1章 出発準備

第1話 ヒロ、天使に脅される

世界は再構成された。


 青く塗り潰された空はどこまでも広がり、風が吹きすさぶ。

 宙に浮いた廃墟からは下へ下へと階段が続き、雲に遮られていた。強風に煽られて落ちれば死ぬかもしれないと少し不安を煽られる。


 「……………なんだよこれ」


 ヒロは震える息を吐きながら圧倒されていた。

 階段の広い踊り場で一人突っ立っていると、髪を地面に波打たせ倒れていた少女もゆっくりと起き上がる。その目はまだ朧気だったが、ゆっくりと意識を吹き返した。

 少女は上目づかいでこっちに視線をぶつけてくる。


「ど、どうした?」

「……妾に何かしたか?」

「え、いや……」


 少女の淡々とした質問に言いよどんでしまい、視線を逸らす。ついでに超常的なドッキリなのではないかと辺りをきょろきょろと見渡すも、有用な情報は得られそうにない。


「あ、やっと来たんだ」


 階段の上から鐘の音のような声が響いてきた。


 視線を上げると、その姿に意表をつかれた。

 足下まで届く古代ギリシャ風の純白の衣には金色の糸で刺繍が施され、その上に長い赤いローブ。そしてなにより、背中からは神々しい純白の翼。


「天使?」


 ヒロは見たままの言葉を漏らしていた。


「君、よく知ってるね。私は大天使のウリエルって言うんだ」


 ウリエルは清潔そうな長い真っ直ぐの赤毛を揺らして階段をゆっくりと降りてくる。


「あれ、急にこんな場所に連れてこられて意外じゃないの?」


 革編みのサンダルを履いた白く細い足がカツンカツンと音を響かせる。


「驚きを通り越してどうでもよくなったんだよ。それよりも、俺の隣のこいつは何だ」

「その子? 私やあなた達をお造りになった方だよ。」


 踊り場まで降りてきたウリエルはそう突拍子もないことを言う。

 実は変な存在によって私たちは造られていました!なんて言われても信じられるわけがないだろう。


「証拠はあるのか?」


 ヒロはウリエルの手を払いつつ言った。


「証拠?そんなものあるわけないだろ。何?創世の時の写真でも撮ってればよかったのかい?」

「そういうわけじゃ……とにかく突飛過ぎるんだよ」

「君からすれば私の存在からしてぶっ飛んでるだろ?」


 なんなんだこれは。

 もしかすると二度寝でもしていて、実はまだ布団で寝ているんだろうか――と疑い、ヒロは頬をつねった。


「いったい何やってるんだ」


 バカか? とでも言いたげな視線をウリエルはこちらに送ると、手すりに体を預け、ら何もなかったように続ける。


「ちなみにその子、フェテレって言うんだ」

「フェテレ?」

「そう、フェテレ。まああれだよ。神様の名前だ」

「どうなんだ? フェテレ」


 明後日の方向を向いていたフェテレ(仮)はこっちに向き直ると、ふるふると首を横に振った。


「やっぱり知らないじゃねえか」

「そりゃそうさ。」とウリエルはあっさり答えると、

「人間の器に移した後、神格をぎりぎりまで磨り減らしたからね。今は病み上がりみたいなもので記憶すら曖昧だろう。本当に苦労したよ……」とそのことを思い出したのか疲れたような声を零していた。


「えっと、つまり、どういうことだ」


癇癪かんしゃくをおこした神様を一旦君らの世界に封じたんだよ。——当時、地上には人が増えるとともに悪が急速に広まっていた。そしてついに……世界に蔓延した。それを神様は嘆いたんだ。その結果、神は人間を手放した。つまり、滅ぼそうとしちゃったの。そりゃあもう凄かったね。雷バンバカ降らすんだもん。でもさ、さすがに乱暴と思わないか?」


 疑問を呈するウリエルに対してフェテレは何とも思ってなさそうな顔をしている。

 とはいえ、本人を目の前にして異議を唱えるというのは気が引け、はぐらかすことにする。


「人間なんて争ってばかりだし色々と無理があったんじゃないか」

「そうさ。無理なんだよ。だからってゼロにするのは解決になっていない。それは神様の怠慢だ……って意見が天使たちから挙がったんだ」

「は、はあ……」


 たまたま求めてた返事が出たからかウリエルは話を展開しだすが、そんなこと言われてもちょっとわからない。ヒロは鈍い反応しか返せなかった。


「かつてのこのお方は世界を俯瞰ふかんでしかご存じない。本来の人間がどういう生き物なのかを理解してらっしゃらないんだ。だから簡単に人間を殺せる。これは危ない。神様には責任ある立場として深い心を身につけていただかないとだめだって僕らはやっと気づいたってわけさ。というわけで————これからフェテレちゃんには人間として君と地上で暮らしていただく」


「――ん?」


 君と?どうしてそうなるんだ。


「今の神様にとって必要なのは知ることだ。世界を治めるには、治めているものを知る必要がある。そこでヒロ君……君が神様再起プロジェクトの一員に抜擢されたんだよ」

「プロジェクトって……もしかして手紙送ってきたのってお前か」

「そのとおり」


 と言ってウリエルは少しだけ得意そうに笑顔を見せる。

 ちょっとむかつく。


「それは異世界の学園とかでこいつと青春してればいいのか?」

 

 ヒロは傍らで突っ立っているフェテレを指さす。

 はあ……とウリエルは分かりやすい溜息を漏らし、ヒロに視線を突き刺した。


「そんなわけないだろ? 君には神の権利を剥奪されたフェテレちゃんと一緒に、この世界の人々が神様が思うよりも愚かでない存在かを確認していただく。要はたくさんの人と関わって、フェテレちゃんを正しい資質を持った神に更生させるんだ。分かった?」


 ウリエルは言い聞かせるようにヒロの目を深く深く覗く。


 確かに『美少女の神様を更生するプログラムに自分は特別に選ばれた』と端的に見れば何か惹かれる部分があるが、自分がやりたいのはあくまで華やかな学校生活だ。なんだか違う気がする。


「それは天使のあんたたちがやるべきなんじゃないのか」

「こっちにも色々と事情があるんだ。それに、こういうことは僕らが神様のあり方を押しつけがましく説いてもダメだ。分からない中で彼女が見つけていかないと意味がない」

「だけど、それにヒロを巻き込むのは身勝手だろ。あんたらの乱暴な神様と同じじゃないのか」

「……どうも勘違いしてるようだから言っておくよ」


 ウリエルは寄りかかっていた手すりから離れ、ヒロの前に歩み寄った。


「な、なんだ」

「僕らは神の秩序を、“僕らの身勝手”でぶち壊した。もちろん力でだ」


 ウリエルが羽をひと羽ばたきさせると、彼女の頭の上に輝かしい光輪が浮かび上がる。そして掌には火球が姿を現した。どこからともなく顕現した途轍もないエネルギー、その赤い光は無造作に放り投げられると一筋の光条を描いてみせた。

 瞬間、空間が歪むと――凄まじい閃光とともに爆炎が解き放たれ、熱を帯びた風が肌を焦がしてくる。

 熱風が過ぎ去って耳鳴りも止むと、ウリエルが悠然とこちらを見た。

 気持ち悪い汗が出てきた。フェテレも度肝を抜かれたのか、ぺたりと地面に座り込んでしまっていた。


「これは僕らに力があるからできたことなのは聡明な君なら分かるでしょ?」

「……ああ」

「じゃあ、力のある僕らの身勝手な計画を、力のない君じゃ断れないのも分かるかな」

「さっきので痛感したよ……」


 起伏のないしゃべり方が逆に怖い。ヒロは納得せざるを得なかった。こいつを変に怒らせてしまったら未来はないと本能が告げたからだ。


「僕と君は同じ土俵に立っていないんだ。面倒ごとを押しつけて苦労をかけるなとは思うけどね」

 

 ウリエルの言葉にはもう苦笑をこぼすことしかできない。

 否とは言えない状況だぞこれは。


 ヒロが自分の立場をやっと理解したと心得たのかウリエルは元の笑みを取り戻し、柔らかい口調で続ける。


「分からなくてもいいし、素質なんてなくてもいい。人間の君がフェテレちゃんの側にいさえすれば問題ない」

「もう好きにしてくれ……」


 腹立たしいことだとは思ったが、ヒロにはどうにもできない。ヒロはただただ力なく呟くしかなかった。

 


「なんか投げやりになってない?」

「そんなことない」

「そっ、じゃあ頑張ってね」


 ウリエルはあっさりそう言い放つと、意気消沈のヒロの額を小突くように人差し指と中指で触れる。彼女の指先に淡い光が灯ると、凄まじい勢いで得体の知れない感覚が流れ込んでくる。

 鼓動の音がやけにうるさい。

 しかし、それは三秒も続かなかった。気づいたときにはもう、体の中の昂ぶりは消え去っていた。


「おい、今何か……」

「じゃあ、さっさと地上に送ろうか」


 ウリエルはヒロの問いかけをさらっと遮ると、再び翼をひと羽ばたき。うねり打つ強い風が巻き起こる。

 思わず目を閉じた。突如浮遊感に襲われる。


「え?」


目を開けると、ヒロとフェテレの身体は空中に投げ出されていた。



 爆発脅迫お姉さんのウリエルに空へ放り出され、ヒロはフェテレと雲を突き破って落下を続けていた。


 ああ、父さん、母さん。今までありがとう。元気に食べて元気にクソして元気に寝るだけが取り柄の息子で申し訳なさが募るばかりだ。やりがいを見つけられない学校生活はともかく、両親や幼なじみを残して一人死んでいくのは心残りかもしれない。どうか『定期テスト対策』と銘打った性癖ダダ漏れエロ画像フォルダだけは見ざる聞かざる言わざるの精神に則り、丁重に削除を……」


 それはヒロが涙をこぼしながら、両手を組んで死ぬ準備を整えようと必死なとき。

 身体がふっと軽くなった。


「死んだのか?」


 未体験の連続に驚きながらフェテレの方に目をやると、白目を剥いて気絶していた。何をもって無事かはこの際置いといて、どうやら大丈夫なようだ。


「ダメですよ。こういうときは男の子が女の子を守ってあげないと」

 おしとやかそうな声が頭上から響く。


 空を仰ぐと、そこには光輪の天使がいた。 


「あの……本当は私が地上まで送るはずだったんですけれど、ウリエルさんがあまり待てない性格なものでこのような乱暴な形になってしまいました。申し訳ございません」


 天使は言葉通り申し訳なさそうに話す。

 ウリエルと同様に優美なひだを持つ白い衣服には、これまた変わらず荘厳な金色の刺繍ししゅうが施されていた。


「ウリエルの仲間……?」

「そう思って頂いて差し支えありません。ともかく今はフェテレ様と一緒にお送りいたします。三人分の浮力を確保するのにも結構力を使いますので」

「ああ、頼む」


 さっきの話も正直何なのか分からなかったが、今はそれでもいいと頷き返す。


「なあ、よかったら少し寝てもいいか? 今までので疲れたんだ」

「はい。後で説明いたしますので、ゆっくりお休みください」


 天使が優しく微笑みかけると、ヒロは全身に入った力を溶かすように目を閉じた。

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