第5話:7月4日(宵闇)

 列車の激しい揺れで目が覚める。切り替えポイントを通過しているのだろうけど、なんとなく感じたことのない大きな揺れに、周囲を見回してみる。窓の外の風景、妙に空白に満ちた列車内、その光景は、覚醒しきれていない頭でも分かるほどに、確かな違和感に包まれていた。


「やべえ。次、終点だ」


 駅名を告げる車内アナウンスでその違和感の正体に気が付く。次は終着駅なのだ。車窓を流れていく景色は見慣れた住宅街ではなく、どこまでも広がる田園風景。慣れない景色に囲まれた空間は、自分が所属していない学校のクラスと良く似ている。場の違和感は、ある種の疎外感に近い。


 程なくして到着した終着駅で降りると、自分が乗ってきた車両は折り返し回送列車となってしまった。構内の天井から釣り下がる電光掲示板を見上げると、次発の列車は四十後であることが表示されている。


 鞄の中には暇をつぶせるような漫画も小説も入れてない。携帯端末でゲームでもしていようかと思ったが、空からのメッセージ受信がないか頻繁に端末を確認していたために、充電は残りわずかだった。


「ちょっと、歩いてみるかな……」


 何もない駅の待合室で四十分も待つ気になれず、僕は駅の外を歩いてみることにした。自動改札機が当たり前のように設置されている首都圏の駅からは、想像もできなうような小さな改札口。ボックス型の非接触型ICカード端末だけが設置されているだけの改札口には、かつては駅係員が切符を確認していたであろう、有人改札設備が未だに残されていた。


 埼玉県と言えど、都市部からはかなり離れており、むしろ山梨県や群馬県に近い。西陽が差し込む駅の改札口脇で乗り越し清算をすると、駅前のロータリーを抜け、その先に続く細い市道を歩いていく。駅から離れるにつれて、建物はみるみる減っていった。人影もほとんどなく、夕暮れ空を滑空しているカラスの翼がとても大きく見える。


 しばらく進むと、前方に大きな赤い鳥居が見えてきた。その鳥居の先には、神社の境内に向かうであろう石段が続いている。鳥居の真下には、小さな案内表示板が建てられており、境内の参拝順路が示されていた。敷地は思ったよりも広く、神社の隣りには小さな寺院もあるようだ。


 しばらく案内表示を眺めていた僕は、そのまま鳥居をくぐり、薄暗い参道から苔むした石段をゆっくり登って行った。なんとなく空気も他の場所とは異なり、少しひんやりして、とても透明感がある。神々しいなんて大げさな話じゃないけれど、始まりかけた夏の不快な暑さとは無縁の場所だ。そんな石段の前方からセーラー服姿の女の子がこちらに向かってくるのが見えた。


「うそ、でしょ……」


 こんな時間に女の子が一人で、この神社に何の用だろうと、訝しんではいたが、前方から僕に向かってくるのそのシルエットは、まぎれもなく糸乃空いとの そらだった。


「空……!?」


 すれ違いざまに、垣間見えた少女の瞳は間違いなく空の眼差しだ。常に悲しみをまとった栗色の瞳は、今にも切れてしまいそうな細い視線なのに、僕の心をいとも簡単に貫通していく強い力を持っている。


「おいっ、ちょっ待てって。あの、携帯にメッセージ、送ったんだけど」


 その声に彼女は一瞬だけ立ち止まると、「なんで、キミがこの場所に……」と、僕に背を向けたままつぶやいた。ここに来るべきではない、そんな感情が言葉の端にしっかりと刻まれている。


 疎外の情動が、僕の思考と身体を一瞬にして切り離していく。まるで金縛りにあったかのように身動き一つとれない。そんな僕を置いて、やがて彼女は再び石段を下り始めた。


「ちょっと、待って……」


 やっとの思いで声を出せたときには、僕と空との間に、短縮不可能な物理的距離が生じていた。いや、そもそも僕らの距離は短縮可能性なるものを最初から有していたのだろうか。


 登ってきたときはあまり意識していなかったが、苔むした石段はとても滑りやすい。空に追いつきたくても、既に陽は沈みかけており、石段の手すりに取り付けられた小さな白熱電灯の光だけを頼りに前に進むしかないのだ。


「空っ」


「もう時間がないので……。これ以上、こっちに来ないでください」


「時間がないって、いったいどういう事だよっ!」


 はじめは目の錯覚かと思った。だがしかし、それは確かな現実だった。いや、虚構性を帯びた現実と言った方が理解に容易いのかもしれない。前を歩いているはずの空の体が、ゆっくりと、でも確実に透明になっていくのだ。透けて見える向こう側の景色が濃くなり、やがて空の姿は完全に消えてしまった。


「うそ……だろ」


 世界に色が一つだけ欠けているのだとしたら、それはもしかしたら空色かもしれない。


 ズボンのポケットの中で、携帯端末が着信を知らせているのに気づく。あまりの衝撃的な出来事を前に、しばらく呆然としていたが、ハッと我に返り、端末を手に取ると、通話着信の相手は林奈津はやし なつだった。


「あ、瑞希さん? やっとつながった。お昼はごめんなさいっ」


「あ、いや……」


 思考の焦点が未だ定まっていない。ぼんやりとした視界は、現実と虚構の間をさまよい、意識と身体の乖離を修復させない。世界には不思議なことが起こると言っても、この短期間で、不可思議な現象がそうそう連続して起こるものではない。現実と虚構の間は確かに曖昧かもしれないけれど、その程度が推し量れないと、自分の立ち位置がぐらついてしまう。


「今、電話、大丈夫ですか?」


「えっと、ああ。大丈夫」


 人にはある種の基盤が必要なんだ。世界のどこかに、自分が地に足をついて生きていると言う確かな実感が……。


「どうしたんですか? なんか調子悪そうですけど」


「うん、ちょっと……。あ、いや別に心配ない」


「お昼の、糸乃空さんのことですけど、彼女、確かにうちの学校にいたみたいです。でも中学一年の時に亡くなっていると……。千里、あ、山本千里やまもと ちさとって、今日お昼に一緒に話していた子ですけど、中学時代、同じクラスだったみたいで仲良かったんですって」


「死んでいる……」


「はい。急性白血病って……」


 焦点を合わせかけた思考は再び離散していく。奈津の声は、端末の小さなスピーカーから僕の鼓膜をしっかりと揺らしているはずなのに、意識の中にあるのは空白と言う名の虚無だ。僕はそのまま、音声通話を切断し、端末のメッセンジャーアプリを起動してみた。時刻は二十時をちょとすぎている。メッセージは相変わらず既読マークがついていなかったが、電波状況は極めて良好だった。

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