第2話:7月3日(午前)
「なあ、
校舎の屋上を、ゆっくりと吹き抜けていく風がすがすがしい。もう夏と言っても良い季節なのに、今朝は湿気も少なく、気温も低めだった。ここからは、都内の住宅街が一望できる。古くから立ち並ぶ密集した木造家屋、その向こうには、高層マンションが立ち並ぶ新興住宅街が続いている。
校舎の屋上は、生徒の立ち入りが禁止されているのだが、
「大学……か。受験はすると思う」
勉強が嫌いなんじゃない。学校でいじめを受けているわけでもない。ただただ、決められた通りのレールに乗っかるのが昔から好きじゃないんだ。とりあえず大学へ行く、そういう無難な考えも、正直どうかと思う。
むろん、無難という日常は、ある種の贅沢だという事も分かっている。経済的な理由で大学へ行けず、働かざるを得ない人たちも確かに存在するはずだから。いずれにせよ、“こうするより他ない”という日々の連続が十代後半の日常ってやつかもしれない。
――こうするより他なかった。
あの時、彼女は確かにそう言った。それは他に選択肢がないということ。自由と呼べるようなものから隔絶された状況、それはまた、ある種の運命。
「まあ、お前の成績だったら、どこでも大丈夫だろうなぁ」
「さあ、どうだか。林も受験はするんだろう?」
運命は希望の光になることもあるが、それは時に残虐性を帯びることもある。
「一応な。でも、ちょっといろいろ厳しいかなぁ」
林はそう言って、空を見上げながら大きなため息をついた。すっかり夏空となった青色は、欠けた色彩を埋めるような鮮やかさを保っている。でも僕はこの青さに奥行きを感じないんだ。うすべったく引き伸ばしたような青色に、雲を一つや二つ置いたくらいで本当の空を描いたつもりになってはいけない。
空……。
「そう言えば、この間の話、あれから何か進展あったのか? いやさ、なんかロマンチックな出会いじゃんさ」
林は僕にとって数少ない友人だ。先日の出来事について話をしたのも彼だけだ。あの日、運休していた列車の運行再開はかなり遅れ、学校に登校できたのは、五限目も終わる頃だった。ただ、脱線事故を起こした列車は、通学時間帯としてはやや遅い列車だったこともあり、幸いにもこの学校の生徒で、事故に巻き込まれた人はいなかったという。
「おかげで、今期は休まず登校しなければいけない羽目になっちまった」
「どのみちお前の出席日数じゃ、遅かれ早かれ同じことになっていたさ。それにさ、なかなか可愛い子だったんだろ? いいなぁ。それって逆ナンじゃないか。ったくお前がうらやましいよ」
「あのなぁ。そんなんじゃねぇって。あれはちょっとビビるくらいには衝撃的な話だぞ? なにせ、あの事故で百人以上の人が亡くなっているんだからな」
あの事故で亡くなった人は百人を超えた。重軽症者も合わせれば六百名を超える、鉄道事故としては歴史に残る大参事となってしまったのだ。事故現場は目も当てられない惨状と化し、救出活動は難航を極めたとメディアは繰り返し報道していた。
「うん、まあ確かに。でも、なんというか、結果的にお前が助かってよかったよ」
「いまだに信じられないんだ」
「何が?」
それは奇跡だったのか。あるいは単なる偶然だったのか。偶然を”単なる“として価値の低い出来事とみなすことに僕は違和感を覚える。偶然だって奇跡の一種だ。できることなら、
「俺は列車に乗る位置が毎回決まっている。別にこだわりとか、そう言うんじゃないけど、たいてい前から二両目だ。あの脱線事故でマンションに突っ込んだのは一両目から三両目。死亡者の多くは二両目に乗車していた人たちだった。俺はあの列車に乗っていたら確実に死んでいたんだよ」
先頭車はマンション一階のピロティ部に広がっていた駐車場へ突入。続く二両目がマンション外壁へぶつかり、外壁にへばりつく様な状態で、三両目に押しつぶされた。特に二両目は原形をとどめない程に大破しており、メディアの報道によれば、車内の全員が死亡したとのことだった。
事故現場の動画映像をあらためて見たときには、これまでに感じたこともない戦慄が走った。死ぬのが怖いと思ったことはあまりない。ただ、あの事故に巻き込まれていたかもしれないと思うと、得も知れぬ恐怖が心を取り巻いていった。
「その、糸乃って子が助けてくれたんだろう」
「お前、予知能力とか本気で信じているのか?」
「相羽、この世界にはいつだって不思議なことが起こるもんなんだ。いくら物理が得意だからって、科学で説明できないことを、最初から否定しちゃいけないよ」
「何を、知ったように……」
「まあ、とにかくだ。お前が無事で良かった」
現実と虚構、その分節線は確かに曖昧だ。物理学における理論対象や概念が、現実に実在するかどうかという問題は、罪と罰におけるラスコーリニコフが実在するかどうかという問題と構造上は同じ気がする。
それは、実在するか否か、という問いよりも、どれほど実在性があるのかという程度の問題として捉えた方が理にかなっているのかもしれない。
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