第6話:7月5日(午後)

 僕は昨日、乗り過ごしてしまった駅に再び来ている。学校の出席日数はかなり危険な状態だったが、午後の授業は体調不良を理由に早退してきた。


 小さな改札を抜けると、駅待合室の横にたたずんでいる古びた自動販売機の前に立つ。ズボンの後ろポケットから財布を取り出し、銀色の硬貨を投入口に入れ、スポーツドリンクのボタンを押した。


『空が亡くなってから、彼女のお母様は引っ越されたみたいです』


 昨日とは反対の出口に向かいながら、携帯端末で地図情報を確認する。


『えっと、ご実家は埼玉県の秩父ちちぶ市なんですけど……』


 林奈津はやし なつの友人である山本千里やまもと ちさとは、糸乃空いとの そらのことを詳しく教えてくれた。こちらの事情を聴くでもなく、なんとなく深刻な空気を読み取ってくれた彼女には本当に感謝している。


 早くに父親を亡くしていたという糸乃空は、母親と二人で生活をしていたらしい。だが、常陽じょうよう高校の附属中学に入学直後から、頻回に体調も崩すようになり、ほとんど登校できていなかったそうだ。だから、空を知る生徒はそう多くない。空の死後、彼女の母親もまた、実家のある埼玉県は秩父市に戻ったと言う。


「この道で、間違いないよなぁ」


 駅から遠ざかるにつれ、民家は少なくなり、道幅も狭くなっていった。連なる山々を背景に、田園風景ばかりが広がっていく景色は、心なしか不安を呼び寄せる。山本千里が手渡してくれた住所の書かれたメモ書きと、携帯端末のナビゲーションシステムだけが頼りだ。七月の日差しは、午後になっても弱まることなく、容赦なく僕に降り注ぎ、体内からしっかりと水分を奪っていく。


 僕はスポーツドリンクの入ったペットボトルを鞄から取り出すと、蓋をねじあけ、透明な液体を一気に喉に流し込んだ。空腹の胃に冷たい液体が伝わっていく感覚と、サッと頬にあたる緩やかな風が、少しだけ涼しさを取り戻してくれた。


 田園風景を横目にいくつかの角を曲がり、車も人もほとんど通らない細い市道を進んでいくと、石塀に囲まれた大きな家が見えてきた。荘厳な瓦屋根が時代を感じさせる。門扉の周辺に表札のようなものは見当たらなかったが、あたりに住宅と思しき建物はなく、この場所が空の母方の実家で間違いないはずだった。


 大きく開かれた門扉を抜け、僕は敷地内に入っていく。庭は想像以上に広く、生い茂った草木から、湿気を孕んだ夏の匂いがこぼれていた。右手には農作業に使う道具類が無造作に長けかけられている古びた倉庫があり、この家が古くから農家であることを想わせた。ぬかるんだ地面をさらに進んでいくと、ようやく母屋の玄関が見えてくる。


 くすんだ木製の引き扉の周辺にインターフォンはなく、呼び鈴さえもない。仕方なしに、僕は大きな声で「ごめんください」というと、胸元で緩めていた紺色のネクタイを締め直した。


 家の中から物音が聞こえる気配はなかったが、目の前の引き扉は、少しだけ隙間があいていて、そこから中を除くことができた。様子をうかがおうと、扉に手をかけてみると、扉は思ったよりも軽く、そのままガラっと開いてしまった。


「あ、いけねぇ。これじゃ不法侵入……。あの、ごめんくださいっ」


「あいよ、開いてんよっ」


 後方から聞こえた力強い声に、びっくりして振り返ると、背後には小柄なお婆さんが立っていた。農作業を終えたばかりなのだろうか、もんぺ姿に、ネズミ色のフードハットを頭からすっぽりかぶっている。


「わあああ。あの、すんませんっ」


「まあ、入りなされや」


 そう言うとお婆さんは両手にはめた軍手を外し、もんぺのポケットの中に押し込むと、まだ泥にまみれている長靴のまま、家の中に入って行った。


「えっと、僕はっ」


 赤の他人がいきなり自分の家の玄関前にいて、何も疑わずに家の中に入れとは、不用心にもほどがあると言うものだが、お婆さんは気にするでもなく長靴を脱いでいる。


「空の友達かい?」


「へっ?」


 予想もしていなかったお婆さんの問いかけに、頭が真っ白になる。この人にも予知能力があるのだろうか? 腰の曲がり具合から、かなりご高齢のように思えるが、その見た目とは裏腹に、声の太さと、芯の通った物言いにとても好感を持てた。


「おまえさんの目がな。目がそう言うとるんじゃ。まあ、入れ」


「目……」


 写真や映像では見たような気もしたが、土間作りの家に入るのは初めての経験だった。それはまるで、昔話の童話で描かれるような、そんな日本の原風景の一つともいえるような空間。確かな原風景なんて、しっかりと見た記憶がないのに、それが原風景だと感じることができるから不思議だ。世界の確かなありようなんて、そうあるように錯覚しているだけなのかもしれない。それは、糸乃空の存在についてもまた然り。

 

 そう、あの子はこの世界に実在しない。実在しないのに、僕の目の前には確かに存在していた。


「奥の畳の部屋じゃ。会っていってくれろ」


 囲炉裏いろりが設置されている台所には、この家の屋根を支えている巨大な柱が立っている。何年もの間、この家をずっと支えてきた柱なのだろう。昔からある、ただそれだけで、大きな安心につながる何かが存在するように感じる。それにひきかえ、僕の柱はいつから透明になってしまったのだろう。本当に透明なのは、僕自身なのかもしれない。


「あ、はいっ」


 慌てて靴を脱ぎ、ひんやりする台所の床をゆっくり進む。エアコンのような空調設備があるわけでもないのに、屋内は風通しが良く、外の蒸し暑さを感じることはない。僕は奥にある煤けたふすま扉をゆっくり開けた。


 部屋の向かって右手には障子扉があり、夏の陽が和紙を透過して、優しさを帯びながら畳の敷き詰められた室内を照らしている。その光の道筋の先には、大きな仏壇が置かれていた。


「これは……」

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