性にしては肩幅は狭くて、ちょっとだけ小柄に見えるのだけど、背は決して低くない。
「瑞希……」
列車の走行音が次第に大きくなり、減速しながらホームに入り込んでくる銀色の車両が視界に入ってくる。
――乗ってはだめ。
「あの……」
人混みの喧騒と、列車の走行音が私の声を薄めていく。
――かき消さないで、どうか、かき消さないで。
私は目の前に立っている瑞希の腕を力いっぱい掴んだ。
「なに?」
――君には私のことが分からない?
先頭車両が跳ね除けた空気は、私と瑞希の前髪をサッと揺らしていく。人違いなんかじゃない。緩めた紺色のネクタイも、少し寝癖のついた髪も、目の前の高校生が確かに相羽瑞希であることを物語っている。今にも泣き出してしまいそうな感情に耐えるのに必死で、私はただ彼を見つめることしかできない。やがて、列車がホームの規定位置で停車すると、人の流れが、私たちを列車内へ押し込むように動き出していった。
「待ってください」
私はつかんだその手に思わず力を込める。耳に入ってくる喧騒が消え、一瞬だけ時間が止まったような気がした。私たちは少しだけ時間の外側にいたのかもしれない。
「どういう……つもり?」
どういうつもりだっていい。この列車に乗ってはいけない。ただそれだけのこと。
気づけば列車は走り去り、駅構内は人影はまばらだった。とはいえ、それは潮の満ち引きと同じように、しばらくすれば、また人であふれかえっていくのだろう。
「私のこと……。私のこと覚えていないですよね」
彼はしばらく私を見つめていたが、質問に答えるでもなく、ホームに向き直った。次発の列車を待つつもりなら、やはりそれも止めるべきかもしれない。今起きている状況の理解困難さに比べて、私は私なりに冷静だった。
あの脱線事故の直後、近隣住民が線路脇に設置されていた緊急停止ボタンを押したため、次発の快速列車が事故現場に追突するという二次災害を免れたはず。しかし、この現実において、同じように緊急停止ボタンが押される保証はない。次発の列車が必ずしも安全だとは言えないのだ。
「ごめんなさい。お願いがあります」
私は彼の隣に立つと、灰色に光る線路を見つめた。このレールの先で、これから起こる事態を想像すると、私ができたことは他にもあったのではないかという、後悔に似たような感情に襲われる。さっきまでこのホームに並んでいた人たちの多くが、十数分後に命を落とすのだ。そんな私を横目に、彼は「なんで」とだけ言った。
「これでも高校生なんだけどな。学校、さぼらせるつもり?」
そんなことわかってる。君が学校へ行かない理由も知ってる。君が授業なんか聞かなくても成績優秀なことも知ってる。出席日数がぎりぎりなのも知ってる。
――全部知っているからお願いっ、私のいう事を聞いてっ。
「お願いですっ」
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