第10話:7月7日(七夕)

 東京都と埼玉県を分節する一級河川。僕の自宅からそれほど遠くないその河川敷で、七夕の夜に花火大会が行われる。全国的にも規模の大きな花火大会で、会場にはたくさんの屋台が設営され、毎年多くのの見物客でにぎわう。昼間に確認した気象予報では、夕方から所によってにわか雨という、何とも曖昧な予測ではあったが、陽の落ちた夜空に雲の姿は見当たらず、この季節としてはむしろ透明な夜空だった。


 東の空に視線を向けると、ひときわ明るい星が目に入ってくる。琴座のアルファ星、ベガだ。それはこの時期に限っては織姫星とも呼ばれる。しかし、その下方に輝いているはずのアルタイル彦星を見つけることはできなかった。きっと、河川敷の向こう側に立ち並ぶ高層マンションの影に隠れてしまっているのだろう。


 もうすぐ七夕も終わってしまう時刻。互いに惹かれあう二つの存在の間には、天の川という分節線が横たわっている。その流れは、どうしようもなく、そして果てしなく、永遠に境界線を構築し続ける。


 河川敷の石段に座りながら、僕は隣にいる空の横顔に視線を向けた。会場に設置されたいくつかの白熱電燈が、ほのかに彼女の頬を照らしている。


「例えばさ……。例えば、いまこの瞬間、俺ら二人を除いて時間が止まったら、どうなるだろう」


「時間?」


「そう、時間が止まったとしたら」


 時間が止まったらどういうことになるのだろうかと、わりと真剣に考えたことがある。それは、ドイツの児童文学作家が書いた時間泥棒の物語を繰り返し読んでいた頃だ。時間が止まったら、きっと中空を舞う小さなチリや埃も静止してしまうだろうから、たとえ自分の時間だけが動いていても、そんな世界では身動き一つとれないだろう、と小学生ながらあれこれ思索していた。


「時間が止まるってどういうことなのか、ずっと考えてきた気がする」


 駅のホームで空に腕を引かれたとき、僕は時間が止まった瞬間というものを、とてもリアルに感じていたように思う。


「時が流れないで静止してしまったら、たとえ意識があっても、きっと動けない。だから声も出せない。もしかしたら考えることさえもできないのかな」


 空はそう言うと、いつものように少しだけ悲しい表情をして目を細めた。夜空に浮かぶベガの光がユラユラ瞬いている。その揺らぎは星自体の明るさが変化しているわけではない。変化しているのは地球を取り巻いている空気の流れだ。密度の異なる空気の流れが、光の屈折を引き起こし、星の光が揺れているように観測させる。


「時が流れる……」


 時間は流れているのだろうか。確かに水や空気は流れるというような動的な性質を有している。過ぎ行く時間もまた、水や空気の流れと同じような感覚で捉えることに違和感は少ない。砂時計を見ていても、時間が流れるというメタファーは時間の本質そのものを表しているような、そんな気もしてくる。


 でも、よくよく考えてみれば、流れているのは砂であり、水であり、空気であって、時間そのものじゃない。今この瞬間が、流れるように過去に変わっていくなんて、そんなことあり得ない。


「なあ、空……。時間って本当に流れているのかな?」


 理由は分からない。だけれど、空の眼にはやっぱり涙が揺れていた。彼女の見上げるその視線の先には、まるで天の川の流れが見えているかのように、瞳に反射されたほのかな光がユラユラ瞬いていた。


「時間って、視線の向け方で、現在にも、過去にもなり得るのかなと、俺はそう思うんだ」


 僕らはいつだって過去の経験を引きずっている。それがどんな価値を帯びていようが、その責任を引き受けつつ生きて行くほかはない。その意味では、過去は常に現在の中にその露頭を顕しているように思う。現在というものが、流れるように過ぎ去って過去になっていくのではない。時は流れるのではなく……


「時は流れない……それは積み重なる。でしょ?」


「なんで……。なんで俺が考えてること、分かったの?」


 夏虫の鳴き声が、喧騒にまみれて微かに聞こえている。空の瞳に、もう涙の影は見えなかった。


「瑞希くんの考えていることは、なんとなくわかる」


 少しだけ笑った空の視線の先を、小さな火の玉が垂直方向に連続で打ち上がっていった。それは僕たちの周囲を断続的に明るく照らすようにしてはじけ、ほどなくして夜空に消えていく。


「音が……、きっと、音が苦手だったんだと思う」


 速射連発花火の打ち上げ場所は、一定間隔をとって数か所に設置されてるのだろう。同時に発射された火の花は、夜空を華麗にまうワイドスターマインとなる。


「音……」


 上空を染める色とりどりの閃光から、やや遅れて空気を震わす花火の炸裂音は、確かに胸をえぐっていくような迫力を持っている。音も世界を構成する一要素だが、それは光よりも過去性をまとっている。でも、この音を聴いているのは確かな現在だ。だからやっぱり時は流れてなんかいない。


「音でかき消されてしまうようで」


「かき消されるって、いったい何が……」


「私の声……。助けを呼んでも誰も来ない。想いも伝わらない。大きな音がある世界は、とても孤独なんだ」


 光の軌跡が夜空に溶けていくその前に、尺玉と呼ばれる巨大な花火が打ち上がった。はるか上空で炸裂した鮮やかな光たちが夜空を覆いつくしていく。放たれた空気の太い振動は、一瞬だけ遅れ、やがて巨大な音となって川面を揺らし、そして僕らを包んでいった。


「ちゃんと、ちゃんと届いているから大丈夫」


 空は「ありがとう」とだけ言うと、天を見上げながら、その横顔を茜色に染めていた。


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