第4話:7月4日(午後)
枕元に置いたはずの携帯端末を、手探りで引き寄せてみる。明かりを消した真っ暗な部屋で、端末モニターの青白い光がぼうっと浮かび上がり、僕は硬いベッドの上で寝返りをうつ。
「まさか、このご時世、端末の電波が届かないところに住んでるとか、あり得ないでしょ……」
ソーシャルメディアのメッセンジャーアプリケーションを立ち上げ、宛先を
暗い部屋でベッドに横になりながら、そんなことを繰り返していると、どうにも耐え切れない眠気に襲われ、気づけばそのまま眠ってしまった。
昨日の夜は、結局『一年の何組?』という短いメッセージを、寝ぼけた頭で無意識に空に宛てて送信したようだった。しかし、午前の授業が終わった今も、送信メッセージに既読のマークはついていなかった。受信されたメッセージに気づいていないのか、あえて既読にしていないのか、そもそも受信されていないのか……。
空調設備も満足に設置されていない校内はかなり蒸し暑い。窓は全開になっているが、周囲の住宅街に阻まれ風通しは良くない。踏み込むたびにきしむ廊下を歩きながら、僕はネクタイを少し緩めた。高校の夏制服で、ネクタイを採用している学校なんで、このご時世、皆無だろう。歴史や伝統なんていうと、どうしてもそれを守りたい人たちが一定数いる。この学校も例外じゃないし、それは教師に限った話じゃない。
「
「おお、奈津。なんか、久しぶり」
一年三組の教室の前で、いきなり声をかけてきたのは
「久しぶりに見ましたけど、相変わらずだらしないかっこですねぇ。ネクタイはきっちり締めるか、それとも外すか、どちらかにしてください。それにワイシャツはしっかりズボンの中に入れるっ」
「お前は俺の母親かっ。大体、制服にネクタイなんて、時代じゃねぇんだよ」
昼休みも後半に差し掛かった一年三組の教室を覗きこむ。同じ学校の校舎だと言うのに、自分が所属していない教室というのは、言葉にできない疎外感を漂わしている。
「それはそうと、一年の教室に何か用ですか? まさか、私に愛の告白?」
「あいにく、お前に用はないよ。それに俺はロリコンじゃない」
「またまた~」
「糸乃空って子、このクラスにいるか?」
相変わらず騒がしい奈津とは対称的に、教室に人影は少なく閑散としていた。黒板には、いくつかの方程式と、二次関数のグラフが消されずに残っている。ふと、どんな授業が行われたんだろう、なんて考える。消されずに残っている二次関数の欠片を眺めても分からないことは多い。それは数学が分からないとか、そう言う事じゃない。痕跡は過去に存在した事実を裏付ける根拠かもしれないのだけれど、その痕跡から、本当は何が存在していたのかを正確に把握することは困難だということ。
僕は彼女の痕跡を探している。僕の目の前に現れた糸乃空という存在の痕跡を。
「糸乃……空さん? なんだか珍しい名前だねぇ。うちのクラスにはいないし、そんな名前の子、同じ学年にいたかなぁ……。ああ、
奈津は窓際の机で、文庫本を手に読書をしていた女の子に向かって声をかけた。奈津の大きな声に、千里と呼ばれた女の子は勢いよく席を立ちあがると、こっちに向かって、『ちょっと来て』と言うように手を大きく振った。
「えっと、なんかお前を呼んでるみたいだけど?」
「瑞希さん、ちょっと待ってて」
教室の窓際で、二人がどんなを話しているのか、自分が立っている廊下までは聞こえなかった。しかし、千里と呼ばれた女の子の表情から、どことなく深刻な様子が伝わってきたのは確かだった。勝手に教室に入るのもためらわれ、入り口でしばらく待っていたが、ちょうど、昼休みを告げるチャイムが鳴ってしまったので、仕方なしに教室を後にした。
帰り際の廊下でズボンのポケットに入れた端末を確認してみる。昨夜のメッセージに、既読マークは未だついていなかった。放課後に、もう一回一年の教室を探してみようかと思ったが、そう頻回に立ち寄るのも、なんだか気が引けてしまう。それに昼休みの後から、なんとなく体調が悪かったのもあって、『カラオケに行こう』という林大樹の誘いを断ると、僕は早々に学校を後にした。
空に送るメッセージを夜遅くまであれこれ考えていたせいなのか、それとも珍しく授業中に寝なかったせいなのかは分からないけれど、列車に乗車すると、耐え難い眠気に襲われた。学校の最寄駅から自宅までは列車で三十分ほど。仮眠するにはちょうど良い時間だ。幸いにも空席目立つ列車内で、無事に座席を確保した僕は、少しだけ浅めに腰をかけ、目を閉じた。
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