ヨルカと白い嘘

七海 まち

ー1ー

 セミの声が途切れた。鳥にでも食われたのだろうか、と思う間にも、奈穂子の糸を紡ぐような口上は続いた。

 一人で、生きていきたいの。リンと暮らしてる今の生活が、意味不明なの。わからないの。

 その声は終始冷静で、倫太郎の心を乱すには少々時間がかかった。昨夜見た花火の破裂音のように、一歩遅れて胸に響いてくる。

 汗っかきの倫太郎と冷え性の奈穂子にとって、夏は攻防戦だった。大抵は奈穂子が何か羽織ることで譲歩したが、いつの間にかこっそり温度を上げられていたりするから油断できない。盆休み中の日曜の、午前十一時半。朝から稼働しっぱなしのエアコンを、「二十二度設定ですか」と言いながら奈穂子が切ったとき、倫太郎は警戒しなければならなかった。寝転がってテレビのニュースになんとなく目を向けている倫太郎の二の腕を引っ掴んだ奈穂子の目に、慈悲はなかった。

 窓を開け、「そこに座って」と指示する奈穂子に抗う意志はもはやなかった。こうなってしまったら、母親と子供のようなものだ。

「黙ってないで、何とか言って」

 視線を自分の膝の上に滑らせた倫太郎を前に、奈穂子は苛立ちを隠さずに言った。それは一番聞きたくない言葉だった。倫太郎はどんな言葉が最適なのか、いつもわからなかった。同僚の父親の通夜のとき、気詰まりな飲み会のとき、妻が流産したとき。

 そのとき言うべき言葉がいつもわからない。こうかな、と思って言った言葉が、どうも違ったらしいということはこれまで数えきれないほどあった。そのたびに相手の苦笑失笑あるいは無表情に、「失格」の烙印を押され続けた。

 倫太郎は考えた。いつも考えるから、その間に会話が流れていってしまう。だからできるだけ早く言葉を発することに集中した。その結果思ってもいない言葉、発した後でようやくまずいと気づくような不適切な言葉を量産する結果になった。それでもその場に自分の存在が不要であると判断される前に、なんとか会話に参加したかった。いつかは、いつかは当たりが出るはずだと信じて何度も何度も言葉を生み続けた。その結果が、奈穂子の「意味不明」だった。

「離婚したいってこと」

 倫太郎は、確認のために聞いた。奈穂子は一呼吸置いてから、頷いた。

「できれば明日にでも、出ていってほしい。ここ、あたしのマンションだし」

 言われなくてもそれはわかっている。奈穂子が独身時代に買ったマンション。倫太郎はそこに転がり込むようにして同棲を始め、そうして結婚した。

 約二年半か、と倫太郎は夫婦として過ごした年月を数えた。

「ねえ。どうなの。どうするの」

 奈穂子は倫太郎の反応に初めは不安を、やがて苛立ちを感じたらしかった。いつものパターンだ。いつもこうして、倫太郎が奈穂子の期待に添う反応を返せないことから喧嘩の火種が起きる。尤もろくに言葉を返せない倫太郎にとって、それは一方的な責め苦だった。

 倫太郎は声を大きくし始めた奈穂子を前に、黙った。幼い頃、母親に叱られたときと同じように、黙った。なんとか言いなさい、馬鹿にしてるのかと言われてもうつむいて黙ったままで、最終的に父親に張り飛ばされても、ついぞ口は開けなかった。その頃から、自分の言葉が他人に対して危険な弾のようなものだと認識していたのだろう。無言が最善だった。それは今も変わらない。

 前進しない思考は渦を巻いてぱちぱちと星のように弾けた。この状況から放たれたいという思いだけが誠実に胸の中に落ちていく。

「いきなり言われても、困るよ」

 倫太郎は思うままを言った。そうして一瞬奈穂子に目を向け、すぐにまた膝に視線を落とした。

「昨日も、聞いたけど」

 その言葉が濡れているようで倫太郎はまた奈穂子を見た。奈穂子は目を赤くして涙をぽんぽんとショートパンツで剥き出しの膝に落とし始めていた。他人の、特に奈穂子の涙は、倫太郎がこの世界で最も苦手なもののひとつだ。対処する術が、全くわからない。

「あたしが流産したとき、リンなんて言ったか覚えてる」

 昨晩、寝しなに布団の中でこの質問をされたとき、倫太郎は酔っていた。花火大会だから、と奈穂子がいつになく上機嫌で、会社の人間に教わったとかいうカクテルを作って出したのだ。それが存外美味で、がぶがぶ飲んでしまったのがいけなかった。何と答えたのか、もはや覚えていない。何も答えなかったかもしれない。

 倫太郎は、過去に奈穂子に放った言葉をほとんど覚えていない。言葉というのはそのときの気分や体の調子で出る排泄物のようなものであって、一般的にそういうものは出したら忘れるものだから、倫太郎にとっては重要なものではなかった。もちろん相手にとっては違うということは理解している。だが、覚えていられないものはどうしようもなかった。

「ごめん、わからない」

「本当に、本当に覚えてないっていうの」

 倫太郎は頷くしかなかった。奈穂子は涙を絞り出すようにぎゅっと目をつぶって言った。

「よかった、って、言ったのよ。よかった、って。あたし、聞こえてたんだから。また頑張ろうなんて言っておきながら、あなた安心してたのよ。やっぱり子供なんて欲しくないんでしょ」

「違うよ。まだ、欲しくないって言った」

「それは欲しくないっていうのと一緒なのよ。あたし三十二よ。わかる? 期限が迫ってるの。今すぐ欲しいの。ほんとはもっと早く欲しかった。あなたが結婚なんて早いって先延ばしするから」

「だってまだ収入が安定してなかったんだから、何も考えずに行動するよりはいいと思って」

「臆病者」

 奈穂子が言い放ち、静寂が場を支配した。気づけばテレビも消えていて、セミも復活しないし、音がない世界だった。不思議だった。雪が降っていると言われても納得しそうな静寂だった。

「臆病者。臆病者。ねえ、何なの? あなた何なの」

 奈穂子の涙は鼻水と合流してだらだら流れていた。

「あたしが、子供諦めるの、待ってたんじゃないの? そうやって、ずるずる先延ばしにして、あたしの気持ちとか、全然、なんにも、考えてないじゃない」

 そんなことないよ、とは、言えなかった。弁明のしようがなかった。

「あたし、もう一度取り戻したいの。ねえ出てって。あたしの人生から、出てって。今すぐ」

 倫太郎は考えた。奈穂子の考えを変えうる言葉の組み合わせが存在するのかどうか、考えた。考えれば考えるほど、脳みその中も部屋の風景も、消しゴムをかけられたようにだんだん白くなっていった。そうして結局、財布と携帯だけをズボンのポケットにねじこまれ、ものすごい力で背中を押され外に締め出されるまで、倫太郎は無言を貫いていた。

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