23:触れ合う唇

 重なった唇は甘く、触れ合っただけなのに身体の隅々まで満たされるような心地がした。

 考えるよりも先に身体が勝手に動いていた。まっすぐに見上げてくる瞳が、震えながら愛を伝えてくる声が、たまらなくいとしいと思ったときには口づけていた。

 マティアスが名残惜しく思いながらもそっと離れる。

「……ぇ」

 エミーリアは大きな目を見開いて硬直していた。何が起きたのかわからない、といった様子で、自分の唇におそるおそる手を伸ばしている。

 彼女の意志も確認せず口づけてしまったことに気づいて咄嗟に何か言い訳を――と口を開きかけるが、言い訳するも何も、エミーリアがあまりにも可愛くて思わずキスしてしまったなんて言っていいものか否か。そもそも彼女がどう感じたかなんて、マティアスにはわからない。

「え、ぁ……え……!?」

 エミーリアは何が起きたのか理解し始めたのだろう、じわじわと頬が赤みを増してくる。ぶわわ、と小動物が毛を逆立てるみたいにエミーリアの肩がびくりと跳ねた。

「~~~~っ!? い、い、今の……!?」

 両手で口元を覆い、顔を林檎のように真っ赤に染め上げてエミーリアがこちらを見上げてきた。瞳にはうっすらと涙が滲んでいる。

 嫌がられたんだろうか、という思いが胸に浮かんだ瞬間、エミーリアがふるふると震えながら声を上げた。


「く、く、口づけは、結婚式のときに初めてするものじゃないんですか……!?」


 混乱するエミーリアが訴えてきたのは、嫌だとか気持ち悪いとかそういう感想ではなく、なんだそれはと聞き返したくなる問いだった。

「こ、婚前にキスなんて、は、はしたないとか、ふ、ふしだらだとか思われてしまいませんか!? ど、どうすれば……!?」

 冷静さなどどこかに吹き飛ばして、さらに先ほどまで抱えていた悩みも今は忘れてしまっているらしいエミーリアは目をぐるぐるさせながら助けを求めてくる。

 そんな様子も可愛いと思ってしまっている自分をひとまず脇に押しやり、マティアスはエミーリアを落ち着かせることを優先することにした。自分が悪いことは重々承知している。その上で、どうやら嫌がられたわけではないらしいということに安堵もしていた。

 しかし待ってほしい。

 もしやエミーリアの中では結婚式までこういう行為はないものと思われていたということだろうか。春の結婚式まで、まだ半年以上あるのに?

「……なんの拷問だ……」

 エミーリアにも聞こえないほどの小さな声で、マティアスはぽつりと零す。

 形だけの婚約者ならそうであっても問題ないし、マティアスも手を出そうなんて微塵も思わないが、これでもマティアスとエミーリアは恋人同士である。

 結婚するまでキスひとつさえできないのか……? と考えてマティアスはぞっとした。まっすぐにひたむきに好意を伝えてくる可愛い婚約者を前にどれだけ我慢を強いられることになるんだ。

「……へ、陛下?」

 エミーリアのことだから、とんでもないことをしてしまったと思っているのだろう。実際にとんでもないことをしたのはマティアスのほうなのだが。

「エミーリア」

 いとしい婚約者の肩を掴み、マティアスは真剣な顔になった。エミーリアは眉を下げたまま「はい……」と小さな声で応える。

「これは練習だ」

 そしてきっぱりと、このわずかな時間に考えたエミーリアを落ち着かせることができて、かつ納得させられる理由を告げる。

「……れんしゅう?」

 エミーリアがきょとん、と目を丸くしてマティアスの言葉を繰り返した。その反応に、マティアスは「そうだ」と力強く頷いた。

「結婚式当日に失敗はできないだろう? だからこれは練習だ」

 マティアスは練習だ、と強めの口調ではっきりと言い切る。内心ではこれで大丈夫かと少しひやひやしていた。

「……そ、そうですね……! 練習は必要ですね……!?」

 素直すぎるエミーリアはマティアスが考えた苦しい言い訳に納得したらしい。

 いや、まったくの言い訳というわけでもない。マティアスとエミーリアの結婚は国をあげての一大イベントになる。参列者の数はかなりのものになるし、近隣諸国の王族だって招待することになっている。そんな重大な場でまさか失敗なんてできないのは真実だ。

 エミーリアもそれがわかっているからこそあっさり納得したのだろう。

「……とはいえ、突然すまなかった」

 マティアスは目を逸らし、叱られる前の子どものように小さく謝罪を口にする。

 恋愛結婚を夢見ているような少女だ、こういうことにも理想があったのでは、と今さらになってからあれこれと「やってしまった」という気持ちが膨れ上がってくる。

 反省するマティアスを見上げて、エミーリアはぱちぱちと瞬きをした。

「え、えっと……お、驚きましたけど……。でもわたくしは、陛下にされて嫌なことなんてありません」

 だからどうか、謝ったりなさらないでください、とエミーリアは頬をほんのりと赤く染めて微笑む。

 マティアスはとんでもないことになっているだろう自分の顔を手で覆い、息を吐く。

「……そういうことは、あまり言わないほうがいいと思う」

「……? そうなんですか?」

「そうだ」

 きっぱりと言い切ると、エミーリアはよくわかっていないなりに「そうなんですね」と頷いている。

 婚約者のいとしくも困り果てるレベルの鈍感さに、どうすればいいのかマティアスにはさっぱりわからなかった。



「……まだ顔が赤いな。部屋まで送ろうか」

 マティアスがエミーリアを見下ろしながら、手の甲でそっと頬に触れる。すり、と触れた手にエミーリアの心臓はまたぎゅうっと締め付けられた。

「だ、大丈夫ですから……! 陛下は執務に戻ってください」

 むしろマティアスと一緒にいるといつまで経ってもエミーリアは落ち着かない。唇に触れた感触を思い出してしまって、エミーリアはまた耳まで真っ赤になる。

(お、思い出してはダメよエミーリア……! そ、そんなのふしだらだわ……!)

 あれは練習。練習なのだ。決していかがわしいものではないのだ。だからこんなに動揺して恥ずかしくなっていたたまれなくなる自分がいけない。

「……本当に大丈夫か?」

「大丈夫です……!」

 心配そうに顔を覗き込んでくるマティアスとも目を合わせることができない。主に、マティアスの口元を見ることができなかった。だってあの唇が……なんて考え始めたら、それだけで死んでしまいそうなほど心臓が悲鳴をあげるのだ。

(そ、それに、わたくしにはやることがあるでしょう!)

 オリヴァーのことを、ゼクレス伯爵家のことを調べるはずだったではないかとエミーリアは自身に言い聞かせる。

 ふぅ、と息を吐き出してエミーリアは煩悩とも呼べるそれを頭の隅に追いやった。切り替えて、改めてマティアスを見る。

「……あとで、お茶をお持ちしますね」

「楽しみにしている」

 マティアスは微笑み返すと、仮の執務室になった部屋へと向かった。その背中を見送り、先ほどから誰かを見送ってばかりだなと、どうでもいいことで頭を埋めようとするが。

「~~~~っ!」

 一人になった途端に羞恥心が込み上げてきて、エミーリアはその場に蹲った。

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