3:チョコレートは恋の媚薬

 婚約が決まり、マティアスが婚約者であるエミーリアと会ってから数日。

 それから毎日届けられるエミーリアからの手紙は、さほど情熱的なものではない。

 その日どのように過ごしていたかとか、いつもこんなものを好んでいるだとか、どちらかといえばエミーリア自身のことばかりだ。それもたいていは便箋二枚程度で、執務の合間の休憩に読むことがマティアスの日課になりつつあった。

 恋をしてください、などと言っていたわりには甘い言葉も媚びる言葉もなく、マティアスとしては少し――いや、かなり拍子抜けだった。身構えてしまったのが馬鹿馬鹿しくなる。

 マティアスは今日も届いた手紙を読んでいた。エミーリアからの手紙には屋敷の庭の木に鳥が巣を作っていた、というもの。庭師が撤去しようとしたので止めたらしい。しばらくしたら雛の姿が見られるかもしれないから楽しみだ、と書いてある。

 ふ、とかすかに笑みを零すとヘンリックがマティアスを見て問いかけてきた。

「それ、シュタルク嬢からの手紙?」

「ああ」

 へぇ、とヘンリックはにやにやと笑う。

「健気だよなぁ。毎日毎日。おまえ、返事は書いたの?」

「……書く前に次の手紙がくる」

「いや、それにしたって二、三通に一度くらいは返事を書けよ」

 ヘンリックの言うことはもっともなのだが、マティアスには手紙に書くようなことは特にない。毎日執務に追われている。

 そしてエミーリアの手紙にも、マティアスからの返事を催促するような内容はなかった。質問すらない。

 マティアスは返信の内容に困って眉間の皺を深くした。

「参考までに、おまえならどんな内容を書くんだ?」

 ヘンリックはマティアスよりもずっと社交的だ。甘い顔立ちが女性には魅力的に見えるらしく、貴族の令嬢はもちろん侍女たちにも人気だ。

「んー? 君は可愛いよ、綺麗だよ、世界で一番輝いてるよ……みたいな?」

 女の子は基本褒められると喜ぶからね、と笑う親友にマティアスは呆れたようにため息を吐く。この男はいつか女性問題で刺されるんじゃないだろうか。

「……まったく参考にならないことだけがわかった」

「まぁまぁ、シュタルク嬢はなんて?」

「次に会うときにチョコレートを持っていく、と」

「そういえばそんなこと言っていたな。でもさ、知っているのかな? それとも計算?」

 エミーリアに対して計算高い令嬢という印象はないが、それでも女性がいくつもの顔を使い分けているのは常識だ。

「何がだ」

 ヘンリックの意味ありげな言葉に、マティアスはわずかに苛立ちを見せる。もったいぶった言い方はあまり好きではないのだ。

 博識なマティアスが知らないことにヘンリックは驚いたが、確かに彼はこういう分野には興味がない。どちらかというと、恋の駆け引きの話だ。

「チョコレートって、媚薬にもなるんだけど」

「……媚薬?」

 不穏な単語に、マティアスは眉を寄せる。眉間に刻まれた皺がなくなる日はくるんだろうか、とヘンリックは思いながら頷いた。

「そう。媚薬」

 マティアスの眉間の皺は、ますます深くなるばかりだった。



 チョコレートを売り始めた菓子店は、たくさんの女性が集まっていた。

「人気というのは本当なのねぇ」

 近くまで馬車で乗りつけ、店の前までやってきたエミーリアは感心するように息を吐き出した。

「まだ午前中なのにすごい人ですね。やっぱり私が買ってきましょうか? お嬢様は馬車で待っていてくだされば」

「いいえ、せっかくここまで来たのだから店の中に入ってみたいわ。何事も経験ですもの」

 ぎゅうぎゅう詰めとまではいかないが、店内は動き回ることは難しそうなくらいに混みあっている。

 甘い香りが鼻をくすぐる。

 チョコレートといっても種類がたくさんあった。ショーウィンドウには綺麗にチョコレートが並べられていて、甘いものから少し苦めのもの、アーモンドが中に入っていたり、ドライフルーツが入ったものもある。

「こんなにたくさんあると悩んでしまうわね……」

「そうですねぇ……」

 ショーウィンドウの前でエミーリアとハンナは呟く。

 棚には他にも菓子が並んでいるが、やはり今の流行りは真新しいチョコレートのようだ。客は皆ショーウィンドウをかじりつくように見ている。

(甘いものがお好きみたいだったけれど、どのくらい甘いのが良いのかしら。あまり甘すぎるのはダメかもしれないし)

 身近にいる男性を思い浮かべて、エミーリアは悩んだ。たとえば、兄は甘いものは好まないし、父も食べているところを見たことがない。この間マティアスが食べていたのはバターをたっぷり使ったクッキーなどで、甘すぎるものではない。

「長い時間悩んでいても無駄よね、何種類か買ってきましょう」

 これを口実にマティアスの好みを聞けばいい。知らないことがたくさんあると、それだけで知る楽しみがうまれるからエミーリアはこういう過程が嫌いではなかった。

「手紙で尋ねておけばよかったのではないですか?」

「あの手紙はわたくしを知っていただくためのものだもの。お忙しい陛下からお返事を催促するようなことは書けないわ」

 ハンナの助言もあって、手紙はそれほど長くならないようにしている。しかしマティアスがそれらをすべて読んでくれたかどうかは、今のエミーリアには知る術がない。

(お会いしたときに、手紙も迷惑でないかお聞きしなくちゃ。……嫌われたくはないもの)

 結局エミーリアはミルクチョコレートと、ビターチョコレート、そしてアーモンドの入ったチョコレートを購入した。




「お久しぶりです、陛下」

「一週間前に会ったし、君からの手紙が毎日届くので久しぶりという感覚はないんだが」

 少しトゲがあるような言い方だった。

 機嫌が悪いのか、それともエミーリアに対して怒っているのか。

(ああ、でも手紙を読んでくださったのね)

 たったそれだけのことに、エミーリアはほっと胸をなでおろした。

 たとえ報告書ほどの厚みがないごく普通の文量の手紙だとしても、忙しいマティアスはエミーリアからの手紙など読んではくれないかもしれない、と少しだけ不安だった。

「……申し訳ありません、陛下とはこうしてお会いできる機会も限られておりますから、少しでもわたくしを知っていただきたいと思って手紙にしたのですけど」

 エミーリアは静かに目を伏せる。

 けれど、マティアスに煩わしいと思わせているのならこれは失敗だ。良い方法だと思っただけに、平静を装うとしてもエミーリアは悲しげな顔になる。

「……ご迷惑でしたよね、以後控えます」

 手紙はダメだったか、とせっかく婚約者に会えたというのに気分が沈む。

 マティアスはそんなエミーリアを見て、おそらく言葉選びを間違えたらしいということだけはわかった。ヘンリックからの「会って早々何やってんだ」と言いたげな視線が痛い。

 とはいえ、エミーリアに会う前にマティアスの不信感を煽るようなことを言ったのはヘンリックだ。

 女性はたやすく表情を変えることができる。それをマティアスは知っていたし、少年であった頃は手のひらの上で転がされるように騙された。

 だからどんなに泣きそうな顔をしていても、それをそのまま受け取ることはできない。少なくともマティアスとエミーリアの間には、彼の不信感を払拭するだけの信頼はない。

「……迷惑とは言っていない」

 悩んだ末に、とにかくそれだけは伝えておかねばとマティアスは重い口を開いた。

 その言葉にエミーリアは顔をあげた。しかしマティアスの眉間の皺を見てまた目を伏せる。

「ですが、手紙は読むのも手間でしょうし」

 社交辞令だと思ったのだろう、エミーリアは結論を変える気はないようで、マティアスはさらに付け加えた。

「あの程度の長さなら仕事の合間に読んでも別に影響はない」

 息抜きになってちょうどよかった、とまでは言わなかった。

 エミーリアは再び顔をあげて、今度はじぃ、っとマティアスを見つめた。ペリドットのような緑色の大きな瞳に、マティアスはたじろぐ。その瞳は無邪気な子どものようでもあったし、子犬のようでもあった。つまり、まったく悪意がない。

「……では、また送ってもよいですか?」

 マティアスをまっすぐに見上げて、エミーリアが少し躊躇いがちに問いかけてくる。

 断る理由はない。

「……好きにすればいい」

 よかった、とエミーリアは嬉しそうに微笑んだ。その笑顔からは打算めいたものも、感じない。

 だからこそマティアスは戸惑っている。

「そうだ、先日お話したチョコレートを持ってきたんです。陛下のお口に合うといいのですが……」

 そう、問題なのはそのチョコレートだ。

「……君は知っていたのか、それとも知らなかったのか」

 ぽつりと呟いたマティアスの声にエミーリアは首を傾げた。

「申し訳ありません、なんのお話でしょう?」

 こんなときのエミーリアの表情から、マティアスは嘘をついているのかどうかわからなかった。政治に絡む嘘を見抜くことは上手くなったが、女性がつく嘘というのは見破りにくい。

「……チョコレートは、媚薬になるときいたが。まさかとは思うが君は」

「びやく……?」

 大きな瞳をまるくして、エミーリアはオウムのようにマティアスの言葉を繰り返した。

 そして一瞬のち、エミーリアの賢い頭がその言葉を正しく認識すると、顔から湯気が出るのではというほど真っ赤になった。

「え、あ、し、しらな……あの、その……! た、他意はなくて、だってわたくしが以前に食べたときはぜんぜんそんなこと……!」

 可哀想なほどに狼狽える姿に、マティアスの不信感も吹き飛んだ。

「も、申し訳ございません、これは持ち帰りますから……!」

 ぐしゃりと紙袋が潰れてしまうほど強く抱きしめて、エミーリアが半泣きになる。思えば箱入りの令嬢に向かって意地の悪いことを言ってしまった。

「あー……えーと、そんなに強い効果があるもんが大っぴらに売られるわけないし、そんな許可出さないし、食べても問題ないとは思いますよ」

 見かねたヘンリックが割り込んできた。

 もしそんな効果を望んでマティアスに食べさせようとしたのなら問題だが、エミーリアがそんなことを考えてもいなかったのは一連の流れで明らかだ。

「え……えっと」

「失礼。申し遅れました。ヘンリック・アドラーと申します」

 さすが色男というべきだろうか、混乱するエミーリアの手を取るとその指先に口づけながらヘンリックは挨拶した。

「……先日もいらっしゃいましたね、ヘンリック様。こちらこそ陛下の近衛騎士であるあなた様にご挨拶が遅くなり申し訳ございません。エミーリア・シュタルクと申します」

 ヘンリックが間に入ったことで、エミーリアも平静さを取り戻したらしい。どうしたものかと思っていたマティアスは胸を撫で下ろした。

「せっかく陛下のために持ってきてくださったんですし、頂きましょうよ、ねぇ陛下?」

「え、ああ……」

「で、ですが。潰してしまったので中身が無事ではないかもしれませんし……」

 チョコレートが入っている紙袋はぐしゃぐしゃだ。中のチョコレートは箱に入っているとはいえ、どうなっているかわからない。

「シュタルク嬢の胸に潰されたお菓子ならどんな形になっていても男にとってはご褒美ですよイテッ」

「おまえはもう少し言葉を選べ」

「無口な陛下よりマシだと思いますけどねぇ。ほら、シュタルク嬢。いつまでも立っていないで座ってください」

 いつの間にかにヘンリックはエミーリアからチョコレートの入った紙袋を受け取ってテーブルに置き、エミーリアのために椅子を引いた。

「あ、ありがとうございます……」

 にこりと笑う好青年のペースに巻き込まれながら、取り乱してしまったことを恥じ入る。

「ああほら、平気ですよ。箱が少し潰れたくらいです」

 勝手に袋からチョコレートを取り出したヘンリックは、エミーリアが口を挟む隙も与えずにチョコレートをひとつ口の中に放り込んだ。

「あっ」

「うわ、あまっ」

 チョコレートを食べてすぐに、ヘンリックはその甘さに声を上げた。彼が食べたのはミルクチョコレートだ。甘いものが好きではない男性には甘すぎるだろう。

「……それは一番甘いチョコレートですよ」

「だ、そうですよ。どーぞ陛下」

 おじゃま虫のようなヘンリックの行動も、エミーリアは毒味だとすぐに気づいた。本来ならばそれ専門の者がいるはずだが、それこそそんな人間がいたら雰囲気はぶち壊しだ。

 おそらくヘンリックなりの気遣いか、それともマティアスがそう頼んだのか。エミーリアには知る術がない。

「……甘いな」

 ミルクチョコレートを食べたマティアスがぽつりと零した。やはりこれは男性には甘すぎるのだろう、とエミーリアは心の内に書き留めておく。

「他に甘さが控えめのチョコレートと、中にアーモンドの入ったものが……」

「あ、俺はアーモンドのが好きですね」

 どのチョコレートもヘンリックがひとつ毒味をしたあとにマティアスが食べる。

(あら?)

 甘すぎるだろうと思っていたミルクチョコレートの減りが早い。同席しているヘンリックはあまりチョコレートに手を伸ばしていないし、食べたとしてもビターかアーモンドのものだ。エミーリアはまだひとつも食べていない。

(……本当に甘いものがお好きなのね)

 つまり、先ほどからヘンリックの話を聞いているエミーリアが気づかぬうちにマティアスが黙々とミルクチョコレートを食べていたということだ。

(甘いものが苦手そうなヘンリック様には申し訳ないけれど、今度またミルクチョコレートを買ってこよう)

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