第5話
塩入りパンケーキと血の朝食のあと、サイリスは、天窓から屋根に上り、屋根の補修作業をした。酸性雨によってへこんだ部分をセメントで塗り込む。
「先生、大丈夫ですか?」
キャサリンが天窓から顔を出す。
「ちょっと風が強いです。わたしがやりましょうか?」
「大丈夫だよ」
サイリスは刷毛を使いながら笑う。屋根は平らなのだから、滑り落ちる心配はない。
「気をつけてくださいね」
「わかってるよ」
雲が日差しを遮ってくれるのはいいが、酸性雨は困ったものだ。しかし、たいした手間ではない。
とりあえず目立つへこみを埋め終わり、サイリスは下へ降りた。
談話室のソファーに、青井とサリーが座っている。
「ほら、お土産だよ。綺麗な貝殻だろう。多分模造品だけどね」
「ありがとう」
歓談している青井とサリーが、白衣をはたきながら戻ってきたサイリスに気づく。
「おうサイリス、お疲れさま」
「パパ、これもらった」
「よかったな、サリー。トージ、ほかの二人はどこか知ってるか?」
「ミス・ゴールドウィンは、トビーをカートに乗せて、病院の中を散歩しに行ったよ。すっかり仲良しになったみたいで」
「なんでまたそうなるんだ」
「ユウコは見てないな」
「そうか。ありがとう」
ユウコの部屋をのぞいてみたが、姿はなかった。サイリスは、休憩しようと食堂へ行った。ユウコはあんなだが、構ってやらないと、たまに大変なことになる。しかし、今はネコがいるから大丈夫だろう。
サイリスが一人ゆっくりと、血を垂らしたコーヒーを飲んでいると、食堂のドアが開いた。
「先生、ここにいましたか」
アメリアが、ショッピングカートを押しながら入ってくる。カートの中には、トビーと白に灰色のシマの入った猫がいる。
「おお、ミス・ゴールドウィン。トビーが気に入ったみたいだな」
「まともに話を聞いてくれるのが彼しかいないんですもの」
「ミス・ゴールドウィン」
トビーがたしなめるように言う。
アメリアは咳ばらいをした。サイリスは首をかしげる。
「ええと、いつも先生はわたしたちとは別に食事をしているけど、これからはわたしも一緒にしてほしいんです」
「ミス・ゴールドウィン、打ち合わせと違いませんか?」
戸惑うサイリスと、これまた戸惑っているような声のトビー。
「ええと、つまり、いつも気にかけてくれて感謝してます」
「よし、いいですよ、ミス・ゴールドウィン。そして?」
「わたしを特別にしてほしいんです、先生」
サイリスは眉をひそめる。
「どういうことだ?ミス・ゴールドウィン」
「前にも言ったことの続きですわ。わたしは、ユウコとサリーと同じ立場なのは嫌なんです」
サイリスは考え込んでから、目を丸くする。
「つまり、ミス・ゴールドウィン?」
先を促すのはトビーだ。しかし、アメリアはなにか言いたそうにしつつも、黙っている。
「ミス・ゴールドウィン、つまり、ええと」
珍しく言葉に詰まるサイリスに、アメリアはそれ以上聞きたくないというように顔をそむけ、そのまま出ていってしまった。出ていく瞬間の顔は赤くなっていた。
「トビー、あいつ、ミス・ゴールドウィンとなにを話したんだ?」
サイリスは背もたれに寄りかかる。
「愚痴を聞いて、素直になるようにアドバイスしたんです。素直になるとはどのようなことかと彼女がお聞きになるので、ひとつひとつ真摯にお答えした結果、先生とお話になるのが一番よいだろうと、彼女自身がお決めになりました」
「きみがマインドコントロールしたわけじゃないんだな?」
「なにをおっしゃいます。そんなわけないじゃないですか」
「わかってる。そんなことしてもなんの得もないからな」
「わかりきったこと言うんじゃねえ」
トビーの口調が変わる。
「で、先生、どうされます」
「つまり、あいつはわたしのことが好きなのかな。特別な意味で?」
「そう思います」
あっけらかんとトビーは言う。
「参ったよ。面倒なことになった。うーん」
「先生は、彼女のことが好きではないんですか?」
「好きとか嫌いとか、そういうことじゃないんだ」
「理解できません。肉体関係はあるとお聞きしたのですが?」
「どこまで話したんだ、はしたない」
「問題をややこしくしているのは、先生なのではないですか?」
「……きみの知能はどの方面へ進化したんだ」
サイリスは立ち上がった。
「気分転換でもしよう」
サイリスは、カートに乗ったトビーを残し、微細な塵の舞う外の空気を吸いに行った。
夕食の席、サイリスは、アメリアに悪いことをしている気がしてしまったが、アメリアを呼ぶ決心もつかず、味のしないものを口に運んでいた。
「どうしたんだ、サイリス。元気ないな」
青井は、血の入ったワイングラスを持ちつつ言う。
その時、出ていたキャサリンが戻ってきた。
「先生、ユウコに夕食を持っていったのですが、姿が見えませんでした。食事は部屋に置いておきましたけど」
「そうか。そういえば、今日はユウコを見かけてないな」
「僕もだ」
「わたしもです」
サイリスは心配になってきた。
「早く食事を終わらせて探しに行くよ」
「僕も手伝うよ」
「ありがとう、トージ」
食事も早々に、サイリス、青井、キャサリンは、ユウコを探しに行った。まず、アメリアとサリーのところへ行ったが、二人も見かけていないという。
青井が上の階、キャサリンが下の階、サイリスが外を探すことにした。サイリスは懐中電灯を持ち、外に出て、雨がパラついているのを感じて、慌てて防酸合羽を取りに戻った。
暗闇を照らしながら建物の周囲を歩いたが、人どころか虫の一匹を見当たらなかった。もう少しで一周するという時、キャサリンが玄関から駆けだしてきた。
「先生、見つかりました!」
「おお、キャサリン、濡れてしまうじゃないか」
「ちょっと大変なんです」
玄関で合羽を脱ぎ捨て、キャサリンに続いて急いで階段を上がる。
最上階の五階、廊下の突き当たりの天窓の下、青井が懐中電灯を向け、うずくまっているユウコの足元を控えめに照らしていた。電機は、全員の生活空間である二階にしか通っていないので、照明をつけることはできない。
「ユウコちゃん、こっちにおいで。先生も来たよ」
青井が語りかける。
「なにしてるんだ、ユウコ」
サイリスはそのまま近づこうとした。が、青井に腕を出されてとめられる。
見れば、ユウコの手にはナイフがある。床には、黒いしみのようなものがある。襦袢から出た左手が黒い。左手から床に、黒いしずくがしたたり落ちる。
「ユウコ、そのナイフを置きなさい」
サイリスはきっぱりと言ったが、ユウコは動かない。
「ユウコ!」
「俺はユウコではない」
いつもよりも喉を潰したしゃがれ声。
「俺はルシファーだ!」
「とにかく、傷の手当てをさせてくれ」
ユウコのテンションに付き合うのはよくない。
「俺はこの肉体から出ていく」
ユウコは突然立ち上がり、ナイフを捨て、ささっとかたわらの脚立をつかむと、それを登って天窓から屋根へ出た。
「ユウコ!」
サイリスは追いかける。
ユウコは真っ直ぐに、柵もなにもない虚空への道を突っ走る。
サイリスは本当に久しぶりに全力で走り、ユウコの腕をつかんだ。ユウコが後ろに転び、サイリスが抱きとめる。ユウコはなにかわからない言葉で喚いている。サイリスは、暴れるユウコを抱きしめて押さえ、血のあふれる左手首をつかんだ。二人は酸性雨に濡れる。
キャサリンがユウコに飛びつき、サイリスが押さえ、キャサリンが鎮静剤を注射した。ユウコはそれでも、しばらく驚異的に暴れていたが、やっと大人しくなった。
サイリスとキャサリンは、ぐったりとしたユウコを引きずっていった。
部屋に運んだユウコをサイリスとキャサリンで傷の手当てをし、着替えさせた。手首だけではなく、体のいろいろな場所に、浅いためらい傷のようなものがあった。古傷の上につけられた傷もある。最近は、自傷行為はしていなかったのだが。
かなりの出血があったため、飲料用にストックしていたユウコの血を戻さなければならなかった。暴れていたから大丈夫だろうと油断はできない。実際はかなり弱っているはずだ。
サイリスはその晩、ユウコの部屋で付き添い、キャサリンには、ほかの二人にはなにがあったかはまだ言わないでいるようにと指示した。今までも似たようなことはあったが、不安にさせてしまうと、アメリアとサリーにもどんな影響があるかわからない。床の血痕を掃除しなければならないし、ナイフなどが入っている棚に鍵を取りつけなくてはならないが、それはあとでもいいだろう。
キャサリンと青井も部屋に戻ったのか、廊下の豆電球の光も消え、ユウコのベッドサイドのラインプの光だけが、弱々しく黄色い。
ユウコは、すやすやと眠っているようだった。また自分で切ったのか、黒い髪はギザギザと短く、見栄え悪く枕に散っている。無防備でいると、普段よりも一層童顔に見えた。
飽きもせずにユウコを眺めていたが、ある時唐突に、ユウコが目を開いた。
「ユウコ」
ユウコはサイリスを目で捉えた。
「気分はどうだ?」
ユウコは、サイリスにはわからない言葉でなにか言った。声はまったくしゃがれていない。ぼーっと天井を見たが、すぐに我に返ったように、左手首を見る。
包帯をはがそうとするユウコをサイリスは慌ててとめた。
「やめろ」
「俺はこの肉体から出ていく。こんなところからは出ていくぞ」
しゃがれ声に戻っていた。しかし、弱々しい。
「大丈夫だ。落ち着いてくれ」
サイリスは、ユウコの肩を優しく押さえる。
「なにがあったんだ、ユウコ」
「クソみたいな質問だ」
「怒るぞ、ユウコ。自殺できないように、死ぬまで首筋から血を吸ってヴァンパイアにしてやろうか」
もうすでにサイリスは怒っていた。自分を傷つけるなんて、迷惑の最もたるものだ。
「そんなのできるわけない」
ユウコがやけに確信に満ちた声で言った。またもしゃがれが取れている。
「わたしをヴァンパイアにするなんて、できるわけない」
本来のユウコになっている。
「確かに、ユウコをヴァンパイアにしたら、血を飲ませてもらえなくなるからな。でも、しようと思えば、いつでもできるんだ。今度こんなことしたら、許さないぞ」
意外にも、ユウコは笑いだした。
困惑するサイリスの前で、ユウコは笑いながら言った。
「そういうことじゃないんだよ」
「どうしたんだ、ユウコ」
「別になんでもないです」
「自傷は本当にやめろ」
血を垂れ流すなんて、もったいない。
「偉そうだな。許さないとかやめろとか」
またしゃがれ声になった。
「当然だ。きみはわたしの所有物みたいなものなんだぞ。物じゃないし、みたいな、だけど、とにかく、そういう感じの存在だ」
「なった覚えはないぜ」
「わたしはそう思ってるってことだ。大切な存在なんだ。なにかあったなら、その原因を取り除いてやる。アメリアかサリーになにか言われたのか?トージなはずないし、あ、トビーか」
「違うって」
早口になるサイリスに、ユウコは呆れたように否定する。
「じゃあ、なんだ。言いたくないなんて言うなよ。いつもなら、無理強いはしないところだが、こればっかりはそうはいかないぞ」
ユウコは少し迷ったような間をおいてから、口を開いた。
「外の世界だよ」
「へ?」
「外の世界が、ここへ流れ込んできてる。感じるんだよ」
「外の世界とはつまり、どういうものだ?」
ユウコはなにかを伝えているつもりなのだ。わかりにくいことこの上ないが、わかろうとする努力をしなくては。
「暗闇で、冷たい。強引で、無理矢理従わせるもの。突然現れて、腕をつかんで、連れ去るもの」
サイリスは考えた。
「もしかして、アメリアの父親のことを言ってるのか?」
「外の世界だよ」
ユウコは、自分の家族のことを連想したのだろうか。そうに違いない。
「アメリアの父親は帰ったし、もう来ない。きみの家族も来ないよ」
サイリスは、ユウコを抱きしめようと身をかがめた。不安な気持ちを想像すると、かわいそうでたまらなくなったのだ。
「待って。今はそういう気分じゃない」
ユウコは普通の声に戻り、片手を出して拒否を示す。
「悪い。そういう意味じゃなくて、ただ、慰めようと」
「いらない」
「ユウコはそうやって頑ななところがあるからな」
サイリスは冗談めかして笑ったが、ユウコは険しい表情を崩さない。サイリスも真剣な顔に戻る。
「ユウコ、外の世界はな、流れ込んできたりはしないんだよ。こっちから近づかない限り、触れることすらできないんだ。そして、こちらから足を踏みだした時は、必ず、優しいか、相手にならないほど弱いかのどちらかなんだ。踏みだした時点で、自分は強いってことだからな」
ユウコは、言葉を飲み下そうとするように、顔をしかめた。
「とにかく、今日は眠ろう。もう遅いし」
「わかった」
ユウコはもぞもぞとタオルケットを直す。
「ずっとそこに座ってるつもり?」
「いけないか?」
「まあ、いいけど」
ユウコは寝返りを打って背を向ける。
サイリスはランプを消し、腕を組んで目を閉じた。椅子の硬い感触は、無視だ。
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