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 夏は嫌いだった。汗をかくし、セミがうるさいし、夏休みがあるからだ。学校のプールに行っても一人だったし、からかわれて頭を何度も沈められたり、水着を下ろされたりするのが嫌だったから行きたくなかったのに、親は行けとうるさかった。家で宿題をしたいと懇願しても、帰って来てからにしなさいと家を出された。

 ひとつ下の弟の塾や習い事で忙しい母親は、倫太郎のことが見えていないようにふるまっていた。何を見せても聞いても話しかけても、無視された。あるいは、あしらわれた。この本が面白かったよ、とファンタジー小説を持っていけば、お母さんそういうの好きじゃないの、文学を読みなさいと一蹴された。図工の先生に褒められた写生画も、邪魔の一言で古新聞と一緒に納戸にしまわれ、その後日の目を見ることはなかった。

 自分がいけない、もっと弟のように優秀にならなければいけないと思い続けた。弟が自由研究で化石についてまとめるのを母親が手伝っているのを見て、図書館で図鑑や本を何冊も見て弟の倍の画用紙を使ってレポートを書いた。それを母親に見せると、なんて意地悪い子だろう、弟がかわいそう、恥を知りなさいと罵られ、弟と夕食のメニューに差をつけられた。弟は手作りのハンバーグ。自分は冷凍食品のシューマイ。何ともみみっちい制裁だ。だが小学生の倫太郎にとってそれは大きな大きな違いだった。

 そんなことが続くうち、倫太郎の中に違和感が芽生えた。そうじゃない。違う。これは、嘘だ。そんな言葉を頭の中で繰り返すことが増えた。そうすることで現実と理想の齟齬をなんとか調整し、自分の世界を保とうとした。

 学生の本分は勉強であり、勉強さえしっかりとしていれば間違うことはない。そう信じていた倫太郎は、高校も大学も努力して平均よりは学力の高い学校に入った。両親は受験に際して「国公立に行け」という言葉以外、倫太郎に対して働きかけをしなかった。弟が毎週塾に通うのを尻目にお年玉貯金で買った参考書で勉強を続け、結果弟よりもいい高校・大学に入った。弟は地元の私立大学に入ったもののほとんど通わず、実家に引きこもってネットに励んでいた。弟が立てただろう「引きこもりの俺が半生を語る」というスレッドで数回レスを残したのが、彼と関わった最後だった。

 きっと両親も、何故なのだろうと不思議に思っていることだろう。放置した出来損ないのはずの兄のほうが、ややまともな人生を歩むことができている。

 倫太郎は、本当は本に関する仕事がしたかった。本が好きで、本の並んだ空間が好きだった。本は、人と違って優しかった。通っていた大学に司書課程がなかったためスクーリングで司書資格を取ろうとしたが、求人がほとんどないという情報をネットで見ただけで、夏休み中に他大学に通ってまで取るべき資格ではないと投げてしまったことを後悔した。

 出版社を受ける準備など何もしなかったが、エントリーだけはした。書類選考はすべて通った。筆記試験も運よくすべて受かった。一次面接ですべて落ちた。正直に自分の半生や思いを話した結果、そこに×をつけられた。集団面接では自分と他の受験者に対する面接官の表情や視線の温度で容易に結果を予測することができたし、個別面接でも、途中から面接官が履歴書やエントリーシートを見て「ほうとうが好きなんですね」「卓球得意なんですか」などという意味のない質問で時間稼ぎをし始めることからも作り笑顔が反抗し始める。

 自分を正直に晒すことで社会からノーを叩きつけられることは堪えた。だが、予兆はあった。

 大学生になってアルバイトをいくつか経験した。家庭教師先では保護者の不信を買い、半年でクビになった。わからない問題を飛ばされたとのことだったが、「これは次回いい解き方を調べてくるから今回はやめて、こっちをやろう」と確かに言ったつもりだった。生徒にはそれが伝わっていなかった。家庭教師センターの担当者から「ふざけるな」「仕事を増やすな」「手を抜き過ぎだ」と罵られたあげく、父親への謝罪を約束させられた。自分に対して悪意を持っているとわかっている相手のところに、いくばくかの金銭と引き換えに行かなければならないことは本当に苦痛だった。中学生の男子生徒は何食わぬ顔で倫太郎を迎えた。告発の事実をどこかよそへやったような、いつもと変わらぬ表情や態度が恐ろしかった。何も知らない振りをして授業を続けるほかできなかった。時間終了間際で「こんばんは」と険しい顔をした父親が顔を出した。倫太郎はありったけの笑顔で「こんばんは」と返し、謝罪はしなかった。謝罪の裏にある自分への非難に相対するのが怖かった。そうして何事もなかったかのように授業を終え、帰った。翌日、担当者から「もう行かなくていいから」と電話が入った。ほっとした。元々そのつもりだった。

 居酒屋では二日目で「使えない」と烙印を押された。男女二人連れの客で、女性に「氷を持ってきて」と頼まれてアイスペールを持っていくと、「そうじゃない、氷をグラスに入れて持ってきてほしかったんだ。言っただろう」と男性に怒られた。確かに女性がそのような頼み方をしたような気がしたが、居酒屋で氷と言われれば誰だってアイスペールだと思うじゃないか、という不満が顔に出てしまったらしい。男性の怒りを買ったらしく、大声で怒鳴られた。店長がその場を収めてなんとかなったが、後で説明されたところによると、女性はつわりがあり、氷を食べたかったのだということだった。妊婦が居酒屋で氷を欲する。それは倫太郎の中にそれまで存在しなかった言葉の繋がりだった。倫太郎はその後一週間ほど勤め、辞めた。店長は予期していたかのように何も言わなかった。また、ほっとした。

 世界が、怖かった。人で満ちた世界が常に自分を糾弾し、見せしめのために河原に首を展示されるような幻想を日々抱いた。悪気はない。自分なりにきちんとやろうとしている。その結果、すべて×をつけられる。自分の言葉は、自分の思いは、容易に人に伝わらない。

 ある日倫太郎は、うさぎの店長の下、蛙の客に酒を出しもてなす夢を見た。蛙は始終上機嫌で、愉快なダンスを踊っていた。鳥獣戯画に関する番組を見た結果の夢だったのだろうが、倫太郎はそうだ動物だと思い立ち、動物に関する資格のいらない仕事を調べた。ペットショップ店員くらいしかなかった。ちょうど正社員で求人があった。

 人間よりも動物を相手にする仕事なら、きっと楽だと考えた。動物になら×をつけられても大したダメージはないはずだ。母親が動物嫌いであり、父親は動物を飼うというのは責任と多大な手間と金銭を伴うものであるという考えだったため、子供の頃より動物を飼った経験はなかった。弟がチワワを欲しがったことがあるが、上記の理由で却下された。そのときだけは溜飲が下がる思いだった。

 倫太郎は面接で、名前以外すべて嘘をついた。動物が大好きで、人間より動物に尽くしたい、仕事を生きがいとしたいと熱っぽく語り、アルバイト先で気が利くと重宝されたこと、家庭教師の仕事を通して誰かに尽くすことの喜びを知ったことなどをすらすらと喋った。その結果、すんなりと採用された。不思議だった。自分にとっては明らかで馬鹿げた嘘が、面接官にとっては信頼できる判断材料となり、その結果未来が変わった。

 倫太郎が社会的に与えられた初めての〇は、嘘によって手にしたものだった。つまりは嘘で武装することでしか〇をつけられないということだ。その裏側にある本当の自分に大きく×をつけられたのと同じだった。その×はあまりにも大きく、しばらくの間消えることはない。倫太郎は「動物が好き」で「尽くすのが喜び」であるという嘘を自分につき続けなければならなくなった。

 だが、動物との仕事はそれなりに楽しかった。決められた時間に餌を上げ、掃除をし、住環境を快適に保つことで、彼らは割と簡単に心を開いてくれる。動物は単純だ。生理的欲求を満たしてくれる存在を全面的に信頼する。

 魚やハムスターなどの小動物担当になった倫太郎に、特に懐いたのは鳥達だった。鸚鵡のような大きな鳥の声は苦手だったが、文鳥は童話を彩る存在のようにかわいらしく、愛らしかった。そうして鳥にも喜怒哀楽の感情があるのだと知った。

 倫太郎がこっそり「さくら」と名付けたメスの白文鳥は、その名の通り白い体に桜色の嘴がひときわ光って美しかった。さくらはケージに入れた倫太郎の手に真っ先に乗り、媚びるように首を傾げて倫太郎を見つめた。他の文鳥が倫太郎の手に乗ろうとすると、威嚇するように羽を膨らませた。

 ある日、それを見ていた小学生の女の子が、さくらを欲しがった。ハムスターを買いにきたんだろう、と言う父親をよそに、女の子はさくらに夢中になった。よく慣れるんですね、と父親に声をかけられ、ええでも時間はかかりますし世話も大変ですよこの子は他の子に比べてやや大人ですし、と言う間も、女の子はさくらを見つめて頬を紅潮させていた。文鳥が人間のことを信頼し慣れるにはある程度時間が必要だ。一番子供でやんちゃな時期に、根気よく愛情をかけて優しくしてやらないと決して慣れることはない。倫太郎にとってさくらは、嘘のない自分に初めて与えられた〇だった。

 売ってたまるか。倫太郎はさくらを振り払うように手を大きく動かし、他の文鳥に混ぜようとした。だがさくらは手から離れなかった。嘴と同じ桜色に囲まれた美しい目でまっすぐ倫太郎を見つめてくる。

「それ、ください」

 何度か手を動かしてさくらを引き剥がそうとあがいていた間に、父娘の間で結論が出たらしい。女の子が人差し指をさくらのほうに突き出しそう言った。倫太郎は軍手にしがみついているさくらを無意味に小さく揺らした。そうしてもう片方の手で「これ、ですか」とさくらを指さした。女の子はガチャ歯を見せて「うん、それ」と笑った。

 さくらを売った日は泣いた。さくらは最後まで、何もわかっていないようだった。倫太郎の中に穴があいた。新しい文鳥を家で飼おうかとも考えたが、仕事だから世話ができるのだ、家にいて、自分以外の何かに対して感情を伴う働きかけをするなどとても想像できないと思った。だから結婚も諦めていた。女性と付き合ったこともなかったし、そもそも人を好きになることがなかった。人間の中でも女性は恐怖の対象だった。女性の目は鋭い。男性以上に一瞥でいろいろなことを察知しラベル貼りをする。それが例え間違っていたとしても、彼女達にとってそんなことは問題ではない。対象が自分にとってどういう存在であるのか、それだけで十分なのだろう。

 そんな折、ペット保険の営業として定期的に出入りをしていた奈穂子に声をかけられた。それまで挨拶しかしたことがなかった奈穂子は、夜九時の閉店後に駐輪場に現れ、自転車の鍵を外す倫太郎の肩を叩き、社名と名前を名乗った。何度か会っている人間だということが、すぐにはわからなかった。あまり関わることのない人間の顔や名前はなかなか覚えられないのだ。

 奈穂子は、よかったらちょっと一緒に飲みに行きませんか、と笑った。そのときようやく誰なのかを思い出した。げっ歯類のような大きな前歯が印象的だったのだ。ああ、前歯の人だ、と思った。その前歯を見て倫太郎は安心し、いいですよ、と返事をし、またすぐに鍵をかけた。

 その後のことはよく覚えていなかった。学生時代アルバイトをしていたチェーンの居酒屋に行って、しこたま飲んだ。何を話そうと考える間もなく、奈穂子は倫太郎に次々と質問を浴びせた。ずっと前から気になっていた、誤解しないでね、そういうことじゃなくって、なんか面白そうだと思って、と言って顔にかかった黒髪を指で耳にかける仕草だけはよく覚えている。

 気づくと自分の部屋で目覚めた。もちろん一人だ。奈穂子とのことは夢だったのだろうか、と思うのも束の間、携帯が光っていた。いつ交換したのか、「稲村奈穂子」という送信者名と共に新着メールの存在を画面が告げていた。

「さくらの話、面白かったです。また飲みに行きましょう」

 倫太郎は記憶がない負い目で「よろしくです」としか返せなかった。後日居酒屋で事の詳細を聞くと、どうやら倫太郎は奈穂子に自分で作った「物語」をずっと聞かせていたというのだ。

「養父に恋してるさくらっていう女の子が、就職先で出会った取引先の御曹司に見初められて偽りの結婚をする、でも生涯気持ちを貫くっていう、美しいお話よ。ほんとに覚えてないの?」

 倫太郎は驚いて、さくらは文鳥だと告げた。奈穂子は通路越しの客が振り向くほどの大笑いをした。

「なるほどね、文鳥と両想いだったわけ。美しいじゃないの。すてきだわ」

 奈穂子は倫太郎の目をまっすぐに見つめた。今回は飲み過ぎないと決めていた倫太郎は、目の前に置かれた黄金色の液体を思わず喉に流し入れていた。

「君面白いね。ねえ一緒に住まない?」

 この二月ほど前に、奈穂子は飼い犬を亡くしていた。偶然にも、その犬の名も「桜」だった。倫太郎は桜の代わりになった。奈穂子がさくらの代わりになったのかどうか、そのときはわからなかった。ただ、二番目に与えられた○らしいということは、おぼろげに感じた。

 雌犬の代わりでも、倫太郎は必要とされることを嬉しく思った。倫太郎に興味を持ったのは、普段は全く喋らないのに、鳥のこととなるとお客さんが戸惑うくらいにマシンガントークを繰り広げているのを目撃したのがきっかけということだった。

「さくらのことも、びっくりするくらい、ずうっと一人で喋ってたの。面白かったよ」

 そうして、「私と似てると思ったの」と付け加えた。

 あなたも一人で喋り続ける人なの、と聞くと、奈穂子は答えずに微笑んだ。

「さくらのこと、本にしてよ。そして私を一番最初の読者にして」

 奈穂子の声は、ちょっと聞くと冷たい印象を受ける。だがその後ろ側に、何とも言えない柔らかさがある。

 このとき倫太郎は、奈穂子の声はバニラアイスに似ている、と思った。そうしてこの声がどんどん好きになっていった。奈穂子のバニラホワイトの声に包まれると、背筋がしゃんとするし、同時にとても甘美な気持ちになれる。

 はずなのに、先ほどの奈穂子の声に、甘さは微塵もなかった。氷のような声だった。倫太郎は、夏と同じくらい、氷も嫌いだった。

 気に入らないことは、頭に消しゴムをかけてなかったことにしてしまえばいい。ぽん、ぽんと。デッサンにハイライトを施すように、少し遠慮がちに、おずおずと。それが、消す対象への作法であり優しさでもある。

 倫太郎は、死体を井戸に投げ込むように、気に入らないものに消しゴムをかけて生きてきた。からかってくる同級生。弟。母親。父親。文句を言ってくる人、嘲笑してくる人、批判し、毒づき、嫌いであることを態度や言葉で出してくる人達。消してはまた現れてくるそれらにかける消しゴムは、いつしか乱暴に、対象を破らん勢いにまでなったが、それでも倫太郎は無を貫いた。無表情。無感動。無言。考えない、感じない。そうすれば傷つかずに済む。

 同じように、彼らが倫太郎に消しゴムをかけてくれれば楽なのに、何故だか皆そうしてくれない。

 奈穂子に消しゴムをかけようとしたことは、何度かあった。でもできなかった。今回も、おそらくできないだろう。

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