第7話:7月5日(夕刻)
柔らかい光に照らされた仏壇に向かって正座をすると、僕は軽く一礼した。そこに飾られた
「今日はわし、一人なんで、ろくにもてなせねえが、ほらよ、これ
「ああ、いえいえ、お構いなく。本当に」
「そうかえ、まあゆっくりしていきな。気兼ねすんこともねぇ。で、小学校の時の友達かえ?」
「えっと……。中学です」
「そうけえ、中学けえ。あんま学校いけんときだったけどねぇ。明るくて気さくな子じゃったから……」
数日前、突然あの列車事故から僕を救ってくれた糸乃空。彼女のこと、僕はきっと何も知らない。
「あの……。空さんは、どんな子だったんですか?」
「あの子は生き物が大好きでな。小さい頃は……、ほれ、障子の向こう側に縁台があるんじゃが、そこに一日中腰かけて、地面を歩くアリなんかを眺めてたりなあ。庭に生えてる紫陽花の葉っぱさつまんで、そこにいるカタツムリを捕まえとったりしとったわ。どろんこにまみれて、なんだか男の子みたいでな」
そう言ってお婆さんは大きな声で笑った。
「生き物……ですか」
仏壇に飾られている空の写真に視線を向けてみる。確かに彼女はショートボブの髪形も相まって、少年のような中性的な顔立ちだった。僕は、そっと畳から立ちあがると、目の前の障子扉を開けた。お婆さんの言った通り、廊下を挟んでその先が縁台になっていた。
「ありゃ、雲行きがおかしいだべさ」
お婆さんは、開かれた扉から灰色の空を見上げると、ぽつりとそう言った。いつの間にか、この部屋に入り込んでいた陽の光が陰っている。色の無い空を、鳥の群れたちが、綺麗な逆三角形を作りながら西の方角へと抜けていく。東側から、生暖かい風が吹き込み、香炉から立ちのぼる煙を揺らしていた。
「こりゃ、くるべえ。ちょっと待ってさ、洗濯もん、とりこんできちゃうから」
「ああ、手伝いますよっ」
「大丈夫だっけ。汗拭きタオルだけだべさ。そこでまっとれ」
そう言うと、お婆さんは見た目からは想像もつかないような機敏な動きで、縁台からひょっと地面に降り、庭に置いてあったサンダルを履くと、物干し竿に掛けられていた大きめの白いタオルを次々と両脇に抱えていった。
「大丈夫ですかぁ?」
「でいじょうぶだっ」
ポツリポツリと降り出した雨はやがて、大きな雨音と共に地面を揺らし始めた。大きな水滴は跳ね返りながらも、ぬかるんだ地面に水の流れを作っていく。
★
「雨なんて、みんな嫌いじゃろ?」
「そういうものでしょうか。僕はそれほど嫌いでも……」
ちゃぶ台の上に置かれた秩父餅を一つだけ頂いた。和菓子はあまり好きではなかったけれど、モチモチした食感と、程よい甘さが、空腹の胃を心地よく満たしてくれた。
「そうけ」
どのくらい経っただろう。気づけば、薄れていく雨の音に変わり、カエルの鳴き声が大きくなっていた。この家の周りには水田しかないから、カエルにとっては最高の生活環境なのかもしれない。
「ああ、でも、僕は傘をさすのが苦手で……」
どんなに気を付けていても、ズボンのすそが濡れてしまう。それは雨の強さにはあまり関係ない。傘の差し方じゃない、歩き方の問題だ、なんて
「空もな、雨が好きで、窓の外からずっと水たまりを眺めていたり、傘をさしながらカエルを探したりしとったわ」
お婆さんの真ん丸な目は、どことなく空の栗色の瞳と似ている。おばあちゃん子、だったのかもしれない。
「ほんと、男の子みたいですね」
「ああ、雨、あがっとるわ」
そう言いながらお婆さんは、和室の障子扉をゆっくり開ける。庭に生い茂る紫陽花の葉の上に並んだ水滴たちが、西から差し込んでくる日差しに照らされて、ゆらゆら輝いていた。
「通り雨じゃな」
大気の不安定さは心の不安定さと似ている。嵐が過ぎ去れば、灰色の雲はいつしか通り過ぎ、夏の夕暮れ空が迫ってくる。それは色を少しだけ取り戻す感覚に近いのかもしれない。
「すみません。長居しました」
僕は足元に置いてあった鞄を持って立ち上がると、お婆さんに頭を下げた。
「いいんじゃよ。また来ておくれ」
「はい。では、また、お邪魔させて頂きます」
雨が降ったせいか、先ほどより少しだけ湿気を孕んだ土間作りの台所を抜け、玄関の前で靴を履く。
「ありがとうございました」
「おまえさん、名前は?」
そう言えば、僕は自分の名前を名乗っていなかった。なんだか、初めて会った時の空と同じだ。
「ああ、すみません。相羽、
「瑞希さんかえ。おまえさん、見たんじゃろ?」
「え?」
「空に会ったんじゃろ?」
それは、どういう意味で……。
「はい……」
「そうかえ。わしも昨日あったけ。少しだけ大きくなって」
「えっと、昨日……」
「あの子とずっと友達でいてくれな」
物語はどこまでが物語で、どこまでが現実と呼べるものなのだろうか。映画の世界が物語であるのと同じように、物理学的現象もある種の物語だ。目の前の出来事は人の関心によって切り取られ、そう言う仕方で積層された出来事の断片は、やがて解釈と言う名の認識装置によって物語化される。現実と虚構にあらかじめ、明確な境界線があるわけじゃない。
彼女との出会いは、ある種の物語であり、それはまた、どうしようもなく現実だった。
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