8:旅は予定通りにはいかないものです
馬車がハインツェルに到着する頃には、空は暗くなり雨が降り出していた。
ハインツェルの街の石畳の道を進んだ先にある丘の上にはフェルザー城があり、エミーリアたちはそこに住まう王太后に会う予定だ。
「……すっかり強い雨になりましたね」
馬車から降り、空を見上げながらエミーリアが呟く。
(デリアを置いていかなくて良かった。こんな雨じゃ、風邪をひいて倒れてしまうわ)
多少強引だったかもしれないが、結果としては良かったと思う。エミーリアはほっと胸を撫で下ろすのと同時に、フェルザー城のなかへと足を踏み入れてじわじわと緊張が増していく。
(こ、これから王太后様とお会いするのよね……!? ええと、一度着替えて、きちんと正装を着て、それから……)
頭の中でシミュレーションをしながらエミーリアはそっと背筋を伸ばした。
「ようこそお越しくださいました、陛下」
「世話になる。母上は?」
「それが……」
家令らしき壮年の男性とマティアスが話している。エミーリアには聞き取れなかったが、マティアスが眉を寄せてため息を吐き出した。
「……またか」
「……申し訳ございません」
頭を下げる男性に、マティアスは「気にしなくていい」と苦笑した。
(え、何かしら!? 何か問題でもあったの!?)
「ええと、陛下……?」
「何でもない。とりあえず部屋に案内してやってくれ。雨で少し濡れてしまったから、風邪を引かないように」
それからもう一人、部屋を用意して欲しい。
マティアスはデリアのための部屋も準備するように指示を出した。外の雨は弱まるどころか強くなる一方だ。伯爵家の馬車もまだ直っていないだろうし、今夜はこのままフェルザー城に泊まったほうがいいと判断したんだろう。
「い、いえ、私は城下の宿屋でも……」
「今から探していては時間もかかるだろう? 部屋はあるんだから城に泊まればいい」
困惑するデリアに、マティアスは真顔でそう答えていた。
(陛下ってあんまり表情が変わらないから、デリアも困っているわ……)
おそらくデリアは、マティアスの提案が純粋な親切なのだとわからずにいるんだろう。
「ひとまずシュタルク嬢の部屋で二人とも着替えてきたらどうですか?」
侍女を連れていないデリアは、旅装のドレスから正装に着替えるにも誰かの手を借りなければならない。エミーリアにはハンナとテレーゼがいるので、デリアの部屋の用意ができるのを待つよりも同じ部屋で着替えてしまったほうが楽だろう。
「そうですね。行きましょうデリア」
エミーリアがデリアの手を取ると、困惑したままではあるものの、デリアもこの状況を受け入れることにしたらしい。
用意されていた部屋はとても広く日当たりも良さそうだ。残念ながら今は強い雨が窓を打ちつけていて景色は楽しめそうにないが、丘の上にあるフェルザー城からは城下の街を見下ろせ、立ち並ぶ赤茶色の屋根を眺めることができる。
「ところでデリアは婚約する方とはお会いしたことがあるの?」
テレーゼの手を借りてドレスを着替えながらエミーリアはデリアに問いかける。
「いいえ。今回初めて会うわね」
「……それじゃあどんな方かも知らないの?」
会ったこともない人との婚約というのは、貴族としてはそれほど珍しいことではない。だが昨今では婚約が決まる前に一度くらいは顔を合わせているものだし、夜会でお互いに惹かれ合うなんていうこともある。
「やさしくて誠実な方だとは聞いているわ」
「……そう」
それならまだしあわせなのだろうか、とエミーリアは目を伏せる。きっと着替えを手伝っているのがハンナなら、そんなエミーリアの小さな反応も見逃さなかっただろう。
「それにしても良かったのかしら、私まで城に泊めていただくなんて……」
未だに困惑するようにデリアが呟いたので、エミーリアは気にしなくていいと思う、と笑った。
デリアの乗っていた馬車がすぐに修理できて、別々にハインツェルに到着したのならそこまで関与はしなかっただろうが、デリアはエミーリアたちと共にやってきたのだ。わざわざ街の入口や途中で降ろすよりも、フェルザー城に連れていったほうが良いと判断したのだろう。
「もう外はすっかり大雨だし、今から宿泊先を探すのは大変だもの。陛下も心配してくださったのよ」
「陛下が私を心配する理由はないでしょう……」
あなたじゃないんだから、とデリアが呟いた。
「あら、デリアもこの国の大事な民の一人だもの。陛下が気にかけるには十分な理由だわ」
正装に着替え、にっこりと微笑みながら顔を出したエミーリアにデリアは半眼になる。
「それはそれは、陛下はおやさしいこと!」
「ええ! それはもちろん! 陛下はとってもおやさしいのよ!」
デリアは嫌味も込めて言ったのにエミーリアはぱっと明るい顔になって嬉しそうに頷いた。その顔にデリアはげっそりとして先手を打った。
「待って。惚気なら今度にしてちょうだい。今日はもうおなかいっぱいだわ」
「あら? どうして?」
エミーリアが首を傾げる。
デリアと二人だけのお茶会のときには陛下がとてもかっこよくて素敵でと話しすぎて止められることがあるが、今日はそんな話はしていない。なんせ馬車の中にはマティアス本人もいたのだから、いつもの調子でデリアと話すわけにもいかなかったのだ。
「自覚してないの……!? あんだけ人の目の前でいちゃいちゃしていたのに!?」
いちゃいちゃ。
その単語に、エミーリアは目を丸くした。
そしてデリアの言葉をしっかりと飲み込んでから「ええ!?」と声をあげる。
「し、してないわ!? してないわよ!?」
そりゃマティアスと二人きりのときはエミーリアでさえくらくらしそうな空気のときもあったが、デリアが同乗してからはそんなことはしていない。エミーリアにだってマティアスにだって、それくらいの分別はある。
「してるわよ十分。空気まで甘ったるくて胸焼けするかと思ったわ」
「え、ええ……」
そんなつもりはないのに、とエミーリアは自分の両頬を手で包み込みながら赤くなる。
(意識しなくても気持ちが漏れてしまっているってことなの!? それじゃあもしかしてたくさんの人に恋愛ごとに夢中になってるって呆れられているんじゃ……!?)
「まぁ、しあわせそうで良かったわ」
くすくすとデリアが笑う。
着替え終えたエミーリアとデリアは、城の使用人に案内されてマティアスのいる部屋にやってくる。
「……今日は王太后様にお会いできない、ですか?」
そしてエミーリアはマティアスの口から聞かされた言葉を繰り返す。
「ああ」
「それは……その、わたくし、何か王太后様の気に障るようなことでもいたしましたか?」
真っ青な顔でエミーリアが問いかける。まだ会ってもいないのに既に何か問題を起こしてしまったのだろうか。
エミーリアの真っ青な顔にマティアスも慌てた様子で首を横に振った。
「いや、君に問題があるわけじゃない」
「それでしたら、お加減が優れないのでしょうか?」
王太后であるナターリエはそもそも療養のためにこのハインツェルで暮らしている。ハインツェルの冬の寒さは王都よりも少し厳しくなるが、空気がいいので療養地に選ぶ者もいる。
しかしエミーリアの問いに、マティアスは困ったような顔をした。
「いや、そういうわけでもない。その……たまにあるんだ、母は」
「たまに……?」
首を傾げるエミーリアに、マティアスは「ああ」と頷いた。
「その……うまく説明できないが、部屋に引きこもって人と会わないということが稀にある」
「ああ……」
エミーリアはなんとなくマティアスの言いたいことがわかって、苦笑する。姉のコリンナの夫であるグレーデン侯爵がまさにそういうことがある人なのだ。
(お義兄様にもよくそういうことがあるけれど……あれは研究に没頭してしまっている時ね。王太后様は違うのでしょうけど)
おそらく具合が悪くて、人と会いたくなくなるのだろう。体調が悪ければそういうこともある。
「どちらにせよ、君も今日は疲れただろう? ゆっくり休むといい」
マティアスがやさしく微笑んでエミーリアの頬を撫でる。
たったそれだけで真っ青だったエミーリアの顔は真っ赤になった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。