第8話:7月6日(午前)
「お前の話を聞く限り……。それは、つまり、幽霊としか言いようがない……」
昨日までの出来事を一通り聞いた
開け放たれた教室の窓から、湿気を孕んだ生暖かい風が入り込み、水色のカーテンを揺らしている。まだ一日が始まったばかりだと言うのに、既に蒸し暑い。教室に設置された小さな扇風機は、ただ室内の暖かい空気をかき回しているだけで、冷却効果を期待できるような代物ではなかった。
「幽霊とかそんなんじゃないと思う」
日常生活は圧倒的な情報フローに晒されながら、そのほとんどを無視したり、忘れたりすることで成り立っている。だけれど、それは立ち消えるのではなく、単に忘れられているだけなんだと思う。
出来事や事実は、客観的に実在すると言うよりはむしろ、想起を通じて解釈学的に再構築されたもの、そう考えた方がなんとなく腑に落ちる。幽霊なんてものが存在するのか否か、という問いよりも、出来事がどれほど身近で、リアルな問題として僕に迫って来るのか、という問いの方が重要だ。
「じゃ、いったいなんだ?」
真剣なまなざしで僕の顔を覗き込んでくる林の表情に、僕は思わず笑ってしまった。
「そんな深刻な顔するなよ。俺も良く分からないけど、でも確かなのは、
「だから、それを幽霊だって言ってんだよ」
確かに、こんな話をまともに受け取ってくれる方がどうかしている。それは十分承知していたし、僕が逆の立場だったら、林と同じように、『そいつは幽霊……』で片づけていただろう。でも、僕は思うんだ。実際に知覚できる現実のみが絶対的な経験なんかじゃなくて、むしろ知覚は制約された想像や空想に近いものだって。
「うん……。なんていうか、上手く言葉にできないんだけど、空はそんな感じじゃないんだ。公園で話をしたときも、連絡先をちゃんと交換したし」
肝心のメッセージはいつになっても読まれないままではあったけど、僕には、空の瞳から溢れていた涙や、深い悲しみに満ちた情景、そして細くても、力強い彼女の声が、幻覚や幻聴による経験だとは思えなかった。
「で、返信はあったのか?」
「いや、未読のまんま……って、あれ、 既読になっている」
僕はポケットから取り出した携帯端末のモニターを眺めて驚いた。先日送信した「一年の何組?」という短いメッセージに既読マークがついているのだ。
「おいおい、お前、いったい誰と連絡取りあってんだよ。なんか俺、マジでホラーとかオカルトとか苦手なんだけど。寒気がしてきたぞっ」
返信こそなかったけれど、メッセージが既読になっている。それは、送信されたメッセージが空の携帯端末で、空自身が確認しているという事だ。この世界には存在しないはずの糸乃空。でも、確かに彼女の存在と、彼女端末がこの世界のどこかにあって、それが今現在においてしっかりと確認されている。
それは林の言うように、もしかしたらオカルトとか、恐怖的な体験なのかもしれない。だけれど、あまりにも輪郭が鮮明なリアリティは、僕に恐れと言う感情よりも、何か期待のような感情を湧き上がらせていた。
「何だよ。お前が、この世界には不思議なことが起こるもんだとか、そう言ってたんだろう?」
でも、いったい僕は何を期待しているのだろうか。
「まあ、そうだけど、ちょっとリアルすぎないか?」
もう一度会えること?
「だから、きっとそんなんじゃねぇっての」
不思議を不思議と思うから不思議になっていくのかもしれない。もちろん、不思議と思うことは大事だ。前提を疑わなければ、人は容易に進むべき道を見誤ってしまうだろう。
ただ、不思議に思うという感情そのものに正しいも間違いもない。あるのはただ、感情の精度、あるいは感度と呼ばれるようなものだ。それをどう受け入れ、それに対してどんな判断を下すかは僕自身の問題だったりする。
「じゃ、ためしにデートとか誘ってみろって」
「ふえ? いきなりデート?」
「水族館でも映画館でもなんでもいいだろう? それとも、明日お前んとこでやる花火大会、誘ってみたら?」
そう言えば、明日は七夕だ。毎年七月七日には、僕の地元で大きな花火大会が行われる。個人的には、花火よりも天の川が見たいと思うのだが、東京の明るい夜空は、遥か彼方に輝く星の川を覆い隠してしまう。
午後の授業中、僕は携帯端末をこっそり取り出すと、空に宛てて「今日、会える?」とだけメッセージを送ってみた。すると、予想に反して、メッセージはすぐに既読になり「この間の公園で待っている」という返信が送られてきた。
「マジ……」
あれほど、既読にならなかったメッセージが今日に限っては当たり前のように通じている。通信状況の良い場所とか、たぶんそんなんじゃない。空のことを考えると、疑問符が常に立ち現れ、その解は容易には得られない。いや、全く理解できないのではなく、おぼろげに見え隠れする解が常に暫定的である、という事なのかもしれない。
――それはまた、次の問いへの架け橋。
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