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この町の一番大きな図書館は、駅前のビル二階に入り口を構えており、ペデストリアンデッキによって駅と直接繋がっている。デッキは赤みの少ない暗い茶色で、掃除も行き届いていて美しかった。図書館の床はデッキと同じ素材で続いており、そのせいか中に入っても倫太郎は落ち着かなかった。汚れやさびれが全く見つけられない、新しい空間。正面右手にカウンター、左手にディスプレイ型の本棚が並び、雑誌が表紙を見せつつ収まっている。手前の壁際にはパソコンが並び、眼鏡をかけた高齢者たちが画面をじっと見つめている。その隣のベンチ群には新聞や雑誌を手に取り読みふけっている、これまた高齢者たちが並んでいる。
倫太郎は図書館の空調に冷やされてようやく、これほど汗をかいていたのかと気づいた。炎天下を二十分も歩いたから、無理もなかった。ハンカチがないため、手の甲で拭ってシャツの裾で拭いた。
図書館は、好きだ。だが来ること自体が久しぶり過ぎて、場の空気に存在を許されていない気がした。純粋に本を探しに来たのではなく、単に涼しい居場所を求めた結果だった。
図書館という空間は学生時代を思い出させる。小学校、中学校、高校、大学……それぞれの時代にそれぞれの思い出の図書館あるいは図書室がある。小学校の一時期、放課後に入り浸った図書館は、学童が併設されている小さなものだった。狭い部屋に本棚がぎゅうぎゅうに並べられていて、本棚と本棚の間のわずかな隙間に本を並べて読みふけった。ところどころ茶色いシミのついた藤色の絨毯の毛羽立ちをよく覚えている。あの空間は、そこだけ異質だった。音も匂いも時間の流れさえも、白い壁によって外と隔絶された、のどやかな世界。そこでは自分と世界の間に壁はなかった。自分自身の形さえすべて溶けて、過不足なく、完璧な空間だった。本という空想の世界に没入するということができた最後の時間だったように思える。
大学の図書館は立派だった。長方形の上に円柱を足したようなモダンな形をしていて、円柱には「真実があなたがたを自由にする」という意味のラテン語が書かれていた。駅の改札のような機械に学生証をかざさないと入れないその空間は、本の劣化を防ぐためか照明が抑えられており、薄暗い檻のようだった。レポートやゼミでの発表のために、独特の匂いのする本棚の間を何度も歩いた。作品中の用語の意味や解説は日本国語大辞典に拠らなければならないルールがあったから、全十四巻が並んだ棚の前で何度も出しては収めを繰り返さねばならないのは難儀だった。あのアカデミックな古い紙の匂いは、あの空間と、学部棟の書庫でしか嗅げなかった。その匂いを嗅ぐときはいつも微かに緊張していて、決まって一人だった。
たまに、全く関係のない画集などを取り出して眺めたりもした。中でもブレイクの「生命の川」に大層惹かれた。大通りの中央を貫く生命の川、両手に二人の子供を連れてその川を巨大な太陽に向かって泳ぐ後ろ姿のイエス・キリスト。これほどまでに優しさに満ちた絵があっただろうか。倫太郎は今までに見たどのイエスの絵よりも、この後ろ姿のイエスが一番だと思った。一番優しく、一番安らかで、一番幸福で、まさしくその神性を表すにふさわしい。左右に立つ胴長の女性達の薄絹のような衣服のひだ、その重みで枝をしならせる生命の木の実、水の流れと後ろに伸びたイエス達の足……この絵の優しさは、すべてこれらの柔らかさから生じている。
目的地である太陽を丸く囲む、手をつないだ天使たち。そこは即ち天国で、そこに到達すれば永遠の生命を得ることができるのだ、と解説に記されていた。
倫太郎はその時分、何をしても満たされなかった。自分が何に惹かれているのか、何をすべきなのか、考えに考えてもがけばもがくほど、真実が心と共に深く深く沈められ、二度と日の目を見ることができない気がした。本も映画も漫画も遊びも、手をつけてすぐに違和感に邪魔され、途中で投げ出してしまう。その違和感は、「生命の川」を眺めている間だけ、消えた。太陽を、求めたい。優しさと幸福の源である太陽を。そうして言葉で言い表すことさえ叶わないほどの柔らかさに包まれて、優雅に川を泳ぎたい。
だが、自分にとっての太陽とは何なのか、そもそもその川に入るにはどんな資格がいるのか、皆目わからなかった。一体何をどうすれば、間違えずにあれに辿り着けるのだろう。
無為が恐ろしかった。焦りと恐れに心が支配されていくにつれ、分厚いビニールを通して世界を覗き、触れている気がした。自分が感じ、思い、考えることすべてが、取るに足らない絵空事に思えた。今ここに存在する自分が本来のものからずれたところにある失敗作であり、人生自体がエラーで、この先に続いているのは何の意味もない空虚な時間だけなのではないかと考えたりもした。
働き始めてから、自分はこの世界のエラーであるという思いはほぼ確信に変わっていた。エラーは言葉を発してはならない。発したところでそれは理解され得ない獣の言葉なのだ。つまりは自分の言葉は自分の存在と同じく、この世界には不要な出来損ないのゴミだ。そんなものを一体誰が必要とすると言うのだろう。
倫太郎は、並んだ雑誌のタイトルを順々に心の中で読み上げながら歩いた。棚から棚へ、端まで行ったら反対側へ回ってまた読みながら歩いて、バックナンバーとして棚の下部に積まれている背表紙まで読んで、奥へ進んだ。
哲学、歴史、社会科学……小説の類は一番奥の棚だ。倫太郎は文庫本が並ぶ棚に足を進めながら、奈穂子の最後の言葉を思い出していた。
奈穂子の人生から出て行くことはできるかもしれない。だが自分の人生から奈穂子を除くことは、不可能だ。
倫太郎は、本能で引き寄せられるように奈穂子の部屋に転がり込んだ日の夜を思い出した。
布団がないから、買ってこなきゃね、と奈穂子は楽しそうに床の準備をした。パジャマ代わりに着ているというグレーのスウェットの上下も、ネット通販で買ったという花柄の布団カバーも、しわだらけのシーツも、少しも色気がなかった。そこにあるのは胎内のような、閉鎖的でひたすら強固な安心感のみだった。倫太郎は喜んでその中に飛び込んだ。奈穂子の匂いは初めて嗅ぐ種類のものだったが、不安や警戒を呼び起こすような危うい新鮮さは少しもなかった。
子供が母の幸福や上機嫌を願うように、倫太郎は奈穂子の要求や願いをひとつずつ叶えていきたいと思った。さくらのことを本にする、というのもその中のひとつだった。倫太郎は、出会ってすぐに発せられた奈穂子のその言葉に衝撃を感じながらも、それを長らく放置していた。その衝撃は、自分にとって未知で、危険な香りのするものだった。
奈穂子のバニラアイスの声に、あのときだけ、ほのかなアルコールが含まれていた。子供の頃に、親戚の家で一口だけ食べさせてもらったラムレーズンのアイス。ほのかに香る酒の匂いとアイスの甘みは、天上の世界に食べ物があったらきっとこんな味をしているのだろうと夢想させるほどに倫太郎少年をうっとりさせた。あのアルコール。まさしく未知で、危険で、これ以上踏み込んでは痛い目に遭うような、大人の領域にある、愉悦らしい何か。倫太郎は、そこにテレビで見るような蠱惑的な美女の姿を重ねた。肌を惜しげもなく露出しながら、自分自身の魅力を十二分にわかったうえで表す表情やポーズ。画面を隔てた世界にある偶像。
その美女が、奈穂子の声の中に言葉として現れ、倫太郎を惑わせた。自分が感じた愉悦を、倫太郎は嘘にした。怖かった。それはそんなに簡単に、自分の前に現れていいはずのものではなかった。手に届かぬ彼方にあるからこそ焦がれることができるし、また安心もできたのに。それが急に、いつでも掴める場所に用意されてしまったら、警戒せずにはいられない。
倫太郎はそれに手を出した際の作用や中毒性を恐れ、長らくそれを放置した。奈穂子のほうでも、その愉悦を口にすることの影響が小さくはないということを感じ取ったように、同じことを言ってくることはなかった。
だが長く自分の中に置かれたそれは、姿を潜めつつも、色や形を変えて、一度見た絵画のように倫太郎の中に刻み付けられていた。倫太郎は、消しゴムをかけることを決意した。そのためには製作者である奈穂子に許可を得る必要があった。というよりも、奈穂子の手でそれを消し去って欲しかったのかもしれない。
一緒に住み始めて、初めて迎えた正月のことだ。
二人でこたつに入り、テレビでお笑い番組を見ていた。奈穂子はよく笑った。倫太郎は言葉を組み立てることに集中したせいか、芸人の声のところどころしか頭に入れることができず、全く笑えなかった。
さくらのことを本にするのは、やや、というよりかなり、難しいと思う、と、倫太郎は遠慮がちに始めた。奈穂子は頬杖をついたままちらりと倫太郎を見た。
「どうしたの、急に。怖くなったの」
テレビに視線を戻して言った。倫太郎は早くも後悔した。奈穂子は自分の思惑などお見通しなのだろうか。全く、敵わない。自分が敵う相手が現れることなど、この先あるのだろうか。
黙った倫太郎を尻目に奈穂子は頬杖をやめ、マグカップの紅茶を一口飲んだ。そうして言った。
「そんなの、簡単じゃない。嘘をつくのと同じ。言葉や文章に囚われなくていいの。ただ、伝わればいい」
「嘘」
思いもかけぬ単語の登場に、倫太郎は動揺した。
「そう。嘘。ねえ、嘘に救われたこともあるでしょう」
そうして倫太郎は面接の話を思い出し、奈穂子に聞かせたのだった。奈穂子は頷きながら聞いてくれた。
「その嘘はあなたを救って、今ここにこうして、私といさせてくれてるでしょう。それって、すごいことだと思わない?」
確かに、そう言われてみれば、そうだと思った。
「小説とか、物語だってそう。嘘をベースに、ほんとを混ぜてるだけ。みんなそれを、嘘なのにほんとみたいだと思いながら読んでる。きっと、嘘とほんとの境界なんて曖昧なんだと思う。同じ嘘も、人や、時と場合によっては、ほんとになる。小説だって、これは真実だと思い込めば、その人の中で何かの糧として生き続けるかもしれない。それはつまり、嘘がほんとになるってことだと、思わない?」
倫太郎はそれまで、嘘を後ろ暗いもの、消したいものを隠すための蓋として使ってきた。出ようによっては真実に変身するような、積極的に表に出すべきであるような嘘など、簡単には想像できなかった。
何も答えない倫太郎をよそに、奈穂子は続けた。
「さくらの話だって、私にとっては嘘だったじゃない。その裏側に、文鳥のさくらという存在がいたんだから。それを知らないうちは嘘でしょう。でもね、倫太郎がその、経験から作り上げた悲しい嘘を、私にぶちまけてくれたのは……嘘を通して、自己紹介しているように思えたの。だから、うれしかった」
奈穂子はそうして再び頬杖をつき、テレビに視線を戻した。だがすぐに向き直り、「紅茶飲む? 淹れるけど」と言った。
倫太郎は頷いた。奈穂子は自分のマグカップを持って立ち上がり、キッチンに消えた。
やっぱり、敵わないと思った。今更恥ずかしいと感じてもしようがないくらいの早さで、奈穂子は倫太郎の中にあるものを見透かしている。奈穂子が倫太郎を見出したように、倫太郎も初めの段階で奈穂子を見出していたのだ。それを、突きつけられた。
奈穂子が倫太郎と自分のマグカップに紅茶を満たし、戻ってきた。ピンクと緑の色違い、同じデザインのそれは、いつか行ったロフトで一緒に買ったものだ。
「はい」
「どうも」
こたつの上に置かれたマグカップから湯気が立ち上り、二人の間の空気を柔らかく分けた。奈穂子はこたつに入るとすぐにテレビに視線を向けた。正月限定の寺のコマーシャルが流れている。
倫太郎は、奈穂子に伝えたいと感じた気持ちを持て余していた。言葉にした途端、本来の意味とかけ離れてしまい、きちんと伝わらないのではと恐れた。倫太郎は湯気を眺めた。眺めているうちに、湯に浸かった体のように、じんわりと心がほぐされていくのを感じた。
テレビのコマーシャルは自動車メーカーのものになった。初売り、というその時期にしか聞かない単語が耳に放り込まれたとき、倫太郎は静かに口を開いた。
「実は俺、小説家になりたいって、思ってたこと、あるんだ」
途中から痰が喉にからまった声になった。目を伏せた倫太郎は表情や動悸をごまかすように、紅茶のマグカップを持ち上げ、口につけた。熱かった。
「そうなの」
奈穂子はいつか北欧の家具を見に行ったときのような、興味を含んだ目で倫太郎をまっすぐに見た。
「ちょうどいいじゃない。今からでも、やってみなよ。何を始めるにも、遅いことはないよ。ちょうどお正月だし、うん、ちょうどいいよ」
そのとき倫太郎は、この世界に初めて許されたような気がした。奈穂子を通して、世界に参加する資格を与えられたような気がした。それまでは、自分がいることでこの世界の秩序が乱されるような気がしてならなかった。もちろんそんなものは単なる強迫観念で、とんでもない自意識の肥大ゆえの思考であることはわかっていた。それでも、自分が体ひとつ分の空間を借りて、あれこれと考えたり考えなかったり言葉を発したり発しなかったり歩いたり眠ったりすることが、この世界にプラスの作用をもたらしているという確信はついぞ持てなかった。常に、邪魔者であるという感覚。消しゴムをかけられるべきは自分なのだと、ずっと、心の底から、思っていた。
奈穂子は、ありのままの倫太郎につけられた〇だった。動物ではなく、初めての人間の〇だった。
自分が求めていた太陽は、奈穂子だった。奈穂子を眼前に据えることで、倫太郎は優雅に川を泳いでいける。自分の中を奈穂子で満たすことでようやく、倫太郎は意味を持った人間になれる。
この正月の夜の出来事は、深淵に飛び込むことのようにしか思えなかった結婚を決意するための、理由のひとつになった。
二人で新しく籍を作ったとき、倫太郎は二十七歳、奈穂子は二十九歳だった。さくらの話をしてから、三年経っていた。
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