第9話:7月6日(午後)

 あの時と同じようにベンチに座り、両膝を胸元で抱えている糸乃空いとの そらの後ろ姿は、遠目でもすぐに分かった。団地に囲まれた細い路地を足早に進み、背の低い公園の柵を乗り越えると、彼女の後ろから声をかける。


「ごめん、遅くなって」


 後ろを振り向かない彼女の様子に、待ちくたびれて機嫌を損ねなたのかと思ったけれど、単に僕の声が聞こえていないだけのようだった。耳にかけられた空の短めの髪から、少し大きめのイヤホン覗いていて、ピンク色のコードが肩まで伸びている。彼女の隣りに座ると、空は急に現れた僕に驚いたのか、あわててイヤホンを耳から外した。


「ちょっといい?」


 僕は空の返事を待たず、彼女が手にしているイヤホンの片方を取ると、自分の耳に入れてみる。さわやかなカッティングが作り出す心地よいギターのサウンドと、丁寧に刻まれたハイハットのリズム。澄んだ声の女性ボーカルが歌う、ちょっとハイセンスなメロディラインに思わず目を閉じて、音に集中したくなってしまう。


「良いね」


「え?」


 僕は「ああ、ごめん」と言いながら、きょとんとした空にイヤホンを返す。


「僕も好きだよ、その曲」


「あ、えっと……。本当はここに来るつもりじゃなかった。でも、きっと……」


「きっと?」


「うん、なんでもない。あ、ごめん、なさいです」


 聞きたいことはたくさんあった。でも、僕が問うことで、彼女の悲しみが少なからず大きくなってしまうのなら、あえて問うことにどれほどの意味があるだろうか。非日常と日常を峻別することで成立するのが物語フィクションなのだとしたら、僕はむしろ、日常の中に非日常を持ち込むことで、物語を現実ノンフィクションとして受け止めたい。


「どこか、行こうか?」


 いつからだろう、こんな感情が沸き起こってくるようになったのは……。あの列車事故、つまり空と出会ってからまだ一週間しかたっていない。でも僕にとってその一週間は、おそらく二十四時間が七回繰り返しただけではない何か大きな変化をもたらしていたように思う。


「遊園地……。遊園地に行ってもいいですか?」


「遊園地? って……今から?」


 この場所から一番近い遊園地は、駅前のバスターミナルから、路線バスで十五分くらい場所にあった。最近ではめっきりレジャー客が減ってしまい、閉園のうわさも流れていたけれど、数多くのアトラクションや、大きなプールなどもあって、都内では比較的有名な遊園地だった。今日は土曜日だから、おそらく十九時過ぎまで開園しているはずだ。


「うん。観覧車に乗りたくて。この街を少しだけ上から眺めてみたくて」


 正直なところ、高所と閉所の恐怖症がある僕には、観覧車という乗り物が遊園地で唯一苦手なアトラクションだった。地に足がつかない場所や狭い空間というのは、それだけで大きな不安を呼び寄せる。きっと自由がないからかもしれない。


「街を上から……」


 視点は世界の在り様を個別に構成する。それは、僕から見た景色と、君から見た景色とが重ならないという仕方で景色の個別性をもたらす。でも、遠くに視線を向ければ向ける程、互いのパースペクティブのずれが小さくなっていくはずだ。上空から見た街の景色は、僕らにどのように映るのだろう。


「そう、上から……」


 たまには自由を失ってみるのも良いかもしれない。自由に視点を設定するだけでは、互いの景色を共有できないのだから。


「分かった」


「本当に?」


「嘘ついてどうすんのさ?」


 そう言って僕が笑うと、空の表情にも少しだけ笑顔が燈った。


 僕らは駅前に戻ると、バスターミナルから遊園地まで直通のバスに乗り込んだ。時間が時間だけに、バスの車内には空席が目立っている。一番後ろの座席の窓側に二人で座ると、バスはエンジン音をうならせ、ゆっくりと発車した。


 バスは住宅街を縫うように張り巡らされた細い道路を、大きな車体を揺らしながら器用に通り抜けていく。窓側に座る空に視線を向けると、空はいつの間にか寝てしまったようだった。確かに程よい揺れが眠気を誘う。窓から差し込む陽の光に、彼女の短めの髪が透きとおっていた。


 バスが大きく角を曲がった瞬間、深い眠りに落ちている空が、僕の肩にもたれかかる。制服のシャツを通じて伝わってくる彼女の体温、そして微かに聞こえる小さな息遣い。それは確かな存在だった。


 『自分自身を信じてみるだけでいい。きっと、生きる道が見えてくる』 そう言ったのはゲーテだったか、ニーチェだったか……。


 住宅街を抜けたバスの車窓からは、やがて大きな観覧車が見えてくる。その向こう側に見える急勾配を描きながら宙をうねっているレールは、ジェットコースターのものだ。


「空、もう着くよ」


 僕の声に目を覚ました空が首をゆっくりもたげる。僕の肩にうずもれていた彼女の頬が赤くなっていた。


「わあ、ごめんなさいっ、です」


「いや、別に全然大丈夫だから。それより、ほっぺ。赤くなってるよ」


「ほえ? あ、見ないでくださいっ」


 そう言って、空は慌てて鞄で顔を隠した。今現在の風景は無常迅速な時の移ろいの中で解体していく。だから人は写真機を発明したのかもしれない。残したい風景と言うものが、いつの時代にも、どんな状況でも確かに存在するのだから。


 僕らは、バスを降りると、目の前にある遊園地のチケット売り場に向かった。二人分のチケットを購入すると、陽が傾きかけた園内に向かう。昨日のような夕立が来る気配もなく、閑散とした園内を歩きながら観覧車乗り場を目指す。


「私、幽霊じゃないよ」


 少し前を歩く空が、僕を振り返りそう言った。前から吹き抜けてくる風に、制服のスカートがなびく。彼女の姿は逆光に浮き上がるシルエットとなっていて、どんな表情をしているかは分からない。


「うん、幽霊じゃない」


「私のこと、何も聞かないの?」


 真実は知れば良いと言うものじゃない。むしろ知らないことによって、明日に希望を見いだせる、そんなことも多いはずだ。


「うん」


「ごめんなさい」


 踵を返した空は、僕に背を向けたままそうつぶやいた。


「何で謝るの?」


 彼女は僕の問いに答えるでもなく、観覧車向かってゆっくり歩き続ける。目の前にそびえる観覧車は都内でも有数の高さと規模を誇っている。このゴンドラが最上部に到達すると、首都圏近郊の住宅街を一望できるだけでなく、都心部の高層ビル群まで見渡すことが可能だ。


 程なくして観覧車乗り場までたどり着いた僕らは、係員の誘導にしたがって、次のゴンドラが到着するのを待った。閉園時間が迫っているせいか、乗り場に並んでいるのは僕らだけだ。


瑞希みずき君、観覧車こわいの?」


「は? そんなことねぇって」


「ホントカナ?」


「ほんとだって」


「閉所と高所、だもんね」


「え?」


 僕らの目の前でゴンドラの扉が開く。ゴンドラの移動速度は、想像しているよりも少しだけ早い。もたもたしていると乗り遅れてしまう。


「瑞希君、行くよっ」


 空と初めて会ったとき、彼女は僕に言った。『私のこと覚えていないですよね……』 と。僕らは、以前にどこかで会ったことがあるのだろうか。高所と閉所が苦手だという事実はおそらく林ですら知らない。


 扉が閉まると、ゴンドラが徐々に上昇していく感覚に足がすくむ。僕はなるべく下方の景色を見ないようにして平静を務めた。


「すごい。あんなに遠くまで……」


 空は窓際に身を乗り出して外の景色を眺めている。空が動くたびに揺れるゴンドラの中で、僕は冷や汗を抑えるのにやや必死だった。


「どう?」


「うん、瑞希くん。ありがとう。こんな景色を見たのは久しぶり」


「なあ、空。明日、地元で花火大会があるんだ。一緒にどう、かな……」


「うん」


「えっと……、良いの?」


「うん」


 最上部に近づくにつれて、風が強くなっていくのだろう。ゴンドラがの揺れが少しずつ大きくなっていく。心拍数が上昇しているのは、高所と閉所によるものだろうか。それとも、空の瞳のせいだろうか。


 例えば、暗い海の上で一人ぽつんと波間に浮かんでいるところを想像する。星空はとてもきれいだろうけど、海の底は果てしなく深い。それはある種の高所だ。幻想と恐怖の境界をゆれていく透明なクラゲは、どんな景色を垣間見ているのだろう。

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