第3話 謎の食中毒事件


数日後の岡本匠の会社では、匠の上司山口鉄平が、昼食後ひどい腹痛に襲われた。


「山口さん、大丈夫ですか? 救急車を呼びましょうか?」


「うううう、腹が痛い。トイレ、トイレ」


山口は、腹を抑えうめきながらトイレに駆け込んだ。額には、冷や汗が噴出していた。ひどい吐き気と腹痛で、やっとの思いでトイレの個室にたどり着いた。それでも腹痛は治まらず、救急車を呼ぶことになった。百八十センチの長身で、さらりとスーツを着こなし、設計部でもルックスの良さでは右に出る者はいないと女子社員からいわれている山口だったが、見るも無残な姿だった。


「山口さん、昼に何か悪いものを食べたのかつ?」


同僚の男が話しかける。


「水沢さんの弁当……」


それを聞いた別の女子職員が驚きの声を上げた。


「えつ、水沢さん!」


「水沢さんのお弁当を食べたって、どういうこと……」


他の女子社員たちは、山口の腹痛よりも弁当をもらう彼女がいたことがショックで口々にその事を言い合った。


水沢春美は、その騒動を聞きつけ経理課の部屋を出て、設計部の部屋へ駆け込み山口のもとに走った。


「鉄平、どうしたの! しっかりして。私のお弁当のせいじゃないわ! 違うってば」


水沢は取り乱し、脈絡のない言葉を並べて叫んだ。


「ああああああ! あたしの弁当があ! 嘘嘘嘘。」


設計課の男性が、そんな様子を見てなだめた。


「今、救急車呼んでるから、もうすぐ来る!」


山口の方を向き直ると、眼を見て励ました。


「山口、もうすぐ来るから頑張れ」


「しっかりして! 鉄平、大丈夫!」


遠くから、救急車のサイレンの音が近づいてきて、事務所ビルの前で止まった。救急隊員たちは、様態を手早く確かめ、担架に乗せた。


「一緒に行ってくださる方は?」


隊員の一人が、周囲にいる人間を見ながら問いかけた。


「ここは、俺が付き添いをする。水沢さんは待っててください。後で連絡するから」


水沢春美は、目に涙をためて、私のせいじゃない、違う違うと、叫び続けていた。救急車で運ばれた山口鉄平は、げっそりとして顔面蒼白になっていた。それでも、救急車に乗り病院に向かっていることがわかると、いくらか気持ちは落ち着いてきた。


病院に到着すると、救急外来の四十前後の医師が診察した。


「昼食は何を食べましたか?」


医師が訊いた。


「友人からもらった弁当です」


「おかずには何が入っていました?」


「唐揚げと、卵焼き、ブロッコリーです。ごはんに、ハート形のノリが付いていました」


医師は、ハート形かどうかは関係ないだろう、と思いながら考え込んだ。


「特に変わったものを食べたわけじゃありませんが、食中毒の症状です。食べ物から細菌が入ったとしか思えません。吐きたくなったら吐いてください」


「先生、俺は、助かりますか」


「かなり下痢がひどかったようです。脱水症状を起こしているかもしれません。しかし、命に別条はありませ。点滴をして、しばらく安静にしてください」


その話を聞いていた付き添いの同僚は医師に尋ねた。


「食べ物が、少し古くなったぐらいで、こんなひどい食中毒になるんですか?」


「それは、細菌の種類にもよりますが、若くて健康な人がこんなに症状がひどくなるのは、かなり毒性の強い細菌によるものです。ただ古くなっただけではなく、人為的に何かが入れられていたのか?」


「えっ。そんな…… よりによってうちの職場で……」


同僚は、山口の方に向き直ると、言いにくそうに耳打ちした。


「水沢には気を付けろ。あいつ何か企んでいるぞ。」


「あいつは悪くない……」


「女は外見じゃわからない。惑わされるな」


「そんなはずはない。ハエがとまっただけでキャッというような奴だ」


「お前はうぶだからな」


「うう……」


山口は、低く唸った。


「わかったよ。心配してたから、電話しておく。たいしたことなかったって伝えておく」


「悪いな」


山口鉄平は、静かに目を閉じて意識を自分の腹部に集中させた。ゴロゴロと蠕動運動をしていたそこは薬でなだめられ、寝かされた小動物のように、おとなしくなっていた。なぜという問いが頭の中でぐるぐる回り、次第に意識が遠のいていった。


付き添ってきた同僚は、携帯を取り出すと来る前に聞いておいた水沢真紀の番号に電話した。二回ほど着信音が鳴ると、慌てた様子の声が飛び込んできた。


「はいつ、水沢です! 鉄平の容態はどうですかつ?」


「今は、状態は落ち着いて寝てるよ。原因は食中毒だった。かなり下痢がひどくて、入院することになった。命には別条はないから安心しろ」


「ああ、よかった。もうずっと心配で、震えが止まらなくて」


「なあ、水沢。あいつが食べた弁当って、いつ作った?」


「それ、どういうこと? 何か腐っていたっていうこと? そんなこと絶対あり得ない!」


「いいか。落ち着いて聞け。昼食に食べたものの中に、かなり毒性の強い細菌が繁殖していた可能性が強いんだ」


「嘘っ! そんなことありえない。だって、私も同じものを食べたんだからっ。」


「おい、それ本当かよ。あいつ、朝食はトーストとコーヒーだけしか食べてなくて、ずっと一緒にパソコンで設計の仕事してたんだ。それまでは何ともなかったんだ。だから昼食の中に細菌が入っていたとしか考えられない」


「鉄平もそのこと知ってるんですね」


「ああ、さっき医師から説明があった。あいつも信じられないって言ってたけどな」


「ひどい、私のせいじゃないのに」


春美は、これで二人の仲は気まずくなるのではないかと、気が気ではなくなった。社会人になって、初めて彼氏ができたと思っていたのに。誰かが自分を陥れようとしているのではないか?


春美は目に見えない敵に怯えた。いつ、どこで弁当に細菌が? もしかして、給湯室で……


疑惑が確信に変わっていった。


そうだ、そうに違いない。それしか考えられない。


でも、誰が……何のために……





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