第3話:7月3日(午後)

 僕が住む東京郊外は坂道が多い。それは時に急勾配を描きながら、起伏の激しい街並みを作っていた。狭い路地に密集する住宅地、そして小高い丘の上にもマンションが立ち並ぶ。


 首都圏の喧騒から離れた閑静な住宅街、そう言えば聞こえは良いかもしれないが、再開発計画が頓挫した今、昔ながらの景観が、時間と共に錆びつきながら、ただ手つかずのまま放置されているだけのベッドタウンともいえる。いまだレトロなセンスを放っているその町並みは、むしろ文化財に近いものかもしれない。


 小学校裏の細い道のわきには、小さな神社があり、その手前の坂を下れば、昔と変わらないであろう商店街が広がっている。この辺りは古くから団地街が発展し、大規模な区画整理を行った地域も多い。とはいえ、昭和三十年から四十年代にかけて整備された団地は、建造から四半世紀以上が経過し、かなり老朽化が進んでいる。


 僕はそんな団地と団地の間を縫うような細い道を歩くのが好きだった。いくつかの公園と、小さなスーパーマーケットを横切り、緑地の脇を抜けて自宅へと向かう夕暮れ時。一日の中で、ひときわ輝いている時間帯だと思う。そこには確かな生活の息遣いを感じることができるから。


「あのっ」


 そんな団地街の狭い十字路を曲がろうとした時だった。聞き覚えのある声に僕は立ち止まる。空間に立ち消えてしまいそうな弱さを感じるのに、時の流れに抗うかのような力を持っているその声。糸乃空いとの そらだ。


「今日は何?」


 振り向くと、彼女はセーラー服姿だった。胸元にゆらめく水色のスカーフと、両手に持っている茶色の鞄から、僕が通う常陽じょうよう高校の生徒であることは間違いない。


「あれ、常陽の生徒だったの?」


「えっと……、それは……」


 午後の風が、戸惑うようなそぶりを見せた糸乃空を通り抜けていく。


「何年?」


「一年です」


 一年ということは、林大樹はやし だいきの妹と同級生ということになる。彼女がこんなに身近にいたなんて驚きだ。


「向かいの公園で、少しだけ話をしないか?」


 糸乃空はコクンとうなずくと、先を歩く僕の後ろをゆっくりついてきた。彼女との出会いは不思議に満ちていた。たとえ、どんなに印象的な出来事であっても、思考を止めてしまって “ああ、そう言うこともあるよね” って、もうそれで終わりにすることもできたし、多くの人は、時間の経過と共に関心の薄れていくその出来事を、記憶の内側からゆっくり排除していくのだと思う。ただ、あの時の出来事を、何気ない日常の一つに埋もれさせていくことはできなかった。


 周囲を団地に囲まれた小さな公園には、三人組の小学生がブランコの周りではしゃいでいた。二人乗りが楽しいのか、かわるがわる場所を変えながら、ブランコを大きく揺らしている。その反対側からは犬を連れて散歩している人が、さらに向こう側には、大きな買い物袋を両手に持った女性が足早に団地の中に消えていった。


「本当は……、本当はもう会ってはいけないって、そう決めたのに……」


 小さなベンチに腰かけた糸乃空はそう言うと、両膝を胸の前で抱えた。


「糸乃?」


 しばらく膝を抱え、うつむいていた糸乃だったが、やがて顔を上げると、その大きな栗色の瞳を僕に向けた。


「だって、きっとこれはあり得ない現実。それに……」


 彼女の瞳には駅のホームで初めて会った時と同じように涙が溢れていた。


「現実って、そもそもあり得ないことの連続なのかもしれないよ……。ああ、いや、なんていうか、あのさ俺。お礼が言いたくて……」


「お礼……」


「この間はありがとう。お前がさ、あの時、俺の腕を引っ張ってなかったら、ほんとに死んでたと思うんだ。別に生きることに執着しているわけじゃないけど、なんというか、まだ死ぬには早いと言うか」


 糸乃空は僕の話をさえぎるように 「ダメっ」 と叫んだ。


「え?」


 七月だというのに陽が落ちかけると少しだけ肌寒くなる。気付けはブランコではしゃいでいた小学生たちは、いつの間にかいなくなっていた。


「死んでしまってはダメ」


 夕空が迫る、宵闇の少し手前。どこかノスタルジーな薄い朱色が空を包み始める。


「あ、ああ……。そう、だよな」


 西陽が頬を照らし、僕ら二人の影は砂の地面に長く伸びていた。天空に映し出される、現実と虚構の境界線。そう、夜へ向かう空の色は少しだけリアルさに欠けている。


「生きて。瑞希みずき君は絶対に生きて」


 生きることの辛さを抱え込みながら、死を願う。そういう感情は誰にも否定できないのだけれど、誰かを想うとは、そうした情動に対するアンチテーゼなのかもしれない。


「わかった。わかったから……。大丈夫、心配するな」


 僕は子供をあやすように彼女の頭を軽く撫でた。


「約束……」


「うん、約束だ」


 約束、そんな言葉を最後に使ったのは、一体、いつだっただろう。


「なあ、糸乃……」


「空でいい」


「えっと、空? お前には、その……。先のことが見えるのか? つまり、未来が予知できるとか……」


 常識的に考えれば、僕の質問は馬鹿げているけれど、そう考えれば彼女の行動に筋は通る。列車の脱線事故をあらかじめ予知できたから、あの時、駅のホームで僕を引き留めたのだと……。


 空は小さく首を振ると、「少なくとも、もう先のことは分からないの」とだけ言って、微かに揺れているブランコを眺めていた。


 むしろ否定してくれた方が、それはそれで納得できたのかもしれない。空の 『少なくとも……』という答えは、『あの時に限って言えば……』 という条件付きで、ほんの少しでも未来が見えていた可能性を示唆している。


「あの……。連絡先、教えてくれないかな」


 煮え切らない想いはない、と言えば嘘になる。ただ、なんとなくその答えは僕の側から引き出してはいけない気がした。


「きっとつながらない。それでも良ければ……」


 空は、鞄の中から携帯端末を取り出すと、その画面にソーシャルメディアのメッセンジャーアプリケーションを立ち上げ、アカウントの二次元バーコードを表示させた。


「つながらないって、電波の届かないところに住んでいるとか?」


 僕は自分の端末を空の端末に重ね合わせて、アカウント情報を登録する。


「概ねそう」


「えっと……、マジ?」


 小さくうなずいた空の顔に、初めて見る優しい笑みが燈っていた。


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