第2話

 翌朝、サイリスは忌々しい鉄くずを荒野へ捨てに行こうとした。が、黒いコートを着て廊下を玄関ホールへ向かっていると、行く手を阻まれてしまった。

「パパ、見て!」

 サリーが満面の笑みを浮かべ、水色のワンピースの胸に二匹のネコを抱えていた。黒ネコと白ネコで、昨日のシマとは違う。

「わお、サリー、どこで見つけたんだい?」

 その時、足元を灰色のかたまりが駆け抜けて行った。

「待ちなさい!」

 アメリアが、スカートの端をつまんで駆けてきた。ネコの消えた廊下の向こうを見て、息をつく。

「どうして逃げるのよ。サリーには大人しく抱かれるのに!」

 アメリアは気難しげに顔をしかめる。

「一体何匹いるんだ?」

 サイリスは呆れた。

「パパ、飼ってもいい?」

「うーん、ほかにもいるかもしれないし、全部は手に負えないよ」

「じゃあ一匹だけでもいい」

「たくさんいる中の一匹だけ可愛がるのはかわいそうだろ?サリー、よく考えるんだ」

「うーん……」

 可愛らしく悩むサリーの頭をサイリスはなでる。一本一本の髪の毛が細いサリーの頭をなでるのは気持ちがいいのだ。

「ネコと一緒に遊んじゃだめって言ってるわけじゃないよ。そうだ、またユウコに見せてあげようか」

「うん、そうする」

「じゃあ、先に行ってて」

 サイリスはグラスを持ってきて、ユウコの部屋の前で律儀に待っていたサリーと一緒に、ユウコの部屋を訪ねた。

「おはよう、ユウコ」

 ユウコは、ベッドの上にあぐらをかき、やすりで爪を削っていた。

「ユウコ、そんなに爪を尖らせると危ないぞ。はい、血が増える魔法のジュースだよ」

「いらねえよ。そんな下水のようなものを飲まなくても、俺はあの気取ったクソアマみたく貧血になったりしねえんだよ」

「アメリアのことをそんな風に言っちゃだめだよ。ユウコの血の多さにはいつも助けられてる。朝食に頂いたが、いつも通りとてもおいしかったよ」

「いつも同じこと言ってんじゃねえ。舌引っこ抜くぞ」

「ところで、今日もネコを見せてあげようと思ってね」

「可愛いでしょ」

 サリーは二匹のネコを床に放した。ユウコは顔をしかめる。

「俺の部屋にけだものを持ち込むな」

 その時、ドアが勢いよく開いた。

「やっと捕まえたわ。こんなにたくさん」

 何匹ものネコを抱えたアメリアだった。

「ユウコはネコ好きなんですってね。昨日サリーから聞いたわ」

 アメリアはネコをユウコのベッドに下ろす。ネコたちは勝手気ままに歩き回る。

「ちょ、どかせよ」

 ユウコはどうしていいかわからないようだ。

「わたしの叔父さんもネコ好きで、たくさんのネコを飼ってたのよ」

 アメリアは腰に手を当てて言う。

「たくさんの別荘の中のひとつはネコ屋敷って呼ばれてて、ネコとネコの世話をする使用人が百匹と五十人も暮してたの。ネコ一匹一匹にベッドのある部屋があって、ネコが登って遊べるブロックみたいなクッションが天井まで積み上がってるのよ」

「叔父さんって、前話してた、すごく広い薔薇園を持ってる人のこと?薔薇のことしか好きじゃないって言ってたよね?」

「それは別の叔父さんよ」

 首をかしげたサリーに、アメリアはぴしゃりと言う。

「先生?」

 再びドアが開いた。キャサリンが顔を出す。

「ここにいらっしゃいましたか。客室の壁紙を張り替えるので、手伝っていただけませんか?」

「わかった。それが終わったら、壁か窓に破れているところがないか調べないとな」

「窓拭きも手伝っていただきたいんですが。青井さんがいらっしゃる明日までに間に合わせませんと」

 そんなこんなで、バタバタしているうちに夜になってしまった。

 ひさびさに肉体労働をしたため、サイリスは椅子に座って一息つかなければならなかった。自信が持てるような体力ではないのは自分でわかっている。

 しかし、あの鉄くずのことを思い出した。美女でもないくせに患者面するやつは、早くこの病院から出さなくては。

 サイリスは開けていたワイシャツの第二ボタンをとめ、再びコートを着て、玄関ホールへ向かった。

 箱に懐中電灯の光を向けると、すぐにホロが立ち上がった。

「彼女は激怒した。彼女には彼の気持ちがわからぬ――」

「なにを言ってるんだ」

 サイリスは苛つき、思わず尋ねてしまう。

「サイリス・ウィアードですか。すみません、少し混乱していまして」

 トビーは申し訳なさそうに言う。

「物語を語っていたんです。それがわたしの仕事のひとつですので」

「宇宙船のAIが?」

「宇宙の旅に彩りを添える役目です。なにかご希望の物語はありませんか?サイリス・ウィアード」

「結構だ、トビー。それに、わたしのことは先生と呼んでくれ。あと数分の付き合いだがな」

「どういうことですか?先生」

「お前を荒野に捨てに行くんだよ」

 サイリスはトビーを持ち上げた。重いが、ぎっくり腰になるほどではない。

「それは治療法のひとつですか?」

「まさかな」

 苦労して片手で玄関の鍵を開ける。

「治療を放棄するということですか?」

「もちろん、そういうことだ」

「対価でしたら支払います。先生のためになにかお役に立つ仕事をしますよ」

「人手は足りてる」

 月明かりに青黒いトンネルを抜ける。コウモリたちが奇声を上げて舞った。

「よく考えてください。キッチンシステムのアップデートなどは得意ですよ。ほかにも、お掃除ロボットのアップデートとか、パソコンのアップデートとか、セクサロイドのアップデートとか――」

「壁の修理はできないだろ。そういう機械は、戦争の時に溶かされて、銃だとか戦車だとかにされたんだよ。ソフトウェアの更新が必要なものなんて、もうないんだ」

「それは悲劇的な世の中だ」

 突然口調が変わる。

「その、いきなり別人になるみたいなしゃべり方はなんなんだ」

「わたしの中の膨大な物語データベースの中から引用しています。わたしのかつてのパートナーは気に入ってくれていましたが、お気に召しませんか?」

「かつてのパートナー?」

 サイリスはいったんトビーを地面に置き、鉄格子の鍵を開ける。

「宇宙飛行士のベンです。ともに遥かなる宇宙を駆けた仲間です。飼い犬と離れ離れになるのが地球を去る際の唯一の心残りで、わたしに飼い犬と同じ名前をつけて、心の慰めにしていました」

「じゃあ、トビーっていうのは」

「彼のマルチーズの名前です」

「ともに宇宙をって、実際に宇宙へ出たことがあるっていうのか?」

 サイリスは動きをとめていた。

「もちろん」

 トビーは誇らしげに言う。

「ほかにも仲間はいますよ。ニーナとエヴァンゼリンとボブです。わたしは本来、常時宇宙船に接続されることを前提に設計されたのですが、彼らはわたしを小型ロボットに移植し、一緒に様々な惑星に降り立って冒険できるようにしてくれました。おかげで、たくさんの興味深い体験をすることができました」

 サイリスは首を振った。

「それも『物語』なんだろ?」

「違います。これは事実です」

「人間がほかの惑星に行ったなんて、嘘に決まってる」

「本当なのです。退化した世界の退化した脳を持ったあなたには信じがたいでしょうが」

 まったく悪びれない口調に、サイリスは青筋を立て、鉄格子を開け放ち、乱暴にトビーを持ち上げようとした。

 体を起こそうとしたその時、あろうことか、手を滑らせて革靴の足の上に落としてしまった。

 悲鳴を上げ、足を押さえて転げ回る。

「怪我をしたのですか?助けを呼びますか?わたしの音量を最大限にすれば、地球の地表では一キロ四方まで届くはずです。ただし、山や建物などの障害物がある場合はこの限りではありませんし、川やスピーカーなどの音を発するものが近くにある場合、音楽スタジオに設置されている標準的な防音扉がある場合などもこの限りではなく――」

「トビー!お前のせいでお気に入りの靴に傷がついたじゃないか!」

 サイリスは、靴を懐中電灯で照らして叫んだ。

「もうお前の顔も見たくない!顔というかなんというか!」

 サイリスはトビーを置き去りにし、病院へ引き返した。

「先生、お待ちください、まだわたしの治療に関する交渉が済んでいません」

 サイリスはドアを閉めた。


 肩を揺さぶられ、サイリスはゆっくりと目を開いた。

「先生。そろそろ起きたらどうです。青井さんが来てしまいますよ」

 丸眼鏡のキャサリンが見下ろしている。

 見れば、隣にはサリーが寝息を立てている。シーツから、裸の肩がのぞいている。

 サイリスも服を着ていない。

「やばい、目を覚ます前に服を着せないと」

 サイリスは慌てた。

「わかってます」

 キャサリンは注射器を掲げた。やっぱりキャサリンは気が利く。

 サリーに鎮静剤を打って目を覚まさないようにしてから、服を着せる作業はキャサリンに任せ、サイリスはそそくさと服を身につけた。

 いつもは、終わってからきちんと寝巻を着るのを見届け、サイリスは自分の部屋へ帰るのだが、昨夜はそのまま二人とも眠ってしまったらしい。

 目覚めて、父親と一緒に裸でベッドにいる自分を発見する子供の精神状態は好ましいものではあるまい。サリーにはきっと理解できないとしても。

 サイリスは、朝になると子供に戻ってしまうサリーが目を覚ます前に、サリーの部屋から出た。

 シャワーを浴び、身支度と朝食を終え、サイリスは談話室へ向かった。アメリアとサリーが、ネコたちと遊んでいる。

「ユウコはどこかな?」

「さあ。さっきはいましたけど」

 アメリアは布きれでネコをじゃらそうとするが、そっぽを向かれてしまう。

「ネコタンと遊んでるよ。階段のところで見たもん」

 サリーが言った。昨夜の記憶は消え、いつも通り、サイリスを父親だと思い込んでいる子供になっている。

「そうか。今日はトージが来ることになってるんだ。しばらくいると思うから、失礼のないようにしてくれよ」

 サイリスは笑顔を向ける。

「わかったよ、パパ」

「もちろんですわ。わたしも一度、トージさんとじっくりお話してみたいわ」

「トージもきっと喜ぶよ」

 サイリスはユウコを探しに行った。ユウコは、階段の踊り場で、微笑みながら黒ネコを優しくなでていた。

 自分を見上げているサイリスに気づき、しまったとい表情をする。

「ユウコ、今日はトージが来るんだ。しばらくいると思うから、失礼のないようにな」

「あ、あの不気味な顔の日本人か。お、俺の機嫌を損ねたら、首をかじり切ってやる」

 ユウコはどもりながら言い、じゃれつくネコがまるで消えたかのように振る舞う。

「トージによく言っておくよ」

 サイリスは、笑いをこらえながら立ち去った。

 午後、青井冬児を乗せた車がやってきた。

「タクシーを捕まえるのに苦労したよ。この国もより一層荒廃したな」

 青井は、落ち着いた声で軽く言いながら、旅行鞄を運び入れた。相変わらずの全身黒づくめで、ユウコの言う「不気味な顔」は、サイリスからすれば、自分と比べてもいい勝負なくらいの美貌に見えた。ユウコには、彼のつり上がった目や裂けたような大きな口が、日本人離れしていて恐ろしく見えるのだろう。

「どこも同じようなものだろうよ。まあ、くつろいでいってくれよ。部屋はこっちだ」

 サイリスは鞄を持ってやり、部屋に案内した。

 部屋にはキャサリンが待機していた。

「あれ、キャサリン、夕食の支度は?」

 サイリスは単純に疑問に思って言う。

「下ごしらえは済んでます」

 キャサリンは気分を害したように答える。

「青井さん、ようこそお越しくださいました。なにかご用があれば、なんでもわたしにお申しつけください」

 キャサリンは、日本風に深く頭を下げた。

「ご丁寧にありがとう。お元気そうでよかった、キャサリンさん」

 キャサリンは顔を輝かせた。

 サイリスは、普段にはない表情をしているキャサリンを、細めた目で内心苦々しく見る。こうもわかりやすいと、なんだが苛ついてくる。

「わたしは夕食の支度がありますので」

 照れたように行ってしまうあたりも憎たらしい。

「ほかの子たちも元気にしてるのかな?えっと、イギリスのお嬢様と、金髪の子と、あと、日本人の」

「みんな元気にしてるよ。アメリアとサリーとユウコ」

「サリーって子はどこの国だっけ?」

「ロシアだよ。本当はもっと長たらしい名前なんだが、呼びにくいからサリーっていう名前をつけたんだ」

「そんなことでいいのか?」

 青井は笑う。

「サイリスは、優しいようで残酷なところがあるからな」

「どういう意味だよ?」

「まあいい。あとでゆっくり近況を話そう」

「そうだな」

 その日の夜には、ヘルシーアンドゴージャスな食事が並んだ。いつもはサイリスと同じテーブルに着かないキャサリンも、ちゃっかり一緒に座って食べている。

「飲んでみてくれ。三人の血だ」

 サイリスは勧めた。青井の手元には、三つのワイングラスがあり、それぞれ血で満たされている。

「さっき、キャサリンが取ってきてくれたしぼりたてだぞ。少ししかないのが申し訳ないが。三人を貧血にしたくないんでね」

「とんでもない。三人の血を一度に飲めるなんて嬉しいよ」

「冷凍保存してあるのならもっとあるから、欲しければ言ってくれ」

「ありがとう。グラスがいい感じに人肌程度に温められているね。相変わらす素晴らしい気遣いだ」

「お湯を注いでから冷ますんです。加減をつかむのに苦労しました」

 キャサリンが誇らしげに言う。

 青井は、三人の血をそれぞれ味見した。

「うん、どれも素晴らしいね」

「ありがとう、って、わたしが誇ることじゃないんだが」

 サイリスも、自分のグラスを傾ける。

「でも、やっぱり僕は首筋から直接飲むのが好みだな。もちろん、きみの可愛い患者さんたちに手を出すつもりはないよ」

「遠慮してくれて助かる」

「きみは、牙を立てるなんて野蛮だと思っているんだろう?」

「そんなことはないさ。採血して飲むのが、わたしのスタイルだっていうだけでね。ところで、旅先での血の確保はどうしてるんだい?」

「僕に血を吸われたいっていう女性は山ほどいるんでね」

 そう言って、いたずらっぽく笑う。

「そうやって鼻にかけるんだからなあ」

「もちろん、殺さないようには気をつけてるよ」

「当たり前だ。死ぬまで血を吸ったら、相手がヴァンパイアになってしまう」

「同類の女性は妻一人で十分だからね」

「人間の女性は大切にしないと」

「大いに同感だね」

「初めて会った時、きみは女性を口説いているところだったよな」

「違うよ、口説かれてたんだよ。きみに助けてもらったんだ。あまり好みのタイプじゃなかったから、助かった」

「きみを一目見て、気にくわないと思ったから邪魔したつもりだったのに」

 サイリスは冗談で残念がってみせる。

「初対面で、同類だっていう気がしたよ」

 青井にそう言われると、サイリスは嬉しかった。

「そうそう。きみはヴァンパイアのオーラがよく出てるから、すぐわかったよ」

「そうかな?これからは目立たないように気をつけるよ」

「全身黒ずくめはよくないんじゃないか?オーラが出すぎる」

「そうだな。チェックのシャツに眼鏡と帽子でも」

「いいな、それ」

 ひとしきり盛り上がり、青井も美味そうに料理を平らげた。ワイングラスの内側に付いた血さえ、青井は中指で拭って口に入れてなめた。

 朝からサリーのことで焦り、久々の青井の訪問もあり、サイリスは、鉄くずのことをすっかり忘れていた。

 翌朝は、いつも以上に厚い雲がいい感じで空を覆っていたので、サイリスは、青井を誘って散歩をすることにした。

 一緒に玄関ホールを歩いている時も、まだ忘れていた。

「旅の疲れはどうだ、トージ」

「ぐっすり寝たんで、もうすっかり取れたよ。きみの病院の寒々とした雰囲気には本当に癒されるね」

「それは光栄だな」

 サイリスは玄関の扉を開け、コウモリたちのトンネルに出た。

「あ!」

 サイリスは声をあげる。

「一体どうしたんだ」

「あいつのことを忘れていた!」

 サイリスは、地面に転がっているトビーに駆け寄った。その衝撃に反応するように、ホロが立ち上がる。

「先生、わたしの治療をしてくださいますか?」

「なんなんだ、これは」

 青井が隣で見下ろす。

 サイリスは、気の狂ったAIだと説明した。

「先生、わたしが治療のお礼にする仕事は見つかりましたか?カルテの整理ですか?この際、食料庫の品目をデータベース化しますか?お隣にいらっしゃるのはこの前ご一緒にいらしたのとは別の方のようですね。はじめまして。わたしはトビーと申します。あなたのお名前は?」

「うるさいAIだな」

 サイリスは顔をしかめる。

「はじめまして。僕は青井冬――」

「わたしがうるさいのは、わたしの口数レベルが高く設定されているからだと思います。狭い宇宙船の中で人間が共同生活をするにおいて、わたしという第三者の目を強く意識することは、人間同士の攻撃性を和らげることに役立つのです」

「今トージがしゃべろうとしてるだろ!」

「いいんだよ」

 青井は面白がっているようだ。

「荒野に捨ててやる」

 サイリスはトビーを持ち上げようとしたが、青井に肩を押さえられる。

「治療してやったらどうだ?」

「冗談じゃない。サイリス・ウィアードは美女しか受け入れないんだよ」

「でも、AIだなんて興味深いじゃないか。もしかしたら、世界で最後のAIかもしれない」

「だからって、こんなに口数が多くて失礼なやつを?」

「わたしに味方してくださってありがとうございます。その調子で先生を説得してください、アオイトウ」

「青井トージだ、馬鹿。彼のことは青井さんと呼べ」

「わかりました、先生」

 サイリスは、再びトビーを持ち上げようとする。

「やっぱり捨てちゃうのかい?サイリス」

「いや、病院の中に運ぶ。きみがいる間だけだが」

「よかった。手伝うよ」

 サイリスと青井は、トビーをサイリスの書斎へ運んだ。

 なんと、机の上で、黒と白のネコが載ってぐるぐると追いかけっこをしていた。

「わお、降りろ降りろ」

 サイリスは、テーブルにトビーを置いてから、ネコを机から払い落とした。

「だめだよ」

 青井は駆け寄る。

「ネコちゃんがかわいそうじゃないか!」

「え?トージってネコ好きだったの?」

 サイリスは目をしばたたく。

「ああ。お、慣れてるな」

 青井は屈み、ネコをなでる。

「日本人はネコが好きなのかな?」

「人それぞれだと思うよ。どうして?」

「ユウコもネコが好きらしいんだ」

「へえ、あの悪魔憑きの子が」

「演技だけどな」

「可愛いなあ、ネコちゃん」

「どうしてここにネコが入ったんだろう。キャサリン!」

 サイリスは部屋を出ようとしたが、その時、

「パパ」

 と声がした。

 サリーが机の下から這い出してきた。

「わお、サリー、そんなところでなにしてるんだ」

「ネコタンと遊んでたの」

 サリーは指をしゃぶる。

「指を口に入れるのはやめなさい。あと、勝手に書斎に入るのもだめだ」

「ごめんなさい」

「こんにちは、サリー」

 青井は笑みを向ける。

「こんにちは。えっと、トージさん」

「よく挨拶できた。いい子だ」

「人が増えましたね。あなたは誰です?」

 テーブルの上のトビーが言った。

「わあ、あのこわいやつ!」

 サリーがサイリスの白衣にしがみつく。

「わたしはトビーです。あなたのお名前は?」

「ちゃんとお話しできるのね」

 しがみつくサリーの力が緩んだ。

「わたしは宇宙船制御用のAIです。高度な知能を有していますので、お話しすることなど造作もありません」

「わたしはサリー。トビーはどこから来たの?」

「それは哲学的質問ですか?少々お待ちください。哲学書の中から答えを検索しますので」

「トビー、サリーは子供なんだよ」

 サイリスは呆れる。

「子供?彼女の形状と声の周波数からして、成人もしくは成人に近い年齢の人間だと判断しましたが、違いましたか。女性だという判断も間違っていますか?」

「女性だというのは合ってるよ。つまり、精神的には子供だということなんだ」

「理解できません。詳しい説明をお願いします」

「そういうものだと飲み込んでくれよ」

「ところで、きみは目が見えるのか?トビー」

 青井が尋ねる。

「わたしには目がありませんので、生物学的に『目が見える』という表現は当たりません。しかし、形状や温度や発せられる化学物質を感知する能力はありますので、わたしは人間以上に外界を正確にとらえることができます。そういった意味でしたら、わたしは『目が見える』と言えます」

「パパ、この子の言ってること、よくわからないよ」

「で、サリーは子供なのですか?大人なのですか?」

「そのことはもう忘れろって」

「わたしは子供だよ。どうしてそんなこと訊くのかな?パパ」

「データベースに問い合わせたところ、『精神的には子供』という表現には幾通りかの意味が考えられます。大人げない性格である、知能が劣っている、精神疾患を患っていて、退行や多重人格などの――」

「もうやめろ」

「『なにかまずいこと言っちまったかな?』っていう状況ですか?」

 確かに、トビーは高度な知能を有しているらしい。

「こいつは患者に近づけないほうがいいな。アメリアの話の矛盾点を指摘して、怒らせでもしたら大変だ」

「わたし、みすごーるどうぃんとユウコを呼んでくる」

 サリーは舌っ足らずに言い、駆けだそうとした。

「どうしてそうなるんだ。やめろ!」

 サイリスはサリーの肩を捕まえる。

「サリー、ネコタンと一緒に談話室で遊んでなさい」

 サイリスは、白ネコをサリーに持たせる。黒ネコは青井が抱いている。

「はあい」

 サリーは素直に返事をして出ていった。

 サイリスは、テーブルをはさんだ古びたソファーに腰を下ろす。

「じゃあトビー、自分のどこが変なのか、症状を説明してもらおうか」

 こうなったらとことん遊んでやろう。

 青井も興味深そうな顔をして、サイリスの向かいに座った。

「それが、自分でもわからないのです。通りがかりの浮浪児に質問をされたので、わたしの体験談を語ったら、頭がおかしいと言われてしまったのです」

「どんな話をしたんだ?」

 とサイリス。

「わたしが仲間たちと一緒に降り立った惑星の話です。ベンが作ってくれたわたしの体には、金属製の二本の腕と脚があり、仲間たちと同じように行動することができました。初めて降りた惑星は、地表が粘度の高い苔の一種らしき生命体に覆われていて、足が地面にくっついてしまい、バーナーで苔を焼きながら進まなくてはいけませんでした。地面がそんな状態だからか、その星の生態系の頂点に君臨しているのは、鳥に似た生き物たちでした。茶色の羽に覆われた、差し渡し十メートルもあろうかという体で、じっと巨木にとまっていました。飛んでいるのを見たのは一度だけです。赤いとさかと風切羽と、長く後ろにたなびく尾をしていて、翼を一振りすると、成人の大きさほどもある巨木の葉が一斉に震えました。その惑星をあとにして次に訪れた惑星は――」

「すまん、トビー。その話はいつまで続くんだい?」

 サイリスは話を切る。

「わたしの宇宙冒険譚ですか?通りがかりの浮浪児は、あと三時間ほど耳を傾けてくれたあと、先生と同じ質問をされ、そこでわたしは彼との会話に移行しました」

「ずいぶん孤独な子だったのかな」

 青井は同情の表情をした。

「先生と青井さんは、わたしの体験談はお気に召しませんか?」

「いや、興味深いよ」

 サイリスは素直に言った。

「でも、そうやって訊くということは、きみは人を楽しませようとして話してるということかな?」

「ええ。どうせお話をするなら、楽しんでいただいたほうがわたしも気分がいいです」

「でも、面白くもない体験だってあるわけだろ?どんなのがある?」

「そうですね……わたしにとっては、何事も初めての興味深い出来事の連続だったので、そう言われると難しいですね。ベンとニーナがカップル解消の危機に陥った原因である、食料誤投棄事件も興味深かったですし」

「トビー、きみはサービス精神が旺盛なようだから、わたしたちを楽しませようと思って、話を作っているということはないかな?」

「そんなことはありません。わたしが話したのは、本当のことです。確かに、わたしの主観ですので、完全なる事実とは断定できませんが、そもそも、完全な事実など――」

「別にきみを責めているわけじゃないんだよ。人を楽しませようとするのはいいことだ。そうだ、本でも書いてみるかい?」

「人の話を聞かない野郎だな!文章でしたら書いています」

 口調が瞬時に変化する。

「ネットに接続していますので、SNSに自分が見たものや考えたことなどを綴ってアップしています」

「今時SNSなんてやっている人いるのか?」

 青井が驚く。

「戦争後、ネットは犯罪の温床でしかなくなってるからなあ。トビーの書いたものに反応するやつがいたら驚くよ」

「今、興味を持ってくれる人がいなくてもいいんです。いつかは、わたしと感性を共有してくれる知性体が現れるはずです。AIの寿命は長いですから」

 トビーは、サイリスの皮肉にも冷静だ。

「ヴァンパイアの寿命だって長いよな」

 と青井が言い、サイリスはくちびるを曲げた。

「それにしても、AIも孤独を感じるということかな?感性を共有したいということは、そういうことだろう」

 青井は面白そうに言う。

「ええ、確かにわたしは孤独を感じます。それは、自分の情報を拡散したほうが、人の利益になるとわたしが学習した結果、生まれた感情なのだと思います」

「きみの日記を読んで利益になるかな」

「先生と青井さんは孤独を感じないのですか?」

「僕は全然。だいぶ昔からないね」

 青井は即答する。

「わたしもないよ。気違い美女も助手もいるし」

 サイリスも澄まして答えた。

 その時、書斎のドアが開いた。

「こんにちは、青井さん」

 アメリアだった。

「なに勝手に入って来てるんだ」

 アメリアは、「ミス・ゴールドウィン」をサイリスがつけなかったので返事をしない。

「サリーがこちらにいらっしゃると申しておりましたので。お久しぶりです、青井さん」

 アメリアは青井だけを見て言う。

「お久しぶり。アメリア、じゃなくて、えっと」

「ミス・ゴールドウィン」

 サイリスは咳払いをする。

「そちらの方は、ミス・ゴールドウィンとおっしゃるのですか?」

 トビーは言った。

「なんですの?」

 アメリアは四角い鉄の箱を見て、眉をひそめる。

「わたしはトビーと申します」

「はじめまして。トビーさん」

「呼び捨てで結構ですよ」

「わかったわ、トビー」

 今までで一番まともな会話が交わされたようだ。

「ミス・ゴールドウィン、そろそろお茶にしよ――」

「それにしても、変わった形の電話ね。わたしのおじいさまの部屋にあった発明品に少し似ているけれど」

 アメリアはサイリスの言葉が聞こえなかったかのように、トビーをしげしげと眺める。

「わたしは電話ではありません。しかし、興味深いお話ですね。あなたのおじいさまは、発明家でいらっしゃるのですか?ミス・ゴールドウィン」

「ええ。実は、コンピュータを発明したのもおじいさまなのよ」

「それは奇妙ですね。おじいさまはおいくつですか?」

「ミス・ゴールドウィン、向こうでお茶にしようか」

 とんでもないホラ話を始めたアメリアを、サイリスはトビーから遠ざけようとするが、アメリアは無視して顔を伏せる。

「亡くなったの。大好きなおじいさまだったのに」

「それは失礼いたしました。もしかすると、おじいさまというのは、何代か前のご先祖様のことですか?大好きだったというのは、ご家族からお話を聞いた印象のことですか?」

「なにを言ってるの?わたしはおじいさまの膝に抱かれて育ったのよ」

 アメリアは気分を害したように顔をしかめる。

「おじいさまのことを、ずっと前に死んだ人みたいに言わないでよ」

「これまた失礼いたしました。しかし、コンピュータが発明された当時に生きていた方は、もう一人もこの世にはいないはずですが」

「コンピュータが発明されたのは、そんなに昔じゃないのよ」

「もしかして、わたしの想定している『コンピュータ』とあなたが言及している『コンピュータ』は別物で、大いなる誤解が生まれているのでしょうか?」

「きっとそうね」

「それはどんな形をしていますか?」

「ええと、四角いわ」

「もしかして、それは、パンを焼くためのものではありませんか?」

「違うわよ」

「では、自動調理機能付きホットプレートのことではないのですね?」

「どうしてそうなるのよ」

 アメリアは怒ってトビーを叩く。

「コンピュータって言ったらコンピュータなのよ」

「では、あなたのおじいさまがコンピュータを開発したという仮定が正しいとすると……」

 トビーから、どろどろどろ、という和風でダークな太鼓の音が流れた。

「あなたは幽霊ですか?」

 青井が笑い声をあげた。

「おかしいことはありません、青井さん。死者がよみがえるという現象は、宇宙規模で考えると、それほど珍しくはないのです。わたしが訪れたある惑星では、侵入者への防御手段として、侵入者の脳内にある生命体のイメージを、肉体を持った存在として具現化するという技術を用いていて、時にはそれがすでに死亡した固体であることもあり、それをなんと呼べばいいのかは議論のあるところではありますが、ベンはそれを幽霊と――」

「馬鹿にするのもいい加減にしてよ」

 アメリアは、その場に倒れるのではないかと思うほど震えている。

「わたしは幽霊なんかじゃないわ!それに、嘘もついてないわ!理解できないあなたが馬鹿なのよ!それに、あなたはどこから電話をかけてきてるのよ!」

「わたしは電話をかけていません」

 アメリアはネグリジェをはためかせ、出て行ってしまった。

「キャサリン!アメリアにハーブティーを!」

 サイリスは部屋を出て叫んだ。


 その後、トビーを説教し、女性とは話をしないように、と言ったのだが、案の定、反省も納得もしなかった。

「なぜ女性とは話をしてはいけないのです?」

「お前が彼女たちに悪影響を与えるからだ」

 サイリスはきっぱりと言った。

「彼女たちは、あなたにとって大切な存在なのですね、先生」

 トビーは感動したように言う。

「大切な患者だ」

「彼女たちはこの精神病院の患者だったのですね!」

「ああ、そこを説明し忘れてた」

 サイリスは頭を抱える。

「親しげなご様子だったので、てっきり、先生のご家族かと思っていましたよ」

 トビーは、なにかの映像素材から抜き取ったような、「ハハッ」という笑い声をあげた。

「僕は患者じゃなくて、友人だ」

 青井は大切なことを伝える。

「了解しました。青井さんは、先生のご友人ですね」

 トビーが人間なら、重大事項をメモしていただろう。

 サイリスは、なんだかとっても疲れてしまった。

 その夜、サイリスは三人の部屋を回り、トビーのいる書斎には近づかないように、と忠告した。アメリアは、「誰が近づくもんですか」と、つんとあごを反らし、サリーは従順にうなずき、ユウコはサイリスを睨んだ。

「わかったか、ユウコ」

 サイリスは念を押す。

「なぜ俺がお前の指示を聞かにゃならん」

 サイリスは、ユウコのベッドに腰を下ろした。

「まあ、ユウコならトビーの影響は受けないかもしれないが。アメリアは怒って大変だったよ」

「あいつはすぐ怒る」

 そう言って、ユウコは黙った。

「ユウコ、なんだか威勢が悪いな。どうかしたのか?」

「別に」

 しゃがれ声が、普通の女の子の声に戻りつつある。

「どうしたんだ」

 ユウコは、もじもじしてから言う。

「ネコと一緒に寝てもいい?」

「いいけど、寝てる間につぶさないようにな。それにしても、本当にネコが好きなんだな」

「別に」

「サリーも一緒に寝たいと言いだすかな」

「お前はアメリアとサリーのことをよく話すよな」

 ユウコは責めるように言う。

「ああ、そうかな」

「俺のことはどうでもいいのか?」

「なんだ、嫉妬してるのか。どうでもいいわけないだろう」

 サイリスは、ユウコの肩に腕を回す。

「寂しさの発作か?ユウコは時々人が変わるもんな」

 サイリスが肩や腕をさすってやると、ユウコは、顔をゆがめて泣きだした。

「うっうっ……わたしって、変なの?」

「変だとしても、そこが可愛いと思うよ。ほら、大丈夫だから」

 サイリスは指で涙を拭ってやり、ユウコをベッドに横たえる。覆いかぶさってキスをしようと顔を近づけた時、

「サイリス、いるか?」

 ドアが開け放たれた。

「おい、ノックぐらいしろ」

 サイリスは、入ってきた青井に抗議する。

「ああ悪い。サリーが僕の部屋に来て、僕を誘惑するんだ。言っても出て行かないんだが、どうすればいい?」

「なんだと?」

 サイリスは部屋を出ようとするが、戻ってユウコの前にひざまずく。

「ユウコ。今夜はきみが寂しくないようにちゃんと戻ってくるから、少しだけ待っててくれ」

 ユウコがうなずくのを見て、サイリスは青井とともに部屋を出た。

 青井の部屋には、サリーが下着姿でベッドに腰かけていた。

「サリー、なにをしてるんだ」

 サイリスは青筋を立てる。

「関係ないでしょ」

 大人のサリーは、腕を組んでそっぽを向いた。

「自分の部屋に戻れ」

「どうしてよ」

「トージが迷惑してるんだ」

「青井さんは、嬉しいけど、サイリスに悪いからって断ったのよ」

 サイリスは、振り向いて青井を睨む。青井もそっぽを向いた。

「サリー、きみはわたしのものだ」

「あなたは、アメリアともユウコともしてるじゃない。だったらわたしだって、ほかの人としてもいいでしょ」

「これはトージとわたしの友情の問題なんだ。部屋へ戻りなさい」

 サイリスが廊下の向こうを指差すと、サリーは下着のまま、ふてくされた顔で出ていった。

 サイリスは額に手を当てた。

「サイリス、僕はいい友達だろう?」

「ああ、いい友達だ」

 サイリスと青井は互いの肩をたたき合い、おやすみの挨拶をした。

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