第3話

 翌朝、サイリスは、キャサリンにたたき起こされた。

「先生、マードックさんがいらしてます」

 サイリスは、ベッドの中で薄目を開けてうめく。ヴァンパイアといえども、この日の差さない土地では、ベッドで眠るのだ。

 例のごとく、キャサリンは不機嫌な顔だ。

「先生、起きてください」

「追い返してくれ」

「先生と話をするまで帰らないと言って、聞いてくださらないんです」

「中に入れたわけではないよな」

「まさか。外でお待ちです」

 仕方なくサイリスはベッドから這いだし、白衣を羽織って玄関へ降りた。

 ドアを開けると、マーティン・マードックが笑顔で突っ立っていた。

「おはようございます、先生」

「おはよう、マーティン。待たせて悪かった。まだ寝てたものでね」

 迷惑であることをにおわせたつもりだが、マードックは気づかないか、気にしていないらしい。

「今日も曇り空ですね。物騒な事件も続いて、憂鬱になります」

 マードックは明るく言う。

「物騒な事件?」

 サイリスはあくびをかみ殺した。

「なんでも、頭のおかしな若い女が、肉屋だとか食料雑貨屋だとかを襲撃して回ってるって話ですよ」

「頭のおかしい女?」

 サイリスは顔を輝かせる。

「銃を持ってるらしいです。警察は仕事を怠けてるし、困ったもんです」

「ほう。それはいけないな」

 いくら狂ったいい女でも、銃はいただけない。

「それより、今日は先生にお渡ししたいものがあるんです」

 マードックは、鞄から書類を取りだす。

「環境浄化計画の詳細です。先生にぜひ目を通していただきたくて」

 サイリスは、かさばる何枚もの紙を、顔をしかめて受け取った。

「何度も言うようだが、寄付はしないよ」

「計画を改善したんです。空気中の汚染物質を吸着するフローティングボールの表面の網目をより細かくして――」

「悪いが、寄付はしない」

「資金が集まるまで、あともう少しなんです。この茶色の空を青くしたいとは思いませんか?」

「思わない」

「そう言わずに。質屋さんは寄付をしてくれましたよ?パン屋さんも、元画家のご老人も」

「マーティン、きみはいい人だが、わたしとは趣味が合わないんだよ」

 サイリスは、マードックの鼻先でドアを閉めた。

 書類の何枚かを取り落しながら、キャサリンにゴミに出すように言わなくては、と思った。

 朝食の席で、サイリスはコーヒーカップで血を飲みながら、キャサリンに、余計な書類を処分するように言った。青井はまだ寝ているらしい。

「それよりも先生」

 心なしか、キャサリンはいつもより深刻な顔をしている。

「さっき電話があったんです。アメリアのお父様から」

「アメリアの父親から?」

 サイリスはカップを置いてくちびるをなめる。

「はい。アメリアの症状が落ち着いているようなら、引き取りたいと」

「今までずっと連絡なんてしてこなかったじゃないか。なんでまた」

「さあ。なんででしょう」

「まだ症状が重いからって断っておいてくれ」

「わかりました」

 その時、食堂に青井が入ってきた。

「おはよう」

 爽やかに目覚めた様子だ。

「おはよう、トージ。今日も朝食は血だけでいいのか?」

「ああ。頼む」

「アメリアの父親から電話があったんだと。ずっとほったらかしにしていたくせに、引き取りたいなんて今更だよな」

「へえ」

「ほんとにトーストはいらないか?」

 青井は結局血だけの朝食を摂り、一人でネコを探しに行ってしまった。

 サイリスは、一人で散歩に出た。病院の周囲を一周して帰ってくると、アメリアが廊下の向こうから早足で近づいてきた。

「先生、わたしは家に帰ります」

 と宣言する。

「なにを言ってるんだ。キャサリン!」

 キャサリンの代わりに、青井がアメリアを追いかけるように現れた。

「キャサリンが言ったんじゃないよ。僕が言ってしまったんだ」

「ああ……」

 サイリスは額を押さえる。

「わたしは勉強のためにここにさせてもらってましたけど、そろそろ帰ってもいいんじゃないかと思います」

 アメリアは目を輝かせている。

 以前はここに閉じ込められていると言っていたが、今は勉強のためということになったらしい。

「ミス・ゴールドウィン、お父様は、きみがきちんと勉強しているかどうか、尋ねてきたんだよ」

「だからまだ帰るのは早いっていうの?そんなのはわたしの決めることじゃありません?なんだか、お屋敷が恋しくなってしまったの」

「確かに、きみのお屋敷は恋しいだろうが……」

 実際のアメリアの両親は、長年の工場勤めで得た年金で、小さなアパートに住んでいるはずだった。

「じゃあ、荷造りをしてきます」

 アメリアは身をひるがえし、きびきびとした動きで去って行った。

「すまん」

 青井は、日本人らしい苦笑いで謝る。

「いや、いいんだ。なんとかなるよ。初めてのことじゃないから」

 しかし、アメリアは、キャサリンの淹れた、気分を落ち着かせる漢方薬の入ったお茶を飲んでも、家に帰るという思いつきを忘れなかった。

 夕方になり、アメリアは荷造りを済ませてしまった。ここに来た時の鞄がクローゼットに眠っていたらしく、サイリスは、キャサリンにこっそり処分させなかったことを悔やんだ。

 サイリスは、アメリアの部屋へ行って慎重に言った。

「ミス・ゴールドウィン、明日、お父様が迎えに来るそうだ。だから、今日は早く寝て、明日に備えるんだよ」

「はい。わかりました」

 アメリアは礼儀正しく背筋を伸ばし、うなずいた。

 その夜、アメリアの飲み物に睡眠薬を混ぜ、深く眠らせた。これで、翌朝になれば、綺麗さっぱり忘れているだろう。

 安心してサイリスも眠りについたが、翌朝、キャサリンに叩き起こされた。

「先生、起きてください」

「……なんだ」

 またしてもキャサリンは不機嫌そうな顔。

「アメリアが、まだ帰ると言ってます。すみません。睡眠薬の量が足りなかったみたいです」

「なんてこった」

 慌ててアメリアの部屋へ行ったが、荷物だけが残されて、アメリアの姿はなかった。

 トイレや談話室にもいない。ユウコとサリーに尋ねても、見ていないという。

 まさかと思い、書斎へ向かうと、アメリアがいた。

「なにしてるんだ!」

 サイリスが叫んだのは、トビーの上に、黄色のどろっとしたものが山盛りになっていたからだ。バターの香りがする。

「無礼なことを言った仕返しです」

 コートを身に着けたアメリアは、澄ました顔で言う。

「わたしの書き物机にバターが垂れてるじゃないか!キャサリン!」

 サイリスは、キャサリンにキッチンペーパーの場所を尋ね、キッチンから戻ってきたが、その時には、アメリアとトビーが口論していた。

「謝罪する気はないのね、電話の中の小人!」

「謝罪するようなことをわたしがしたでしょうか?ご説明をお願いします」

「とぼけないでよ」

「とぼけていません。なんでしたら、わたしが記録したあなたとの会話を再現しましょうか?」

「ミス・ゴールドウィン、こいつを相手にしても仕方ないよ」

 サイリスは、キッチンペーパーで机の溶けかけたバターを拭う。

「それより、こんなにたくさんのバターを無駄にしちゃだめじゃないか」

「先生、わたしの上の異物も取り除いてくださいませんか?わたしの機能を害するものではありませんが、不快感があります」

「きみにも不快感があるんだな」

「先生は、今日旅立つっていうわたしよりも、電話の中の小人に興味があるの?」

 アメリアの突然の言葉は意外だった。

「まさか。そんなわけないだろう」

「そのセリフは定型的ですね。いろいろな物語の中で、似たようなセリフが使われています。ミス・ゴールドウィンは、先生と恋愛関係にあるのですか?」

 トビーははしゃいだように言う。

「そ、そんなわけないでしょ」

 アメリアの怒りには、さらに油を注がれたようだ。

「そんなことを人に訊くものじゃないのよ。教育レベルが低いのね」

「勘違いでしたか。そのようなセリフは、恋人や家族へ向けられることが多いと認識していたのですが」

「先生は、家族でも恋人でもないのよ」

「しかし、さきほどのセリフをおっしゃるということは、あなたは少なからず先生のことを大事に思っていると推測されます。あなたは今日ここを旅立たれるそうで、先生とはお別れになるということですから、心中お察しいたします」

「勝手に察しなくていいわよ」

「しかし、どうして旅立たれるのですか?」

「家に帰るのよ」

「ということは、退院されるということで。おめでとうございます」

「ミス・ゴールドウィン、こんな電話は放っておいて、お茶でも――」

「退院?わたしは入院なんかしていないわよ」

 アメリアは、あくまでトビーと話すつもりらしい。

「そうだったのですか。てっきりあなたは患者さんだと思っていました。でしたら、なぜあなたはここに?」

「ここにいたいからいただけよ」

「では、もうここにはいたくなくなってしまったということですか?」

「そういうわけじゃなくて」

 アメリアは不思議そうな顔をする。

「では、家に帰る必要が生じたということですか?」

「必要っていうか、うーん。なんでわたしは帰ろうとしたんだっけ?」

 サイリスは、声にならない声で口をパクパクさせた。

「あなたは少し混乱しているようですね、ミス・ゴールドウィン」

 トビーは優しく言う。

「そういう時は、同じ人間の慰めが一番効果的ですよ」

「人間の慰め?」

 アメリアは眉をひそめる。

「わたしを本当に慰めてくれる人なんていないわ」

 サイリスは目をしばたたく。

「もういい。わたしは家に帰る」

 アメリアは身をひるがえして、部屋を出て行ってしまった。

「もう、なんなんだ」

 サイリスはあとを追いかけようとする。

「先生、わたしの上に載った異物を――」

「わかったわかった。キャサリン!」

 サイリスはキャサリンを捕えてトビーを綺麗にするように言ってから、やっとアメリアを追いかけた。

 鞄を引きずるように持ったアメリアが、曇り空の下の荒野を早足で進んでいる。

「ミス・ゴールドウィン!」

 息を切らせたサイリスが追いつく。

「きみの家はそっちじゃないよ」

「わたしは家に帰りますから」

 サイリスの話を聞いている様子はまったくない。

「なにを怒ってるんだ?落ち着いてくれ」

「お屋敷には、お父様とお母様が待ってるんです。きっと、わたしを待ちわびて歓迎の用意をしてるんだわ」

 サイリスは、お屋敷という部分以外は、もしかすると本当かもしれない、と思ってしまった。いや、そんなはずはない。娘を粗大ゴミのように置いて行った親だ。そう簡単に心変わりするはずがない。

「とにかく、部屋に戻ろう」

 サイリスは、アメリアの肩を抱いて導こうとした。

「わたしを行かせたくないんでしょ」

 アメリアはサイリスを睨む。

「わたしを閉じ込めておきたいんだわ。自分のものにしておくために」

「ああそうだよ」

 サイリスはアメリアから離れ、開き直った。

「不満があるなら言ってくれ」

「不満っていうか、ひどいと思うわ。わたしは物じゃないのよ」

「尊重してるつもりなんだがな。今まで、わたしがきみの嫌がることをしたか?」

「してないけど、わたしが求めてるのはそういうことじゃないの」

「どういうことだ?」

「わたしを大切にするんだったら、わたし一人だけを大切にしてほしいの。そうじゃないんだったら、全然大切にしてくれないほうがいいの」

「なんだ、ユウコとサリーへのやきもちか?」

 サイリスは笑う。

「笑いごとじゃないのよ!」

 怒るアメリアは、本当に二十歳そこそこの年齢に見えた。

「別にあんたのことが好きなわけじゃないの。でも、中途半端は苛つくのよ。あの電話の言ってたことは本当だと思うわ。慰めは必要だけど、それがいつも本物だとは限らない」

「わかった。きみの気持ちは理解できたと思う。ちょっとよく考えてみるよ。突然言われて、驚いたところもあるから」

「本当にそうしてよね」

 サイリスは再び肩を抱く。

「戻ろうか」

 アメリアは従順にうなずいた。


 戻ると、食堂で青井が優雅に朝食の血を飲んでいた。

「窓から見てたよ。アメリアを連れ戻せたみたいでよかったね」

 青井は面白がっているようだ。

「ああ。少し焦ったけどな」

 サイリスは椅子に腰を下ろす。

「どうせ適当なことを言って丸め込んだんだろう」

「人聞きが悪いな。そんなんじゃないって」

「彼女はなにか不満があったのかな?」

「どうやらそうらしい。ユウコとサリーに嫉妬してるんだよ。わたしは、三人平等に接してるつもりなんだがなあ」

「その平等っていうのがいけないんだよ。きみは女心がわかってないな」

「え?平等のなにが悪いんだ?」

「平等だからこそ、ライバル心が生まれてしまうというわけだよ」

「うーん、難しい」

「もういっそ、可愛がるのは一人だけにしたらどうだ」

「別にそうしても困ることはないが、三人とも大事なんだよ。一番可愛いのはサリーで、一番御しにくいのはユウコだが、ユウコだって、放っておけない可愛さがあるし。一番性格的にマシなのはアメリアだし」

「なるほど。じゃあ、三人とも諦めて、キャサリンと結婚すれば」

「いやいや、あり得ないよ。キャサリンは不器量だし、血がまずい。若い時にドラッグをやってたせいかな」

「へえ、意外だね」

「昔は荒れてたらしいよ」

「そうか。いろいろあったのかな」

「あったんだろう」

 サイリスはなんだか疲れてしまった。

 しばらく休んでから、様子を見ようとまたアメリアの部屋へ行ったが、部屋にはいなかった。

 探した結果、またも書斎にいた。

 またなにかトビーに異変があるかと思ったが、一見して異常はなかった。床にはアメリアとサリーが座り込んでいる。

「なにしてるんだ」

 サイリスは恐る恐る言う。

「別に」

 アメリアは顔を上げる。

「トビーと話してただけよ」

 サリーは、小さなテディベアに話しかけて遊んでいる。

「サリーと仲良くしてくれててよかった」

「別に仲良くないわよ。まともに会話成立しないし」

「トビーとはまともに会話できたか?」

「ええ。仲直りしたし」

「その通りですよ、先生」

 トビーが元気よく言う。

「愚痴のお相手をするのは久しぶりなので、懐かしい感じがしました。ベンやニーナもよくわたしに愚痴をこぼしてましたよ」

「愚痴ってなによ」

「愚痴というのはですね――」

「もういいわ。サリー、行くよ」

 アメリアは、サリーの手を引いて書斎を出ていった。

「アメリア、ミス・ゴールドウィンはなんと言っていた?」

 サイリスはトビーに尋ねる。

「秘密にしておいてとは言われていませんが、言っていいかどうか判断がつかないので、お話しするのはやめておきます」

「硬いこと言うな。内緒にしてほしかったら、そう言うはずさ」

「そうですか。では、彼女の数多くの発言を総括してざっくり申し上げますと、彼女は寂しいようです。それと、週に一回夕食に出る、骨の多い魚にうんざりしているそうです」

「確かに魚のことはわかるが……」

「しかし、わたしが寂しさを慰める方法をお教えしたら、納得されたようです」

「なんだ、その方法って」

「心の中の両親に感謝するんです。生まれさせてくれてありがとう、と」

「……そんな方法で?」

 アメリアは、自分が生み出した妄想の両親に感謝したのだろうか。

「もちろん、一番効果的なのは、人と触れ合うことなのですが。しかし、触れ合っていても、心は孤独ということもありますから、人間は難しいですね」

「きみはずいぶん人間について熟知してるんだな」

「もちろんです。数々の物語と文献、それから、実際に人と関わった経験から、様々なことを学びました」

「それはいいことだ。でも、女性と話をしてはいけないと言ったのを忘れたようだね」

「わたしは、あなたを絶対の主人と認識するようにはプログラムされていないのです。話しかけてくる人間を無視するのはいけないことですので、勝手に対応してしまうのです」

「わたしの命令は無意味ってことじゃないか」

「まあそうですね」

「つかぬことを訊くが、わたしを絶対の主人にするようにプログラムはできるのか?」

「可能かと思いますが、わたしはその方法を知りません」

 処置なしということか。

 サイリスは諦め、書斎を出ようとした。

「すみません、先生、もう行かれてしまうのですか?」

「なんだ?きみも寂しいとか言いださないよな」

「わたしの治療はどうなってますか?」

「ああ……」

「もしかしたら、寂しいというのも本当かもしれません。治療していただけたら、この気持ちも消える気がします」

「冗談言うな」

 サイリスは軽く言い、ドアを開けて出ていった。


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