白衣と鉄くず

諸根いつみ

第1話

 珍しく風が吹いていて、白い壁にはまったガラスを揺らしている。テレビに映るのは、朝の天気予報。

『今日の天気は曇りです!しかし、ところどころで雨がパラつくかもしれないので、外出は控えてください!どうしても外出する方は、防酸合羽と鉄製の傘をお忘れなく!』

 画面の中の女性が、裂けそうな笑顔で声を張り上げた。

「毎日毎日同じことを言って、飽きないのかな」

 そう言ったサイリス・ウィアードは、優雅にコーヒーカップを持ち上げた。ああ、この芳醇な香り。

「仕方ないでしょう。毎日同じ天気なんですから」

 ナース服姿のキャサリンは、いつもの仏頂面で早くも二杯目を淹れている。採血バッグから伸びたチューブから、赤い液体をカップに注ぐ。

「だったら、天気予報なんてやめればいいのにな」

「ごもっともです」

「天気で思い出したんだが、昨日またマーティンが来て困ったよ」

「環境保護団体のマードックさんですか」

「寄付をしろってうるさいんだ。なんでも、あと少し資金が集まれば、最新の環境浄化計画を実行できるとかで」

「少額でも寄付をすれば、もう来なくなるのでは?」

「嫌だよ。寄付をするのはどうってことないが、わたしはこの天気が好きなんだ。というか、太陽が出てしまったら、日中は地下にこもってなきゃならなくなる」

 サイリスは、舌を出して口もとの血液を舐め取った。

「今日のご予定ですが」

 キャサリンは、給仕係から秘書に変身する。この家政婦兼助手は、時々サイリスの発言を無視することがあるが、サイリスは寛大な心で許してやっている。

「新しい患者が一人来ることになっています」

 キャサリンは手帳を取り出して開き、丸眼鏡をずり上げた。

「昼頃には到着するようです」

「おお。出迎えの準備をしないとな」

 サイリスはひらりと立ち上がり、白衣をひるがえして部屋を出た。

「ちょっと、先生!」

 キャサリンの呆れた声にも振り返らない。

 通りかかった談話室には、三人の女が座っていた。全入院患者が勢ぞろいだ。ここ、ウィアード精神病院では、患者を檻に閉じ込めることなく、自由に過ごさせている。

「あら先生、そんなに足音を響かせてどこへ行くのですか?」

 扇子をゆっくりと動かしながらアメリアが言う。先生と言いながら、汚いものを相手にするような口調だ。栗色の巻き毛が、古びたネグリジェに滝のように降りかかっている。

「おはよう、ミス・ゴールドウィン。今日は新しい患者さんが来るんだ」

 アメリアは三十歳だが、彼女の頭の中では、二十歳そこそこの、ゴールドウィン家という架空の貴族の令嬢ということになっている。その他の設定はコロコロと変わるのだが、一貫して、ミス・ゴールドウィンと呼ばなければ返事をしない。

「新入りか。俺が味見してやるぜ」

 わざとらしいしゃがれ声。カーペットの床に這いつくばっているのは、おかっぱ頭に襦袢をかぶった十九歳の少女だ。

「おはよう、ユウコ。仲良くしてくれないと困るよ」

 悪魔憑きのユウコのことは、上手くあしらうしかない。今朝はまだマシな状態のようだ。

「おはよう、パパ」

 そう言って、床に座ってテディベアを抱いた女が白衣の端をつかんできた。

「おはよう、サリー。今日も可愛いな」

 サイリスは膝をつき、金髪の頭をなでてやった。中身は幼児の二十三歳は、癒しのパワー満点の無垢な笑みを浮かべる。

「我が愛しのお三方、先生は新しい患者さんのお迎え準備をしないと」

 サイリスはその場を立ち去ろうとした。

「浮き足立っちゃって。先生の女好きには呆れますわ」

「新入りを食べるのは俺が先だぜ、腐れ医者が」

「パパ、クマタンと一緒に遊ぼうよ」

 三人は首を伸ばしてくるが、サイリスは笑って手を振った。

 歪んだ愛情表現だが、三人とも、この自分が大好きなのだ。と、サイリスは思った。この病院の院長にして唯一の医師であり三人の庇護者であり、しかもこんなに魅力的な男なのだから、好かれるのは当然だ。愛しの気違い美女三人。

 サイリスは、三人の血を飲んで生きているヴァンパイアだ。いささか自己評価は高すぎるにしても、二十歳のようにも五十歳のようにも見える容姿は、ハンサムと言えないこともなかった。

 サイリスは、白衣をひらひらさせてあっちこっちと動き回り、個室にシーツや花瓶に入った薔薇などを用意し、新たな気違い美女を迎える準備をした。気の利くキャサリンは、食事や鎮静剤の用意をしてくれていることだろう。

 ウィアード精神病院には、美女だけが送られてくるように各方面に圧力をかけている。しかし、空気は汚染され、経済は破綻し、失業者があふれるこのご時世。少なからず、みな頭がおかしくなっていき、健常者と精神異常者の区別が曖昧になったことで、入院する精神病患者が減るという現象が起きていた。

 こんな時にここへ送られてくるということは、余程クレイジーなのだろう。それはそれで燃える。

 準備万端のサイリスは、鼻歌混じりに玄関へ向かった。ドアを開け放つと、ごつごつした岩壁の短いトンネルに出る。ぶら下がっているコウモリたちの可愛い三角形の耳を見上げて歩き、トンネルの出口の鉄格子の鍵を開けた。

 サイリスは鉄格子の外、病院の建つ丘で、汚染物質の混じる風に吹かれた。

 分厚い灰色の雲の下、ひたすら地平線まで、茶色の荒野が広がっている。背にした病院の向こうには、薄汚れたビルの立ち並ぶごみごみした街があるはずだが、サイリスは、こちらのなにもない景色のほうが好みだった。

 コウモリにちょっかいをかけたり、死んだ芝生の上を歩き回ったりしていると、坂の下に一台の車がとまった。

 サイリスは坂を駆け下りた。一人の男が運転席から降りる。

「こんにちは。新しい患者かな?」

 サイリスは笑みを向ける。

「はい?いや、お届けものです」

 男はトランクを開けた。

「サインと配達料をお願いします」

「配達料も?まあいいが」

 サイリスはわざわざ戻り、財布を持ってきて料金を払った。

「重いですから、気をつけてください」

 トランクに入っているのは、粗末な紙に包まれた箱のようだった。

「差出人は誰かな?」

 なにも書かれていないようだ。

「さあ。こっちの知ったことじゃないですね」

 サイリスは箱を両手で挟んで持ち上げようとしたが、腕で抱えなければならなかった。

「おお。ずいぶん重いね。玄関まで運ぶのを手伝ってもらえないかな」

 サイリスは言ったが、男はさっさとトランクを閉め、車に乗り込んで去ってしまった。

 仕方ないので、一人で坂を登って運ぶ。

 トンネルを抜け、いったん地面に箱を置いてから、扉を開けて中に引きずり入れる。

 紙を破ってみると、それは四角形の鉄のかたまりだった。古びてあちこち傷がついているが、なにかの装置だろうか。

 コツコツと叩いてみたり、目を近づけて観察したが、なにに使うものなのか見当がつかない。送り主も不明であるし、あとでキャサリンに廃品回収に出すように言おう、と思った。

 その後もひたすら待ったが、患者を乗せた車どころか、訪問者の一人もなかった。

 サイリスはしょんぼりとして、夕食の席に着いた。闇に黒い窓には酸性雨が降りかかり、木のテーブルには、キャサリンの作ったブロッコリーのポタージュや鶏の骨つき肉などが並んでいる。

ヴァンパイアについて書かれた数多くの文献には、間違ったことが書かれているものも多い。ヴァンパイアといえども、普通の人間のような食事も摂るのだ。そして、間違いの最もたるものが、鏡に映らないということだ。鏡に映らなかったら、髭を綺麗に剃れないではないか。そんな不便は我慢できない。

「新しい患者は、今日来る予定なんだよな?」

 サイリスは確認する。

「確かに電話ではそう言ってましたよ」

 事務机でサイリスに横顔を向けながら同じ食事をしているキャサリンは、自分のミスではないと言外に主張した。

 サイリスは、鶏の軟骨をかみ砕いて飲み込む。

「どうしたんだろう。問い合わせてみるか」

「それが、相手の連絡先がわからないんですよ」

「なんだって?」

「訊こうと思ったら、電話が切れてしまったんです。とにかく、今日来るということしか」

「まあ、向こうからまた電話がかかってくるかもしれないな。なんらかの事情で遅れているのかもしれないし」

「そうですね」

「あ、そうだ。玄関に鉄の箱があるんだが、廃品回収に出そうと思って。重いから、運ぶ時は声をかけてくれ」

「わかりました。次の廃品回収は一か月後とかになってしまいますが」

「構わないよ」

「でも、なんですか?それ」

「それがわからないんだよ。今日配達されて来たんだが、差出人もわからないし」

「なんでしょう」

「工場とここを間違えるとも思えないし」

「青井さんの冗談ということでは?」

「あいつがそんなわかりにくいことをするか?そう言えば、元気にしてるかな」

「またお招きしてはどうですか?」

「そうだな」

 食事が終わった頃、キャサリンの事務机の電話が鳴った。

「お、患者のことかな」

 サイリスは目を輝かせて身を乗りだす。キャサリンが電話を取った。

「はい、ウィアード精神病院です――あ、お久しぶりでございます」

 キャサリンの声が明るくなった。

「はい、おかげさまで。ただいま先生に代わります」

サイリスに受話器を差しだす。

「青井さんです。噂をすれば、ですね」

 サイリスは、明らかな落胆の表情で受話器を受け取る。

「はい、サイリス・ウィアードです」

「あれ、声が暗いですね、先生」

 落ち着いた声が面白がるように言う。

「待ってた電話じゃなかったんでね」

「僕で悪かったね」

「それよりトージ、ちょうどきみのことをキャサリンと話してたところだったんだよ」

「悪口を言ってたんじゃないよね?」

 青井冬児は笑う。

「違うよ。元気にしてるだろうかって話をね」

「もちろん、僕は元気だよ。今、世界中を旅してるところでね。サイリスの国も通るから、よければご挨拶に伺わせてもらえないかな」

「おお。もちろん歓迎するよ。でも、世界中を旅って、どうせ一人なんだろ?」

「もちろん」

「奥さんも子供もいるっていうのに、それでいいのか?」

「少し離れたくらいで切れるような絆じゃないんだよ。妻と子供は日本で楽しくやってるさ」

「それならいいんだが。とにかく、こっちはいつでも歓迎するよ」

「ありがとう。じゃあ、二日後に行くよ」

 電話を切ってキャサリンに伝えると、笑顔でうなずき、さっそく準備を始めそうな勢いで食器を片づけ始めた。いつもの仏頂面はどこかへ飛んで行ったようだ。

 翌日、早朝からキャサリンは、客室の掃除やシーツの洗濯や食堂の片づけに忙しそうにしていた。サイリスは青井を迎える準備はキャサリンに任せ、アメリアの個室を訪ねた。昨夜は、アメリアが血を提供する番だったのだ。

「おはよう」

 アメリアはまだベッドに横になっていた。

「おはようございます、先生」

 アメリアは目を半開きにし、心底迷惑そうに言う。

「今日もあなたのせいで貧血ですわ」

「ミス・ゴールドウィン、朝食に頂いたが、きみの血はいつも通りとてもおいしかったよ」

「それはよかったですわ」

 アメリアの皮肉を無視し、サイリスはどす黒い液体の入ったグラスをベッドサイドに置く。

「はい、血が増える魔法のジュースだよ」

「鉄分入りプラムジュースは飲み飽きたのですけど」

 アメリアはため息をつく。

「まあそう言わないで。朝食を持って来させるから、ちゃんと食べるんだよ。まさかトージが来るからって忘れてるんじゃないだろうな。キャサリン!」

 サイリスはアメリアの部屋を飛び出す。

 キャサリンは忘れているわけではなかった。レバニラの載ったトレーを持ってちょうど来るところだった。

「ちゃんと食べさせるんだよ、キャサリン」

 とサイリスは念を押す。

「はい、わかりました。アメリアの口にこれを押し込んでから、洗濯物を干して、食材の買い出しに行って――」

「とにかく、よろしく」

 サイリスは鷹揚にうなずき、白い廊下を戻ろうとした。電話の前に張りついて、新しい患者についての連絡が来るのを待つつもりだった。

 しかし、後ろから追い越して、目の前に立ちはだかる者がいた。

「パパ、見て!」

 サリーは満面の笑みで、両手でつかんだものを差しだす。

 小さなネコだった。白地に黒いシマが入っていて、薄い緑の目でじっとサイリスを見ている。

「どうしたんだ!このネコ。サリー、口にミルクがついてるよ」

 サイリスは親指でサリーの口元を拭った。

「そこの階段のところにいたの。可愛いでしょ」

「迷いこんできたのかな。壁でも破れてるなら修理をしないと――」

「飼ってもいい?」

「そうだな。一匹くらいならいいか」

「やったあ。ありがとう」

「キャサリンに言っておくよ。そうだ、ユウコにも見せてみようか」

「ユウコに?うーん、いじわるしたりしないかな?」

「大丈夫だよ。動物療法になるかもしれない」

 サイリスとサリーは、ユウコの部屋へ行った。部屋にいることが多いユウコだが、黒いベッドカバーが目立つ殺風景な室内には姿が見えなかった。

 サリーと一緒に病院内を見て回ったが、見つからない。もしや玄関の外へ出てしまったのかもしれない。トンネルの鉄格子の鍵は、サイリスとキャサリンしか持っていないから、脱走する心配はないにしても、勝手な行動をして怪我でもされては困る。

 玄関ホールへ行ってみると、ユウコはドアの内側にいた。例の四角い鉄の物体をいじっている。

「ユウコ、探したよ。なにしてるんだ?」

 近づくサイリスの横で、サリーは不安そうにサイリスの白衣を握っている。

「よう、腐れ医者。暇つぶしになるものはねえかと思ったんだが、こんなガラクタじゃクソ面白くもねえ。新入りが来るって言って、来ねえじゃねえか」

 ユウコは、不自然に眉間にしわを寄せ、丸い目で必死にサイリスを睨んでみせる。

「そうなんだよ。なにか手違いがあったのかなんなのか。それよりユウコ、このネコを見なよ」

 サイリスは、ネコをユウコの鼻先に突き出す。

「なんだ、そのけだものは」

 ユウコは嫌そうに身を引く。

「ちょっとなでてみないかい?」

「なんでだよ」

「ふわふわしてて気持ちいいぞ。ほら」

 ユウコは、じっとネコを見つめて動かなくなってしまった。

 サイリスは、ネコをサリーに返す。

「悪魔なのにずいぶん興味津々だな」

「なんだと」

 ユウコは跳ぶように立ち上がった。

「そろそろ悪魔憑きの演技はやめたらどうだい?」

「ふざけんな。俺はルシファーだ。この肉体のユウコとかいう名前で呼ぶのも許してやってるが、それはお前が何度言っても懲りないからで――」

「いつもの声じゃなくなってるぞ」

 ユウコは口を手で押さえる。しゃがれ声が、普通の女の声になってしまっていた。

 ユウコは、穴があったら入りたいような様子でその場をうろうろしてから、余程苛ついたのか、鉄の箱を蹴飛ばした。

 その瞬間、鉄のかたまりから火花が飛び散った。

「きゃっ」

 とサリーとユウコが同時に声を上げ、サリーが落としたネコは、どこかへ走り去っていった。

「大丈夫か?離れろ」

 サイリスは、ユウコとサリーを箱からかばった。

 再び火花が散り、ノイズがしたかと思うと、箱の上の空間に、おぼろげな画像のようなものが立ち上がった。

「きゃあ、なに?」

 サリーはサイリスにしがみつく。

「ホロだ。なんてことだ」

 サイリスは目を凝らした。

 画像は、一人の男の顔だった。うつろな目、気味の悪い無表情。口が動くと同時に、音声が発せられる。

「昔々、あるところに」

 おどろおどろしい声が発せられると同時に、サリーは悲鳴を上げて逃げていった。なぜかユウコも襦袢を引きずってサリーのあとに続く。

「待て、二人とも!落ち着け!」

 続いてサイリスもあとを追った。


「箱がしゃべったんだよ」

 夕食の席で、サイリスは身を乗りだした。

「どういうことです?」

 キャサリンは採血バッグからサイリスのワイングラスに血を注ぎながら、眉をひそめる。

「とにかく、そういうことなんだ。男の顔のホロ映像が投影されて、それがしゃべったんだよ。『昔々』って」

「なんらかの通信機器ってことですか?なんだ、脅かさないでくださいよ」

「通信機器、なのかな?」

「夕食が済んだら、見に行ってみます」

「ユウコが蹴ったら火花が散ったんだ。危ないぞ」

「じゃあ、一緒に行っていただけますか?少し興味がありますので」

「わかった」

 夕食後、サイリスとキャサリンは、懐中電灯を手に、照明のない玄関へ行ってみた。

 四角い鉄は大人しくしている。

「どこかにスイッチでもあるんでしょうか」

 キャサリンは箱を照らした。

「蹴ってみれば反応するかな」

 サイリスは恐る恐る、革靴の先で箱をつついた。

 すると、突然ホロ画像が現れた。

「うわっ」

 サイリスとキャサリンは後退する。

「ここは精神病院ですか?」

 無表情な男のホロの口がパクパクと動く。昼間の恐ろしげな声とは打って変わって、滑らかな男の声だ。

「聞こえるか?」

 サイリスは声をかける。

「ええ。聞こえます」

 会話が成立した。サイリスとキャサリンは顔を見合わせる。

「えーと、そうだ、こちらはウィアード精神病院だ。わたしは院長のサイリス・ウィアード。きみは?」

「トビー」

「そうか、トビー。きみはどこからかけてるんだい?かけ間違いではないかな?」

「かけ間違い?どういうことですか?」

「きみはどこからか通話してるんだろう」

「いえ」

「通話とは言わないのかな?なんと言えばいいだろう」

「わかりました。あなたは、わたしが別の場所から通信していると思っているのですね。それは違います。わたしはここにいます」

「なんだって?」

「わたしはここにいます。わたしはトビーです。宇宙船制御用に作られたAIです」

「人工知能だって?」

 再びサイリスとキャサリンは顔を見合わせる。

「なんだってそんな高度な機械がここに」

「高度な機械?わたしのことですか?」

「失礼、気に障ったかな」

「いいえ。わたしには助けが必要なのです。わたしは宇宙船を飛ばさなければなりません」

「宇宙船を飛ばすって、いつの時代の話だい?」

「今の話に決まってんだろ、カス!」

 突然口調が変わった。

「わたしは宇宙船に帰らなくてはいけません」

 すぐに元の口調に戻る。

「深遠なる宇宙へ旅立たなければ。勇気ある宇宙飛行士たちがわたしを待っているのです」

 その時、昔のSF映画のテーマ曲が割れた音で流れ始めた。

「でも、宇宙開拓はとうの昔に廃止されたんじゃなかったっけ」

 サイリスの言葉にキャサリンはうなずく。

「ええ。実際に宇宙船が飛んでいたのは、五十年以上前です」

「戦争や経済混乱で、それどころじゃなくなったんだよな」

「確かにそうかもしれません。ですが、まだ飛べる宇宙船は残っているのです。わたしはそれに接続して、飛び立つのです」

「でも、そんな宇宙船はどこにあるんだ?」

「それはわかりません!」

 トビーは声を張り上げた。

「とにかく、わたしを直して宇宙船へ連れて行け」

「そう言われてもな。トビー、ひとまず落ち着いて、状況を詳しく教えてくれないか」

「知ってることは全部話した!だからお願いだ、解放してくれ!」

 再び口調が変わる。サイリスは肩をすくめた。

「このAI、かなりクレイジーだな」

 キャサリンにささやく。

「あの、もしかして、新しい患者って、これのことなんじゃないですか?」

 キャサリンは、恐ろしい事実を告げるように言う。

「まさか。全然美女じゃないじゃないか」

「そもそも人間ではないですし」

「これが患者だなんてありえないよ」

「でも、なにか手違いがあったのかもしれません」

「だろうね」

「全部聞こえてますよ」

 トビーは言った。

「わたしは患者です。自分で自分をここに送ったのです」

 一瞬二人とも言葉に詰まる。

「じゃあ、あの電話は?」

 キャサリンは悩むように眼鏡を押さえる。

「回線に接続してわたしがかけました」

「あの配達屋は?」

 とサイリス。

「自分で呼びました。どこどこに置いてある四角い鉄のかたまりを精神病院に届けてくれって電話して」

「なんだってそんなことを」

「わたしは少し頭がおかしいようなのです。通りがかりの浮浪児と話していたら、そう言われました。宇宙船を飛ばす任務に支障をきたすといけないので、治療していただきたいのです」

「治療していただきたいって」

 キャサリンはため息をついた。

「ふざけるな」

 サイリスは険しい声を出す。

「ここは美女しか受け入れてないんだよ。男はお断りだ」

「助けてください」

 いきなり女の声になった。しかし、ホロ映像が男のままなので、気色悪いだけだった。

「やめろ。それになんなんだ、その男の顔は」

「親しみやすくするために、一億人以上の男性の顔をモンタージュしたものをわたしの顔として表示しています」

「だからそんなに不気味な顔なのか」

「ただ今、女性版に切り替えます」

「いい。美女じゃない患者なんて冗談じゃない。廃棄してやる」

 サイリスは、指を突きつけて宣言した。

「でも、ちょっとかわいそうじゃないですか?」

 キャサリンは控えめに言う。

「作り物といえども、精神が宿ってるんですよ」

「じゃあ、廃品回収じゃなくて、のっぱらに捨てる。だったら溶かされずに済むだろ」

 サイリスは足音高く、玄関ホールをあとにした。キャサリンも、トビーを置き去りにしてサイリスに続いた。

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