第11話:7月7日(宵闇)

 花火大会を締めくくる最後の尺玉が、三発同時に打ち上げられると、会場からは大きな拍手が鳴り響いた。時刻は二十時を回っていたけれど、雨が降ってくる気配はなく、風も穏やかだった。


「まだ、時間、大丈夫か?」


 空は、腕時計を確認すると、微かにうなずいた。


「公園で、少しだけ花火をやって行かないか?」


 少し強引かなとは思いつつも、僕は彼女と、もうだけ少し話がしたいと思っていた。人混みであふれかえる河川敷を足早に抜け、堤防わきの空き地に止めておいた自転車にまたがると、空に向かって後ろに乗るよう促す。


「ちゃんとつかまってろよ」


「うん」


 坂が多い街並みというのは、自転車での移動をしばしば困難にする。河川敷から自宅方面へは基本的に上り坂になっていて、その位置エネルギーを運動エネルギーで補うにはそれなりの労力を加える必要があった。


「降りようか?」


「だぁ~いじょ~ぶっ」


 ペダルを踏み込む力も尽きかけ、息も絶え絶えに坂を登りきると、突き当りの角を曲がった先にあるコンビニエンスストアの前で自転車を止めた。


 いつもの公園はコンビニの裏手にある。手持ち花火とペットボトルの飲料が入ったビニール袋を片手に、僕らは公園の砂場へ向かった。団地に挟まれた公園は、花火大会の喧騒とは対称的でとても静かだ。この場所からでは団地に阻まれて河川敷上空に舞い上がる花火は見えない。だから、七夕の夜にこの公園を訪れる人はほとんどいない。


「あれ、雨……」


 花火にライターで火をつけようとしたその時、大きな雨粒がポツリポツリと砂の地面にしみこんでいった。僕の頬にのっぺりと張り付く雨粒の重さが、激しいにわか雨への変化を予感させた。


 予想にたがわず、雨脚は強くなっていったが、雨よけになる場所がこの公園に無いことに気がつく。容赦なく降り注いでくる雨粒に手をかざし、僕らは急いで公園を後にした。


 雷鳴がとどろく中、自転車を押しながら、小学校裏の神社へ向かう細い路地を走り抜ける。ぬかるんだ参道を抜け、ようやく拝殿の軒下のきしたに潜り込めたときには、二人ともびしょ濡れだった。


「ごめん、花火なんてしようって言ったから……」


「大丈夫。気にしないで」


 雨水で額に張り付いた空の前髪を、ポケットに入れていたハンカチでぬぐう。せめて折り畳みの傘くらい持ってくるべきだった。


「瑞希くん。話がある……」


 雨脚は弱まるどころかさらに強くなっていく。時折、空気を激しく揺らす雷鳴と、地面を騒がす雨粒の音に阻まれ、空の声が遠い。音のある世界は孤独。一見すると逆説的な彼女の言葉の意味が、なんとなく腑に落ちる。


「私は、この世界の人間じゃない」


 頭では分かっていたんだと思う。ただそれを信じたくなかっただけ。それを信じてしまえば、糸乃空という存在が、この世界から明確に否定されてしまう。何も答えられない僕をしばらく見つめていた空は、静かに話を続けた。


「瑞希くんは、私の世界で死んでしまったの」


――僕は死んでいる。『私の世界』では。


 人の関心に応じて切り取られた世界像、そこには確かに無限のパースペクティブがある。世界を見る位置に呼応した多数の観点があるならば、世界の複数性もまた否定されるものではないのかもしれない。だがしかし、それは常軌を逸した妄想としか思えない。


「あの列車事故で、あの事故で、瑞希くんは死んでしまったの」


 現実ではないけれど現実でもありえた世界、それらはせいぜい、何か非本来的な意味しかもたない可能世界に過ぎないはず。


「いや、俺は確かに生きている。ってか、お前が俺を助けて……」


「そう、私は願った。瑞希くんにもう一度だけ会いたいって、そう願ったの」


 雨にまみれた生暖かい風が、神社の境内に掛けられた七夕の短冊たちを激しく揺らした。天の川から関を切ったように流れだした無数の雨粒たちは、僕がようやく掴みかけた色彩を再び消し去っていく。


「それは、どういう……」


「もう会ってはいけない。願いは叶ったのだから。これから先、私たちが会っても、きっと誰の幸せにもつながらない。だから……だから、もうさようなら、です」


 空はそう言って、僕の手の中に小さな布製の巾着袋を両手で押し込むと、踵を返して、土砂降りの雨の中に足早に消えていく。


「おいっちょと待てって」


 足を踏み出そうとしても動かない。それは、あの神社の石段で空とすれ違った時に感じたものと同じだ。


――時間が止まるって、こういうことなのかもしれない。


 運命はあらかじめ決定しており、その均衡は絶対に破れない。そう誰かが言っているようで、僕は初めて恐怖を感じた。


 空がいなくなった拝殿の軒下で、僕はそっと手を開くと、そこにあったのは淡いピンク色をした小さな巾着袋だった。


「俺は確かに生きてる。生きているじゃないかっ」


 雨と風の音に、僕の声は虚しくかき消される。空の言うように、音のある世界は孤独だ。そして僕たちの間には決定的な境界線が引かれている。定められた分節線に抗うことは許されず、ただ運命にしたがって時を積み重ねていくだけ。それだけでしかない。

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