第4話

 翌日の夕食時、青井は姿を現さなかった。

「青井さんからさっき電話がありました。海岸まで散歩に行ったら、よさそうなホテルを見つけたので、今夜はそこに泊まるそうです」

 キャサリンはサイリスのワイングラスを準備しながら言う。

「海岸って、かなり遠くじゃないか。相変わらずマイペースなやつだな」

 サイリスは、ステーキのつけあわせのブロッコリーをかむ。

「それよりも、昼にアメリアの実家に電話をしましたら、近々様子を見に行きたいとお父様が」

「なんだって?」

 サイリスはブロッコリーをのどに詰まらせそうになった。

「ここにアメリアの父親が来るって?」

「まだ症状が重いからとお断りしようとしたんですが、すぐにも来そうな勢いだったので、先生と相談すると言って、とりあえず保留に」

「確か、父親が直接アメリアをここに連れてきたんだよな。それ以来ほったらかしてきたっていうのに」

「どうします?」

「いいさ。来たければ来るといい」

「いいんですか?」

「それが一番の解決法だよ。会ってみれば、引き取ろうなんていう気はなくなるだろう」

「本当にそうでしょうか?アメリアは、妄想以外は正常ですし……」

「アメリアは、父親の顔もわからないだろうよ。自分を覚えてないとあれば、父親も諦めるだろう」

 その二日後、さっそくアメリアの父親がやってきた。青井は外泊して以来、出かけたまま帰ってこず、かえって好都合だったが、ユウコとサリーには、お客が来ている間は部屋から出ないように、と言い聞かせておいた。

 タクシーで到着したアメリアの父は、白髪で目をしょぼしょぼさせた、小太りの男だった。キャサリンが応接室に案内してきた初老の男を、サイリスは微笑んで出迎えた。

「よくお越しくださいました。遠かったでしょうし、お疲れでしょう」

「いいえ、お気遣いありがとうございます」

 アメリアの父は汗を拭く。

「少しお休みになられてから、さっそく娘さんとの対面といきましょう。ここに呼んできますか?」

「いえ、普段娘がいるところを見てみたいので、連れていっていただけますか?」

「もちろんです」

「娘の病気は、どうなんですか?」

「ええ、ここでは落ち着いた生活ができていますが」

 サイリスは深刻な顔を作ってみせる。

「まだ回復には程遠い状態です。お父様のお顔はわかるかと思うのですが……」

 対面した時のショックを高めるため、あえて希望を持たせる。

「そうなんですか……」

「立ち入ったことをお訊きするようですが、今、娘さんをお引き取りになりたいというのは、なにか理由でも?」

「ええ、実は、親戚が生活費を援助してくれることになったのですが、娘を病院に入れるのは間違ってる、自宅でゆっくりと治すべきだと言われて――」

「それはどうでしょう」

「わかっていますが、まずは娘に会ってから考えると返事をしてしまったもので」

「まあ、そういうことでしたら、さっそく会いにいきましょうか」

「ちょっと待ってください。この水を飲んでしまってから――」

「娘さんが待ってますよ」

 サイリスは、父親を談話室へ連れていった。

 そこには、キャサリンに付き添われたアメリアが大人しく座っていた。いつものネグリジェではなく、アメリアの服の中で一番まともなワンピースを着ている。キャサリンが着るように言ったのだろう。

「アメリア、お父さんが来てくれたよ」

 サイリスは笑顔で言う。アメリアが返事をしないのはわかっていた。

 しかし、アメリアは父親を見て、目を丸くした。

「お父様?」

「アメリア」

 父が腕を広げて近づき、アメリアは立ち上がり、二人は抱擁した。

 サイリスはあんぐりと口を開けた。キャサリンは不機嫌そうな表情を崩さない。

「アメリア、わたしのことがわかるんだね」

「アメリアって誰のこと?お父様」

「一緒に家へ帰らないかい?」

「ええ。いえ、ちょっと考えさせて」

 アメリアは父親から離れる。

「ちょっとだけ、落ち着いて考えたいの」

「そうだろうね。とにかく、元気そうでよかったよ」

「ええ。お父様も」

 沈黙が流れる。

「お父様、今日はこちらに泊まっていかれますか?」

 なんとかショックから立ち直ったサイリスは言う。

「うーん、娘が考える時間が必要と言うなら、そうしたほうがいいでしょうね」

「ええ。キャサリン、客室の用意を」

「かしこまりました」

 サイリスは、アメリアを部屋へ戻らせ、父親も応接室へ連れ戻した。すぐ戻ると言っておいて、自室に入った。サイリスも、考える時間がほしかったのだ。

 その夜、父親の相手はキャサリンに任せ、サイリスはアメリアの部屋へ行った。

 アメリアは、大人しくベッドに腰かけ、虚空を見つめていた。

「ミス・ゴールドウィン、お父様と一緒に家に帰りたいかい?」

 サイリスは、ドアに寄りかかって腕を組む。

「ええ、そうね」

 アメリアは、サイリスを見ずにうなずく。

「どうした?」

「帰ってもいいの?」

「帰りたければ、帰ってもいいぞ」

 サイリスは真剣に言った。これが考えた結果だった。

「先生はわたしに帰ってほしい?」

「帰ってほしくないよ」

 一人分の血が減るのは惜しい。

「でも、一番大切なはきみの意思だから」

 それを聞き、アメリアは静かにうなずいた。

「そう」

「まだ決めるのに時間がかかりそうだな。急ぐことはないよ」

「そうね」

「じゃあ、おやすみ」

 サイリスは部屋を出た。


 翌日の午前、キャサリンは、食堂の窓からぼーっと外を眺めていたサイリスのところへ来て言った。

「アメリアのところへ朝食を持っていきましたら、お父さんと一緒に帰ることに決めたそうです」

「そうか」

 サイリスは肩を落とした。血の供給源が一人減ってしまうのか。

「いいんですか?」

 キャサリンはいつもの険しい表情だ。

「いいも悪いも、本人の意思を尊重するよ」

「もしかしたら、すねているだけなのかもしれません。ちゃんと、帰ってほしくないと言いましたか?」

「言ったよ。その通り、はっきり」

 サイリスは強くうなずく。

「でも、帰りたいと言うなら仕方ない。もしかしたら、実家でもうまくやっていくかもしれないし」

 キャサリンは、なにか言いたそうな、難しい表情を崩さなかった。

「荷造りを手伝ってきます」

 キャサリンが去り、サイリスは深呼吸をして、アメリアの父に話をしに行った。

 父親にアメリアの決心を伝えて部屋から出てくると、紙袋を抱えた誰かとぶつかりそうになった。

「わお、トージ!」

「ただいま、サイリス」

 青井は紙袋を抱え直し、笑顔を向ける。

「なんだ、それは」

「お土産だよ。海岸にしかない珍しい石とか、塩入りパンケーキとか、人魚の彫刻とか」

「それは、ありがとう」

「海岸のほうは少し日差しがあるんだね。焦げそうになって焦ったよ」

「灰にならずに済んだみたいでよかった。その話はあとでゆっくり聞くとして、きみがいない間に重大なことが起きてね」

 サイリスは、アメリアがここを去ることになったことを説明した。

「へえ、そんなことが。今日、アメリアを実家まで送っていくのか?」

「いいや、父親と二人で帰るんだよ」

「送っていかないのか。ちょっと心配じゃないか?僕が代わりに送ってもいいんだけど」

「帰ってきたばかりなのに、悪いよ」

「いいや、超元気さ。帰りのバスで、血を吸わせてくれた女がいてね」

「相変わらず引っかけるのが上手いんだな」

 サイリスはため息をつく。

 バタバタした結果、身支度を終えたアメリアとその父が、玄関に立った。

「今までお世話になりました」

 アメリアは、礼儀正しくサイリスとキャサリンに頭を下げた。

「元気で」

 サイリスはごく短く言う。

「はい、傘を」

 キャサリンが、酸性雨に打たれないように、傘を渡す。

「じゃあ、きみの代わりにしっかり送り届けてくるから」

 結局、青井に頼むことにした。父親は、突然登場した青井に戸惑っているようだが、文句は言わない。

 アメリアと父親と青井は、病院を出ていった。

 キャサリンは、諦めたように背を向けた。サイリスも、とぼとぼと中へ戻り、談話室の前を通りすぎようとした。

「パパ、みすごーるどうぃんはもう帰ってこないの?」

 サリーが言う。抱えているテディベアは、ネコに噛まれたのか、耳が欠けてしまっている。

「そうだよ」

 サイリスは暗い顔のままだ。

「あのじいさんは誰だったんだ?」

 ソファーの陰から、ユウコが這いだしてきた。

「ユウコ、アメリアのお父さんを見たのか?お客さんが来ている間は、部屋から出ちゃだめって言っただろ」

「知るか。あいつは、父親に連れていかれたんだな」

「まあ、そういうことだよ」

 ユウコは黙った。

「どうしたんだ?寂しくなったか?」

「そんなわけないだろ、腐れ医者」

 ユウコは、廊下を這って部屋へ戻っていった。

 サイリスは、自室に戻ってたそがれてしまった。喪失感は癒えそうにない。こういう時は、お気に入りのゴシック小説でも読もうか。

 サイリスは、本を取りに書斎へ向かった。

「先生、やっと来てくださいましたか」

 トビーが言う。

「やあトビー」

 サイリスは構わず本棚をあさる。

「ミス・ゴールドウィンは出発されてしまったのですか?」

「きみまでそのことを知ってるのか、トビー」

「数時間前、彼女がここに来て話してくれましたから」

「え?なんでアメリアがきみに」

「わたしのアドバイスの有用性を正しく認識されているからではないでしょうか。彼女は、ここを離れたくなさそうでした」

「でも、自分で帰ると言ったんだぞ」

「女心は複雑なのです」

「きみに女心を諭されるとは思わなかったな」

「わたしにもよくわかりませんが、とりあえず、素直になるようにとアドバイスしたのですが」

「とりあえず、ね」

「わたしの予想では、彼女は近い内に戻ってきますよ」

「まさか」

「わたしの膨大なデータベースを信用なさらないのですか?」

「賭けをしたいところだが、やめておこう」

 サイリスの中では、アメリアはすでに帰らぬ人になりつつあったが、それはほんの少しの間のことだった。

 日が暮れた頃、食堂でぼんやりと夕食が出てくるのを待っていると、突然ドアが開いた。

 そこには、ドアを開けた、苦笑いのような微妙な表情をした青井と、仏頂面のアメリアがいた。

 驚いて声も出ないサイリスに、アメリアがつかつかと近づく。

「やっぱり帰らないことにしたから。先生が嫌でも、ここに居座りますからね」

 そしてくるりと背を向け、出ていってしまった。

 目をしばたたくサイリス、キッチンから顔を出すキャサリン、きまりの悪そうな青井。

「家には着いたんだよ。でも、やっぱり帰りたいと言いだしてね」

 青井は、自分のせいではないと言いたげだ。

「なんでそんなことに?やっぱり、現実を受け入れ難かったのかな?」

「アメリアは、実家のアパートを、両親が自分を迎えに来るために宿泊した宿だと解釈したみたいだよ。お母さんと会えたことは喜んでたし。でも、向かってる途中も、ずっとなにか悩んでる様子だったよ」

「ふーん……喜んでいいんだろうか」

「喜んでいいと思うぞ。でも、彼女は怒ってると思うよ」

「怒ってるって、なんで」

「さあ。彼女と話したほうがいいと思うぞ、サイリス」

 青井の訳知り顔に、サイリスは顔をしかめる。

「わけがわからない」

「ちょっと様子を見てきます」

 キャサリンはエプロンをしたまま出ていった。

 遅れてしまった夕食のあと、サイリスはアメリアの部屋へ行った。しかし、アメリアはいなかった。トイレかシャワーだと思い、サイリスは、ベッドに腰かけて待った。

 濡れた髪を拭きながら戻ってきたアメリアは、サイリスを見て目を丸くした。

「なにをしてるんですか?」

「きみを待ってたんだよ、ミス・ゴールドウィン」

「ほんと迷惑なんだから。驚きましたよ」

「驚いたのはこっちだよ。戻ってくると思ってなかったから。トビーは戻ってくることを見抜いてたようだけど」

「そうですか」

「どうしてわたしじゃなくて、トビーと話すんだ?」

「ちゃんと話を聞いてくれるのはトビーだけだもの。キャサリンはいい人だけど、完全に先生の味方だし」

「そうかなあ」

「わたしの意思を尊重するんでしょ。だったら、なにも文句ないですよね?」

「なにを怒ってるんだ?ミス・ゴールドウィン」

「別に、怒ってません」

「明らかに怒ってるだろ。トージもきみが怒ってるって言うし。きみが戻ってきてくれたのは嬉しいが、このままだと、どうしていいのかわからないよ」

「戻ってきて嬉しい?」

「もちろんだよ。嬉しいさ」

 血の供給源が減らなくて助かった。

「だったら、どうして引きとめてくれなかったんですか?」

 アメリアは、サイリスに詰め寄る。

「出ていってほしくなかったら、絶対行くなって言うとか、追いかけてとめるとかすればいいじゃないですか」

「帰ってほしくないとは言ったじゃないか」

 アメリアは、サイリスを暗い目で見下ろしている。

「なんだよ。強引にとめてほしかったのか?」

 これが女心ってやつなのだろうか。

「先生がここを出ていきたかったら出ていけばいいですわ。とめはしません。でも、わたしを放りだすのは許しません」

「放りだしてなんかないだろ」

「引きとめなかったら同じことです」

「わかった、悪かったよ」

 アメリアは、ふんと鼻を鳴らした。

「ごめんよ。許してくれるかい?」

 サイリスは手を差しだした。

 アメリアはそっぽを向いたまま、その手を軽く握り、サイリスは微笑んだ。

「キャサリン!採血だ!」

 サイリスは元気よく部屋を飛びだした。


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